『キリストを信じる』
神との個人的な関係を持つには一体どうすればよいのでしょうか。
修行をつんだり、良い行いをすれば神を知ることができるようになるのでしょうか。
そうではありません。ここではあなたがどのように神との親しい関係を持つことができるのかという
ことを4つのポイントを挙げて説明しています。
● 1
「創造主なる神はあなたを愛して下さっていて、あななの人生におけるすばらしい御計画を知らせようとしておられるのです」。
創造主なる神はあなたを愛してくださっていて、すばらしい人生の目的を御用意されています。
あなたは創造主なる神様によって造られました。そればかりではなく、神はあなたのことを心から愛して下さり、共に永遠に過ごすことを望んでおられるのです。
イエスは聖書の中で次のようにおっしゃっています。
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」。
(ヨハネ3:16)
イエスがこの地に来て下さった故に、 私達ひとりひとりが創造主なる神を個人的に知ることができるのです。イエスお一人だけが人生の目的と意味を私達にもたらして下さるの唯一お方です。
一体何が私達が創造主なる神を知ろうとするのを妨げているのでしょうか?
● 2
「人は全て罪の性質を持っているため、創造主なる神から離れているのです。
この罪のために神を知ることができないばかりでなく、神の愛とあなたのために用意されている御計画をも知ることができないのです」。
私達すべては罪がある故に、神から離れているのです。 ですから神の愛や真の人生の目的を知り、経験することができないのです。
つまり、私達はイエスが必要だということなのです。実際、聖書には次のように書かれています、
「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず」。
(ローマ3:23)
神は私達一人一人と個人的な関係を持ちたいと望んでおられるのですが、それに反し私達は自分のしたいように、また思うがままにしようとするのです。
私達は頑固で、身勝手でまた約束もよく守ることのできない人間なのです。
実際のところ、イエスに対する多くの人達の態度は反逆的なものか、あるいはその反対の無関心のどちらかでしょう。
しかしそれが聖書が言うところの罪:弓道などで使われる用語、”的外れ” なのです。
聖書には罪の報酬は死、つまり死とは神から霊的に離れているということであると書かれています。
「なぜならば、罪の報いは死であり、神の恵みの賜物は、私たちの主キリスト・イエスにおける永遠の生命だからである」。
(ローマ6:23)
私達がいくら自分の力で神に近づこうとしても、それは必ず失敗に終わるのです。罪を持ったままでは、神の目から見て良しとはされないのです。
●3
「イエス キリストは私達の罪のために創造主なる神から与えられたのです。
それゆえ、イエスを通してのみ、神の愛、また自分の人生の目的を知り経験することができるのです」。
イエス キリストは人間がもっている不完全さや罪のために神様が与えて下さった解決の鍵なのです。イエスの十字架(苦しみの杭)上の死により、私達はこれ以上神から離れずにすむのです。
イエスは私達の罪のために代わりに十字架(苦しみの杭)上で代価を払って下さり、そのことによって神と人との間にある大きな溝をうめて下さったのです。
自分の力で一生懸命神様に近づこうとするのではなく、ただ単にイエスを創造主なる神様を知る唯一の道だと信じ受け入れるだけなのです。
聖書はイエスが次のように語られた記しています。
「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません」。
(ヨハネ14:6)
また次のようにも語っておられます。
「イエスは彼女に言われた「わたしは復活であり、命です。わたしに信仰を働かせる者は、たとえ死んでも、生き返るのです。そして、生きていてわたしに信仰を働かせる者はみな決して死ぬことがありません」。
(ヨハネ11:25、26)
それ以上に、イエスはただ私達の罪のために死なれただけではなく、死からもよみがえられたのです。
「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、
葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファ(ペテロ)に現れ、その後十二人に現れたことです」。
(コリント人への手紙第一15:3~15:6)
そしてそれを通して、永遠の命を与えるという約束を必ず守られること、イエス自身が神のひとり子であるということ、そしてイエスを通してのみ、創造主なる神様を個人的に知ることができるということを証明して下さいました。
しかしながら、ただ神の御計画や目的を知るだけではまだ不足です。イエスが自分の罪のために代わりに代価を支払って下さったということを認め、イエスを自分の人生にお迎えする必要があるのです。
● 4
「私達はイエス・キリストを救い主として認め個人的に受け入れる必要があるのです。そして、神様の愛と神が御用意されているあなたの人生の目的と計画を知り、それを経験することが出来るのです」。
聖書には次のように記されています。
「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった」。
(ヨハネ1:12)
信仰によってイエスを受け入れるのです。
「あなた方は信仰によって救われているのです。そして、これはあなた方によるのではなく、神の賜物なのです。そうです、それは業によるのではありません。だれも誇ることのないためです」。
(エペソ・エフェソス2:8、9)
イエスを受け入れるということは、まずイエスが語られた言葉を信じ、そして自分の人生を御支配していただくようにお招きし、まったく新しい人に造り変えていただくのです。
『さて、ひとりのパリサイ人がいた。ニコデモというのがその名であり、ユダヤ人の支配者のひとりであった。この人が夜に彼のところに来て、こう言った。
「ラビ、わたしたちは、あなたが教師として神のもとから来られたことを知っております。神が共におられない限り、あなたがなさるこうしたしるしを行なえる者はいないからです」。
イエスは答えて言われた、「きわめて真実にあなたに言いますが、再び生まれなければ、だれも神の王国を見ることはできません」。
ニコデモは彼に言った、「どうして人は年を取ってから生まれることができるでしょうか。自分の母の胎にもう一度入って生まれてくることなどできないではありませんか」。
イエスは答えられた、「きわめて真実にあなたに言いますが、水と霊から生まれなければ、だれも神の王国に入ることはできないのです。肉から生まれたものは肉であり、霊から生まれたものは霊です。
わたしがあなたに、あなた方は再び生まれなければならないと言ったからといって、驚いてはなりません。
風はその望む所に吹き、あなたはその音を聞いても、それがどこから来てどこへ行くのかを知りません。霊から生まれた者も皆そのようです」』。
(ヨハネの3:1~3:8)
また、イエスはこうも言われています。
「見よ。わたしは、戸の外にたってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする」。
(黙示録・啓示3:20)