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原本ヨハネ福音書付録1(ヨハネ福音書15章~16章)

2016-06-13 17:25:56 | 聖研
原本ヨハネ福音書付録1
(ヨハネ福音書15章~16章)

1.教会的編集者(ヨハネの手紙の著者)
まず最初に、「原本ヨハネ福音書研究」において既に論じたように、現在のヨハネ福音書の元になった「原本」はマルコ福音書の執筆とほぼ同じ頃に執筆されたと思われる。それからおよそ30年から40年ころ、一世紀の終わり頃から二世紀の初め頃、当時の教会の必要から原本ヨハネ福音書に手を入れて現行のヨハネ福音書が編集されたものと思われる。(多分、21章はまだ付加されていなかったであろう。)その編集者のことを原本ヨハネ福音書研究では「教会的編集者」と称した。
つまり原本ヨハネ福音書の原著者と教会的編集者との間には約30年の年代差があり、執筆対象も背景となった状況も当然異なる。原著者の執筆対象は年代的に特定されないが、おそらくパウロと同時代あるいはその直後であり、教会的編集者は二代目あるいは三代目のキリスト者である。それはまさにヨハネの手紙の対象と重なる。彼らの最も明瞭な特徴はイエスおよびイエスの直弟子たちを知らないということである。

2.教会的編集者の教会の状況

紀元70年にエルサレムの神殿が崩壊し、ユダヤ教もイエス当時とはすっかり様変わりしてしまった。それから約30年、一世紀末前後、キリスト教会もイエスおよび直弟子たちを直接知っている者たちはほとんどなくなっていた。教会の中心はエルサレムから広くギリシア・ローマの文化圏ヘと移され、シリアのアンテオケや小アジアのエペソの教会ヘと移り、さらにローマやアレクサンドリアなどの諸教会が有力となっていた。
それに応じて福音の理解や表現の仕方も変化し、キリスト教は母体であるユダヤ教を超克して万人の宗教として成長し続けてきた。ここで活躍したのがパウロである。パウロにおいて、「律法と信仰」「信仰に義認」等、キリスト教信仰の基本的な信条が確立された。
教義的な課題と共に、教会の形態、 礼拝や集会の様式もユダヤ教の会堂 (シナゴグ)を徐々にキリスト教化され、 牧者・教師・預言者・長老・執事等、職制も徐々に整備されていった。
その頃では、キリスト教の相手はもはやユダヤ教ではなく、当時非常な勢いで地中海世界に広がっているいわゆる宗教混淆の波である。ローマを中心に地方各地に誕生した神々があり、相互に干渉し合いながら、よく似通った新しい宗教が発生していた。
これらの諸宗教は相互に競ってその勢力を拡大しようとし、秘密の儀式、 密儀と呼ぶ祭儀を持ち、またその解釈としての教義と世界観とを持っていた。教会はそのような状況に囲まれていた。教会の構成員も代替わりし第二世代を経て第三世代が中心になり、また周辺の諸宗教で満足できない人々も教会に加わってきた。彼らが回心以前の習慣、気分、考え方を教会に持ち込んでくることは自然であった。
使徒時代とそれ以後の時代においては、種々の困難な問題に直面すると、イエスの直弟子たちの人格的権威に基づいて解決されてきたが、それも諸問題に十分に対応できるわけではなかった。
このようにして、キリスト教は今や、当時の一般的風潮である宗教混淆の波に巻き込まれて自己を見失おうとする危険にさらされることになる。そうなると、当然イエスの教えに立ち帰り、それを再解釈することによって問題に対応しようとする努力もでてくる。
「ぶどうの木の説教」やヨハネの手紙等の執筆者である教会的編集者たちは、そのような危機感を抱き、伝えられた古い信仰の本当の生命と意味とを、明確な自覚にまで呼び醒まそうとするのである。(この項、松村克己は『ヨハネの手紙講釈』を参照)

3.教会的編集者たちの作業

教会的編集者たちは原本ヨハネ福音書にもかなり編集の手を加えたのであろう。たとえば、ヨハネ福音書13:31b~14:31のイエスの最期の告別の辞にもかなり手を入れている。
この告別の辞は全部で39節ある。これを資料的に分析すると、教会的編集者によって挿入された部分は20節ある(13:32~35、14:33、12~25、28)。およそ半分が教会的編集者の言葉である。勿論、彼は元々の文章を知っているわけで、その上に彼自身の言葉を組み入れているのである。ヒョッとすると彼が削除した文章や単語もあるかも知れない。しかし、それはもはや確定できない。
おそらく、この告別の辞を土台にして、100%教会的編集者によって書かれたのがヨハネ福音書15章~16章の「まことのぶどうの木」の説教であろう。

