「なぜ、人を殺してはいけないのか?」恐ろしいことにこの質問が巷で“論議”されている。更に、もっと恐ろしいことに、その回答がきちんとできる人が少ない。世界は終わりに近づいている。
では、クリスチャンはその問いに答えることができるだろうか。クリスチャンが答えを用意するため、2通りのアプローチが必要だと、師はメッセージで語る。
聖書は殺人に対して何と言っているか、という基本。
霊的戦いという終末の時代における適応という側面からの見解。
順序が逆になるが、まずから。最近の殺人の動機は、昔から定番とされる、お金、異性関係、恨み辛みなどではない。「人を殺してみたかった。」こんな気味の悪い、理解不能な自己主張が動機であることが多い。屈折した精神病質を潜ませ、常軌を逸する異常人格者が増えている。彼らは、相手の存在に対する意識や感情ではなく、単に自分のテリトリーを守るために相手を“消去”=殺人に及ぶ。それを当然と考え、後悔の念や罪悪感を持たない彼らの心は、まさにその魂が闇に支配されている状態だ。
人間が人間の生命を暴力的に奪う行為を「殺人」と言う。「なぜ殺人はいけないのか。」という質問は、自分とは違う一人の人間を人間を考えていないからだ。つまり、人間という“存在”の意味を知らず、またそれが“尊い”こともわからない故に起こる質問だ。聖書=神様の言葉は、「神様の目に人間は尊い」と語る。神様はがその存在を認め、人間を大切に思っていると語っている。それらを否定することは、神への冒涜に他ならない。
殺人を奨励する法律を持つ国はないだろう。にも拘らず、毎日どこかで殺人は起きている。私は一般市民で殺人とは全く無関係です、という立場であれば、こんな殺人連鎖の世界になるはずがないのだ。「殺すなかれ」は普通に生活してさえいれば、簡単に守れるという戒めではないことを、イエス様がマタイ伝で指摘されている。相手に腹を立て、相手を憎み、妬み、怒る思いは心の中で殺人が行われていることだ、と。
神様は天地と共に人間を創造された。神様のかたちにかたどって、神様と交わりができる存在として、神様と愛し合う対象として。聖書はそれを繰り返し伝えている。また、「汝殺すなかれ」と書かれたモーゼの十戒よりもずっと前、洪水から逃れたノアの家族にも、祝福のメッセージとして神様が語られた。
人の血を流す者は人によって自分の血を流される。人は神にかたどって造られたからだ。(創世記9:6)
これが殺人を禁ずる聖書的理由。人の命は神様のものだから、人が勝手に奪ってはならないのだ。人間という存在の意味、そこに注がれている大いなる愛を知らない間は、どれだけ考えても「なぜ人を殺してはならないか」の答えは出ない。神様の思いを受けなければ、前に見るのは死屍累々の世界だけだ。
神様に背いたアダムとイブが追放されたエデンの東は、罪によって神様から離れて生きる世界だった。そこでは、神様との関係だけでなく、人間同士の関係において、最も近しい夫婦や兄弟でも傷つけ合い、関係は破綻した。挙句、カインは弟アベルを殺し、人類史上初の殺人者となった。カインは、ノドの地をその名の意味通り、彷徨うことになるが、神様はその額に印を付けられた。罪の結果を背負って生きなければならないカインに付けられた印は、犯罪者のレッテルではなく、神様が彼を守っていることを示す印。主はカインに出会う者がだれも彼を撃つことのないように、カインにしるしを付けられた。(創世記4:15)神様は、殺人を犯してしまったカインを見捨て、滅ぼされたのではない。それでもなお、神様の守りの中で救いの機会を与えて下っているのだ。なぜ人を殺してはならないとつぶやく人間に対してですら、神様の守りが確かにある。人間の頭では考えも付かないむちゃくちゃな神様の恵み、究極の救いの業。これが死屍累々の現代に生きる私たちの希望であり、その神様の印こそがイエス様の十字架だ。
「なぜ人殺しがいけないのか。」その答えは聖書にあった。そして、もっと大切な「いのち」についての答え、「なぜ生きるか」もまた、聖書にあるのだ。
ロサンゼルス(グレンデール)の家の教会で、毎週集まっています。美味しい食事を囲みながら、えんじぇる田中牧師の聖書メッセージから、生きる知恵と希望を語り合いましょう 「教会って敷居が高い。。。」と悩んだこがのある方、ぜひ一度おいでください。教会は平和と笑いと聖霊様の満ちるところ。いつでもご連絡ください213-324-6942 / MUTSUMI
