きょうの教会ごはん 

神様との食卓で、一緒にご飯を食べましょう!

2/19のアプリケーションⅡ

2012年02月22日 | 羊、朝の一声
「死生学」の実践でのこと。同じ実践を一度したことがあります。正確な記録はないのですが、その時と比べて「変わった!」と思う点をいくつか発見しました。

まず、実践に対する姿勢が変わりました。調べてみたら、以前の実践は2010年10月。えんぢぇる師を宣教に送り出すほぼ直前です。師が日本宣教へ赴いてからは当然、教会も余儀なく変化しましたし、曳いては私の信仰生活スタイルも変わりました。良いか悪いかは私自身が判断できることではありませんが、1年余の「変化」が影響を与えたことは間違いありません。そのためか、以前の実践時より、ずっと真摯に自分の「人生」に向き合ったように感じました。

これを師が見ていたら、『前は本気だしてなかったんかい』と言われそうですが、時間としては今回はかなり短縮せざるを得ない状態でしたし、二回目だから軽視してしまうのが普通(?)かな、とも思います。でも今回、「最後までこの手に残しておきたいもの」を深く黙想し、その大切さをかみ締めることができたのでした。それは、私個人の信仰や生活状況はもちろん、やはり「時代」なのだと思います。宣教派遣によって間接的とは言え日本の現状を見聞きし、また3-11東日本震災を経て、1年前よりはずっと(たぶん、or 願わくば)深い日本リバイバルへの祈りを通して、霊に語られる「終末に迫りつつあるこの時代」。そんな思いをいただきました。

実は、「最後までこの手に残しておきたいもの」についてまだ考えています。答えは今、得られないかもしれません。ただ一日一日、この答えを得るために、主なる神様を見上げ、「最後までこの手に残しておきたいもの」を求め続けていこうと思います。来たり来る「その日」のために。



見よ、わたしはすぐに来る。この書物の預言の言葉を守る者は、幸いである。(黙示録22:7)

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