一昨日の日曜は、一宮市三岸節子記念美術館で開催中の企画展「河鍋暁翠展-父・暁斎から娘へ、受け継がれた伝統-」の関連行事の講演会「河鍋暁翠展に寄せて―父と娘の絆―」 を聴いてきました。
講師は、美術史家の狩野博幸さん。文化審議会委員の絵画、彫刻部門を10年務められた方です。
暁斎を中心に色々な話が出ましたが、私が一番面白いと思ったのが『狂』。
曽我蕭白は『狂人と呼ばれて喜んだ』。
北斎は、『画狂人』、『画狂老人』と一時期名乗っていた。
そして暁斎は、暁斎の前は『狂斎』と名乗っていた。
狩野博幸さんが説くには、『狂』は17世紀の中国が明の時代の芸術思想で、『芸術表現においては“狂”の意識が大事』と言います。
『“狂”とは、孤立を恐れない』『“狂”とは、人とは違う。自分の思いを大事にする。伝統に染まらない』ことだと言います。
『狂』の思想は、18世紀には京都(蕭白)に、19世紀には江戸(北斎)に伝わってきたと言います。
なるほど、それで北斎は『画狂老人』だったのか。私は単に絵に狂ってることを表しているのだと思ってました。
その他の興味ある事柄。
・暁斎は、官憲に捕らえられ牢屋入り。放免時には人前で鞭打ち50の刑。捕らえられた理由ははっきりしない。
・暁斎の元には、欧州から日本に派遣された役人が多数集まった。
・暁斎はデラシネ(根無し草)になった。暁斎の元に集まる「おやとい外国人」もデラシネ。
・表絵師と奥絵師(将軍に直にまみえる)。
・上野で開かれた書画会。
・暁翠は、数え5歳で、父暁斎は絵のお手本(線、色、構図)を渡した。江戸時代は、数え6歳がスタートだが、一年早い。
・東京美術学校教官に、暁斎でなく狩野芳崖が任命
・河鍋楠美さん(暁斎のひ孫、暁翠の孫)が狩野博幸さんを訪ねてきたこと(狩野派絵師としての暁斎展を開いてほしい)。
・暁斎は狩野派絵師として、狩野派の筆法を習熟、また弟子に狩野派の筆法を教えること(口伝)ができる。
あっという間の1時間38分でした。
講師は、美術史家の狩野博幸さん。文化審議会委員の絵画、彫刻部門を10年務められた方です。
暁斎を中心に色々な話が出ましたが、私が一番面白いと思ったのが『狂』。
曽我蕭白は『狂人と呼ばれて喜んだ』。
北斎は、『画狂人』、『画狂老人』と一時期名乗っていた。
そして暁斎は、暁斎の前は『狂斎』と名乗っていた。
狩野博幸さんが説くには、『狂』は17世紀の中国が明の時代の芸術思想で、『芸術表現においては“狂”の意識が大事』と言います。
『“狂”とは、孤立を恐れない』『“狂”とは、人とは違う。自分の思いを大事にする。伝統に染まらない』ことだと言います。
『狂』の思想は、18世紀には京都(蕭白)に、19世紀には江戸(北斎)に伝わってきたと言います。
なるほど、それで北斎は『画狂老人』だったのか。私は単に絵に狂ってることを表しているのだと思ってました。
その他の興味ある事柄。
・暁斎は、官憲に捕らえられ牢屋入り。放免時には人前で鞭打ち50の刑。捕らえられた理由ははっきりしない。
・暁斎の元には、欧州から日本に派遣された役人が多数集まった。
・暁斎はデラシネ(根無し草)になった。暁斎の元に集まる「おやとい外国人」もデラシネ。
・表絵師と奥絵師(将軍に直にまみえる)。
・上野で開かれた書画会。
・暁翠は、数え5歳で、父暁斎は絵のお手本(線、色、構図)を渡した。江戸時代は、数え6歳がスタートだが、一年早い。
・東京美術学校教官に、暁斎でなく狩野芳崖が任命
・河鍋楠美さん(暁斎のひ孫、暁翠の孫)が狩野博幸さんを訪ねてきたこと(狩野派絵師としての暁斎展を開いてほしい)。
・暁斎は狩野派絵師として、狩野派の筆法を習熟、また弟子に狩野派の筆法を教えること(口伝)ができる。
あっという間の1時間38分でした。
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