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では、クリスチャンはその問いに答えることができるだろうか。クリスチャンが答えを用意するため、2通りのアプローチが必要だと、師はメッセージで語る。
聖書は殺人に対して何と言っているか、という基本。
霊的戦いという終末の時代における適応という側面からの見解。
順序が逆になるが、まずから。最近の殺人の動機は、昔から定番とされる、お金、異性関係、恨み辛みなどではない。「人を殺してみたかった。」こんな気味の悪い、理解不能な自己主張が動機であることが多い。屈折した精神病質を潜ませ、常軌を逸する異常人格者が増えている。彼らは、相手の存在に対する意識や感情ではなく、単に自分のテリトリーを守るために相手を“消去”=殺人に及ぶ。それを当然と考え、後悔の念や罪悪感を持たない彼らの心は、まさにその魂が闇に支配されている状態だ。
人間が人間の生命を暴力的に奪う行為を「殺人」と言う。「なぜ殺人はいけないのか。」という質問は、自分とは違う一人の人間を人間を考えていないからだ。つまり、人間という“存在”の意味を知らず、またそれが“尊い”こともわからない故に起こる質問だ。聖書=神様の言葉は、「神様の目に人間は尊い」と語る。神様はがその存在を認め、人間を大切に思っていると語っている。それらを否定することは、神への冒涜に他ならない。
殺人を奨励する法律を持つ国はないだろう。にも拘らず、毎日どこかで殺人は起きている。私は一般市民で殺人とは全く無関係です、という立場であれば、こんな殺人連鎖の世界になるはずがないのだ。「殺すなかれ」は普通に生活してさえいれば、簡単に守れるという戒めではないことを、イエス様がマタイ伝で指摘されている。相手に腹を立て、相手を憎み、妬み、怒る思いは心の中で殺人が行われていることだ、と。
神様は天地と共に人間を創造された。神様のかたちにかたどって、神様と交わりができる存在として、神様と愛し合う対象として。聖書はそれを繰り返し伝えている。また、「汝殺すなかれ」と書かれたモーゼの十戒よりもずっと前、洪水から逃れたノアの家族にも、祝福のメッセージとして神様が語られた。
人の血を流す者は人によって自分の血を流される。人は神にかたどって造られたからだ。(創世記9:6)
これが殺人を禁ずる聖書的理由。人の命は神様のものだから、人が勝手に奪ってはならないのだ。人間という存在の意味、そこに注がれている大いなる愛を知らない間は、どれだけ考えても「なぜ人を殺してはならないか」の答えは出ない。神様の思いを受けなければ、前に見るのは死屍累々の世界だけだ。
神様に背いたアダムとイブが追放されたエデンの東は、罪によって神様から離れて生きる世界だった。そこでは、神様との関係だけでなく、人間同士の関係において、最も近しい夫婦や兄弟でも傷つけ合い、関係は破綻した。挙句、カインは弟アベルを殺し、人類史上初の殺人者となった。カインは、ノドの地をその名の意味通り、彷徨うことになるが、神様はその額に印を付けられた。罪の結果を背負って生きなければならないカインに付けられた印は、犯罪者のレッテルではなく、神様が彼を守っていることを示す印。主はカインに出会う者がだれも彼を撃つことのないように、カインにしるしを付けられた。(創世記4:15)神様は、殺人を犯してしまったカインを見捨て、滅ぼされたのではない。それでもなお、神様の守りの中で救いの機会を与えて下っているのだ。なぜ人を殺してはならないとつぶやく人間に対してですら、神様の守りが確かにある。人間の頭では考えも付かないむちゃくちゃな神様の恵み、究極の救いの業。これが死屍累々の現代に生きる私たちの希望であり、その神様の印こそがイエス様の十字架だ。
「なぜ人殺しがいけないのか。」その答えは聖書にあった。そして、もっと大切な「いのち」についての答え、「なぜ生きるか」もまた、聖書にあるのだ。
ロサンゼルス(グレンデール)の家の教会で、毎週集まっています。美味しい食事を囲みながら、えんじぇる田中牧師の聖書メッセージから、生きる知恵と希望を語り合いましょう 「教会って敷居が高い。。。」と悩んだこがのある方、ぜひ一度おいでください。教会は平和と笑いと聖霊様の満ちるところ。いつでもご連絡ください213-324-6942 / MUTSUMI
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