4.イエスの説教「ぶどうの木」

この説教は、以下の2部に別れている。
第1部 説教「まことのぶどうの木」(15:1~16:15)
第2部 説教の後の対話(16:16~33)

第1部 説教「ぶどうの木」(15:1~16:16)

説教は6つの部分に分けられる。
 A. ぶどうの木の譬え (15:1~8)
 B. 愛の絆 (15:9~17)
 C. 世の憎しみ (15:18~27)
 D. 躓かないために(16:1~4)
 E. 真理の霊の働き (16:5~11)
F. 総括的まとめ(16:12~16)

A. ぶどうの木の譬え (15:1~8)

<以下テキスト>
1 私とあなた方との関係をわかりやすく言うならば、私は本当のぶどうの木で、あなた方はその枝なのです。そしてさらに付け加えるならば、私の父、つまり神は農夫だということができるでしょう。
2 私につながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除きます。
そして、実を結ぶ者がますます豊かに実を結ぶようにと清めます。
3 あなた方は私の言葉を信じ、受け入れたので清められました。4 これからもずっと私につながっていなさい。私もあなた方につながっています。ぶどうの枝が幹につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなた方も私につながっていなければ実を結ぶことができません。
5 もう一度繰り返しますよ。私はぶどうの木で、あなた方はその枝なのです。誰でも私につながっており、私もその人につながってさえいれば、その人は豊かに実を結びますが、私から離れてしまったら、何もできなくなってしまいます。
6 私につながっていない人は、無駄な枝と同じように剪定され、捨てられて、焼かれてしまうでしょう。
7 あなた方が私につながっており、私の言葉があなた方の内に留まっているならば、望むものを何でも願いなさい。
8 そうすればかなえられます。あなた方が豊かに実を結び、私の父の栄光を現すならば、私の弟子となります。
<以上>


(1)「本当のぶどうの木」(1節)
ここでの「本当の」とはほとんど無意味な教会的編集者の口癖。「本当の食べ物、本当の飲み物」(6:55)等。実際にぶどう園などで栽培されているぶどうの木というよりも、比喩(アレゴリー)としてのぶどうの木を意味している。強いて言うならば「霊的な」というような軽い意味。
何故、葡萄の木なのだろうか。葡萄はブドウ科の落葉つる性低木で、勢いよく蔓が四方八方に伸びるのが特徴で、どんどん枝分かれして広がっていく。この特徴が、著者たちが描く「あるべき教会」の姿と重なっている。教会は四方八方に広まり、そこで美味しい実を実らせなければならない。
それで美味しい葡萄の実を収穫するためには剪定ということが必要になってくる。葡萄の木の育て方は要するに思い切った剪定をしなければならない。その特徴が、ここでのメッセージに深く関係している。
(2)「清めます」(2~3節)
この部分では比喩の部分とリアルな部分とが入り乱れており、訳すのが非常に難しい。2節後半の「清める」という語を口語訳、新共同訳では、ぶどうの木の比喩の延長として「手入れしてきれいになさる」と訳している。しかしここで用いられている「清める」という用語はいわゆる植物栽培用語ではなく、人間を「清める」という言葉であり、3節の「あなた方は・・・清められています」と同じ単語が用いられている。田川建三は2節後半の文章は「神が正統信仰を保っている信徒を清めてくれる」という意味である、とする。ここはこの説教での重要なメッセージであるので、これを果実栽培の「剪定」などを想定して「刈り込んでくださる」(フランシスコ会訳)などと訳すと著者の意図からズレてしまう。
(3)「つながる(メノー)」(4節以下)
この言葉は直訳すると「(キリストの中に)留まる」という意味で、この説教の鍵となる言葉である。この言葉は4節だけでも4回、5節に2回、6節に1回、7節に2回、この段落以降でも9節、10節、16節で用いられ、15章だけで13回も用いられている。
具体的にいうと教会のメンバーとして「教会内に留まる」という意味で、その逆が教会から離れ、あるいは追放されるということである。ここでは思い切って「つながる」と訳した。
(4) 「私につながっていなさい」(5節)
ぶどう栽培における剪定はその枝が悪いからではなく、良い実を実らせるために、その周りの枝を切り落とし、目的の枝に養分が十分にとどき、光とが当たるようにするためになされる。ところが、ここでの比喩の場合には、「悪い枝」を切り落とすという。葡萄の木の枝にとってはそれ自体がいいとか悪いということは無いし、枝自身が自主的に「つながっている」わけでもない。
(5)「つながっていない人」(6節)
ここでの重要な言葉は「つながっていない人」である。ここには現実の教会において「つながっている人」と「つながっていない人」とがあり、両者は対立している。そのことについて詳細に論じているのがヨハネの手紙である。その意味では6節は「つながっていない人」への呪いの言葉である。
(6)「望むものを何でも願いなさい」(7節)
これらの句はマタイ7:7~11を念頭に置いていると思われるが、むしろマタイ以前から教会において一般に流布されていた伝承であろう。「あなた方が私につながっており」と「私の言葉があなた方の内に留まっている」の「つながる」と「留まる」は同じ単語(メノー)である。つまり、これら二つのことは、同じことの両面である。

