死別後、10年経過。
恋はしづらい(笑)。
なんだか周囲がザワザワ。
良く聞くのが、『死んだ人には勝てない』。
そして、『亡くなった方は美化される』。
両方とも幾度となく聞いた。
捉え方は、その時々で違った。
でも、いつも同じように感じていたのは、その二つの決まり文句を「死別を経験した人は言わない」ってこと。
経験のない人の多くがそう思い、そう話す。
こちらは『そのセリフ、もううんざり。言わないでくれ!』と思いつつ、無言でいるからなおさらいけない。
良く考えると、死別を経験しなかった昔々、自分もそう考えそう言っていただろう。
相手の立場に立ってことは難しい。
大きな悲しみを経験した直後は、もう感情の起伏が起こらないんじゃないかってくらいに、悲しみ100%の中に埋もれる。
分け入っても分け入っても、そこには悲しみしかない。
人生で一番の底まで落ちてしまう。どう俯瞰してみても、深い深い海底を這いずり回っている自分にピンスポが当たっているようにしか見えない。
そんな状態が一生続くように思えたが、少ないながらも友人や愛する人たちの存在が着実に上昇気流に乗せてくれる。
一気に上昇する特効薬は存在しない。
あると確信できたのは“時薬若しくは日薬”。
この薬の効果はヒトソレゾレだが、実感できたのは「誰かを好きになっている自分がいる」ことを感じた時だ。
もうだれも好きになってならないと思っていたが、実際はそうではなかった。
好きになっちゃうのだ。
でもそれってそれで良いの?という自問はあった。
ある種の罪悪感のような感覚は今でも多少ある。
『でも、~』と思うのだ。
良いか悪いかの判断は、自らに委ねられている。
それに対し、妻からは回答がないのだ。
万が一、あったらそれはそれで嬉しいのかもしれない。
だから、自分で決め、自分で責任をとればなんら迷う必要はないのだ。
もしも、妻と私の立場が逆だったら、といつも思う。
もしも逆だったら、長い時間を悲しみに暮れることを果たして望んでいるのだろうか?
→ 否。
ずっと一人寂しく時間を過ごすことを望むのか?
→ 否。
人を愛することをやめ、好意を持つことの高揚感を押さえつけ、ずっと一人で考え、決断し、生活することを望むだろうか?
→ 否。
「生前、そんなに愛してくれたのか」と悲しむ姿は、少しの間感じ入るものがあるかもしれない。
でもそれを長い間、継続して欲しいとは思わない。
好きだった人が自分と別れても、幸せになって欲しいと思う。
もしも、自分でどうにもできないなら、誰でもいい、好きな人を見つけて幸せになって欲しい……。
そう、思う。
我々は深い深い傷を負ったのだ。
猛禽類の鋭い爪で、臓器を半分以上えぐり取られたのだ。
時が経ち、その傷口は塞がり、痛みは消えた。
しかし、傷跡は残った。そして時々、シクシクとその傷が疼く。
日常生活ができるのだから、治ったといば治ったのだろう。
でも傷口を見るたびに、傷を負った時のことを思い出す。
悲しみは思い出に変化しつつある。
が、まだ時間はかかる。
世間の皆様にその痛々しい傷口を見せる必要はない。
知って欲しい人にだけそっと見せる(笑)。あくまでもそっと。
そうすると、相手もじつは~と傷を見せてくれたりする。
嫌われるヤツは、他人(ひと)のは見ておきながら、自分のは見せないヤツ。
そして、人の心の中に土足でズカズカ入ってくるデリカシーのないヤツ。
もう私は、一度死んでいる。
妻が亡くなった時点で、一緒に死んでいるのだ。
だから、今は人生の第二幕(かな)。
とすると、死別後10年経過したから、第二幕での私の年齢は10歳か?
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