昨夜、知り合いの家の御通夜へ行って来ました。
呼ばれていた僧侶は、浄土真宗大谷派の方でした。
その御坊さんの講話は、過去に葬儀などで何回か聴いた事
がありました。他の御坊さんの様な、ありきたりな御話では
無く、何か隠したピリッとした味が、毎回あります。
その御坊さんの事を良く知る人によると、地方の仏教系高校
の校長を長年努められて、退職した御坊さんだそうです。
たぶん、校長に成れる程の方なので、僧侶としての地位も
有る方だと思います。 だから、御経が終わった後の、御話
を楽しみに待ちました。
今回の御話で心に残ったのは、
”人間は、死を迎える時に、死神に嫌だと抵抗しても必ず負け
ます。 100戦100敗します。 釈尊でさへ、負けました。
黙ったまま、受け入れたら良いのです。” 。。と。
この御話を聞いて、私は帰宅後も、”100戦100敗”の言葉
が残っていました。成る程、死神と戦(いくさ)をするとは、
今まで考えた事が有りませんでした。
それどころか、普段の人間は、この戦が必ず有ることすら忘
れています。 突然、戦の場に引き出されて、戸惑い、悩むの
が人間です。 浄土教の大目的は、多論を除いてシンプルに
して、普段の健康な時から、戦が有る事を忘れずに、心を
備えよと言っているように感じました。
”阿弥陀仏の名前を呼ぶだけで、天国に必ず行ける。”
3日間しか阿弥陀仏の名前を唱えていない人間に、 これを、
いきなり信じろと言っても、無理があります。 戦に出会えば、
必ず苦悩します。 しかし、50年間も無垢に信じて、名前を
呼び続けた人には、どうでしょうか?
答えは、戦に出会っても、安心して成り行きに従えます。
千年以上前の生きるだけがやっとの時代には、この阿弥陀仏
の方便は、有効で最善だったと思います。
①阿弥陀仏の名前を呼ぶ(念仏する)⇒日常に死を忘れず、
時間が有限なので、悔いの無い生き方を努力する。
②念仏を続行すると、日常の生活の中に阿弥陀仏を感じ、
阿弥陀仏により、生かされている。と感じ始める。
③自身の中に、阿弥陀仏の有難さ、ご恩を感じ始める。
④生死は全て、阿弥陀仏の手の平の上の事であり、死んでも
手の平の上に、今までどうり居るだけのことが、自然と
判る。そして、いよいよの戦の時は、大安心で楽しめます。
(以上は、私の勝手な解釈であることを、御了承して下さい)
さて、この過程では、時間が掛かり過ぎます。
普通の人間では、①がやっとかも知れません。 良くて②を
垣間見るぐらいでしょうか。
現代の人間に、短期間で④へ至る 道 は、一直線に
生かして頂いて ありがとう御座います
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