B. 愛の絆 (15:9~17)

<以下、テキスト>
9 父が私を愛されたように、私もあなた方を愛しています。私の愛にとどまっていなさい。
10 私が父の誡めを守り、その愛にとどまっているように、あなた方も私の誡めを守れば、私の愛にとどまっていることになります。
11 これらのことを話したのは、私の喜びがあなた方の内にあり、あなた方の喜びが満たされるためです。
12 私があなた方を愛したように、互いに愛し合いなさい。これが私の誡めです。
13 仲間のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はありません。
14 私の命じることを行うならば、あなた方は私の仲間です。
15 だから私はあなた方を下僕とは呼ばないことにします。下僕には主人が何をしているか知らされませんが、あなた方は私の仲間だから父から聞いたことをすべて話して聞かせました。
16 あなた方が私を選んだのではありません。私があなた方を選んだのです。あなた方が出かけて行って実を結び、その実がとどまっているようにと、また、私の名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、私があなた方を任命したのです。
17 もう一度繰り返します。互いに愛し合いなさい。これが私の命令です。
 <以上>


(1)「とどまる(メノー)」(9節)
4節以下の部分では「つながる」と訳してきた言葉であるが、「つながる」ということの具体相が「愛の絆」である。従って、この段落では「つながる」という言葉を「とどまる」と言い換えた。この絆の源泉は父なる神とキリストとの絆にある。神とキリストとの絆とは「誡め」を守るということによって維持されている。英語では便利が言葉がある。「keep contact」、離れていても連絡はいつでも付くという関係を保つという意味であろう。
(2)「父の誡め」「私の誡め」(10節)
この部分は明らかに最後の晩餐の席での告別の辞を受けている(13:34~35、ここも教会的編集者の言葉)。勿論「誡め」の内容は相互愛である。
13章で教会的編集者は「新しい誡め」という言葉を初めて用い、「私があなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい」と述べている。その内容は、その直前のイエスの行為、つまりイエスが弟子たちの足を洗ったということを指し示していると思われる。それをわざわざ「新しい誡め」という場合に教会的編集者の頭の中では、それとは別のことを考えていたものと思われる。それが15:12~13の言葉であろう。ここでは相互愛は徹底され「究極の愛」として述べられている。おそらく、13章でこの言葉を挿入したときには、やはり他人の文章への挿入で十分に論じきれなかったので、15章で改めて論じたのであろう。
共観福音書でイエスの「敵を愛す」(mt.5:43)、「隣人を自分のように愛しなさい」(mt.19:19、22:39)ということを述べている。しかし、そこで「互いに愛し合う」ということは語れていない。何故だろう。
「敵を愛する」、「隣人を自分のように愛する」ということと「互いに愛し合う」ということとを単純に比較するならば、どちらの方に深みがあるのだろうか。答えは明らかである。相互愛は組織内における愛、限定された仲間間での愛であり、愛敵とか隣人愛とは比較にならない。確かに、
通常の相互愛あるいは兄弟愛は「愛敵」とか「隣人愛」と比べると、低次元の愛のように思える。旧約聖書における愛の教えは「同胞愛」でそのレベルである。イエスにおける「愛敵」、「隣人愛」はその壁を突破したのである。共観福音書ではそのように論じられている。
しかし、ヨハネ福音書、特に教会的編集者における「相互愛」は通常のレベルを越えている。相互愛を徹底すると、愛敵とか隣人愛とでは突破できない局面が開かれてくる。それがヨハネ15:12~13の「私があなた方を愛したように、互いに愛し合いなさい。これが私の誡めです。仲間のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はありません」という言葉である。ここでの相互愛は、イエスが弟子の足を洗ったというレベルのことではない。まさにイエスは弟子のために死んだのである。これは愛敵とか隣人愛の限界を突破している。「これ以上に大きな愛はありません」、これが愛の究極の姿である。
ヨハネの手紙1の著者もいう。「主は、わたしたちのためにいのちを捨ててくださった。それによってわたしたちは愛ということを知った。それゆえに、わたしたちもまた、兄弟のためにいのちを捨てるべきである」(1jh.3:16)。
この相互愛の対極にあるのが裏切りである。愛の対極を私たちは憎しみだと思っている。しかし相互愛の対極は仲間を裏切ることである。共観福音書におけるユダの扱い方とヨハネ福音書とではまったく異なる。ヨハネ福音書では初めからユダを「裏切り者」(6:71、12:4、13:2,11、18:2,5)として描き出している。しかしイエスはユダを信頼し会計まで任せている(12:6)。イエスはユダの足も洗った。(聖餐の)パンも与えた。にもかかわらず、ユダは仲間を裏切った。このユダの対極にあるのがイエスである。イエスはローマの兵隊たちが捕縛に来たとき、自ら進み出て捕縛され、「私を捜して、この人々を去らせなさい」(18:8)といい、仲間を巻き込まなかった。
弟子たちはそれを見ている。その延長線上に十字架がある。だから彼らはイエスは彼らの身代わりになって死んだと思っている(1jh.3:16)。つまり、身代わりの死あるいは、殉教の死である。仲間を裏切るぐらいなら死ぬ、死んでもいい。彼はこうも言う。「『神を愛している』と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です」(1jh.4:20~21)。相互愛を、ここまで徹底すとき、「新しい律法」となる。
(3)「私の名によって父に願う」(16節)
7節にも同趣旨の言葉があるが、ここの特徴は「私(=イエス)の名によって」、という点であろう。これは明らかに教会における祈りの定式化と関係がある。それだけドグマ化が進んだということであろう。と同時に「イエスの御名」の威力、魔術化というべきか。これより後代のことになるが、同様なことがイエスの「十字架」にも起こる。シンボルである「十字架」そのものが魔術化され、悪魔払いの道具にされる。

C. 世の憎しみ (15:18~27)

<以下、テキスト>
18 あなた方がこの世から憎まれているとしたら、彼らはあなた方を憎む前に、私を憎んでいたということを思い出しなさい。
19 あなた方がこの世に属しているならば、この世はあなた方を憎むはずがありません。なぜなら、あなた方はこの世の身内だからです。かえって、この世はあなた方を同類として愛したはずです。しかし、事実としてあなた方はこの世に属していません。私があなた方をこの世から選び出したからです。だから、この世はあなた方を憎むのは当然なことです。
20 その時には、さきほど、私があなた方の足を洗ったときに、「下僕は主人にまさりはしない」と、私が言ったあの言葉を思い出してください。人々は私を迫害したのと同じようにあなた方をも迫害するでしょう。もし彼らが私の言葉を守っていたらならば、あなた方の言葉も守るでしょう。
21 人々はあなた方が私の名を唱えるという理由で迫害するようになります。それは私をお遣わしになったお方、つまり父なる神のことを知らないからです。
22 私が父なる神のもとから来て、神のことについて語っていなければ、彼らに罪はなかったでしょうが、事実、私は来てしまって、話してしまった以上、彼らは自分の罪について弁解の余地はありません。
23 私を憎んでいる人々は私の父をも憎んでいるのです。
24 今まで誰も行なったことがないような生き方を私がしていなければ、言い換えると、私がこの世の人々と同じように生きていれば、彼らに罪はなかったでしょう。でも、事実、今は、私が私流の生き方をして、彼らがそれを見て、知ってしまったので、彼らは私と私の父を憎んでいるのです。
25 そのことも聖書の詩編の中に既に言われていることで「理由なく、私を憎んだ」という聖書の言葉が成就するためでした。
26しかし、安心しなさい。私は父のもとからあなた方に保護者、父なる神から派遣される真理の霊を送ります。この保護者があなた方のところに派遣されたら、その方が私のことを証ししてくれるでしょう。
27 実はその方は初めから私と一緒にいたので私のことをよく知っており、私のことを証しするのです。
<以上>


(1)「この世から憎まれている」(18節)
この部分に関してはマタイ福音書の影響をかなり受けている(mt.10:22,25)。
(2) 「僕は主人にまさりはしない」(20節)
この段落は明らかに、13:4~18を前提にしている。
(3)「私の名を唱えるという理由で」(21節)
ここは厳密には「私の名の故に」あなた方を迫害する。ここにはイエスが父なる神から遣わされたということによって迫害されたことと、イエスの弟子たちがイエスから遣わされたということのアナロジーが述べられている。彼らはイエスを迫害した根拠はイエスが神を「父」と呼んだからであり、ここでは弟子たちがイエスから遣わされたということによって迫害される。それはつまり、イエスが父なる神から遣わされたということを認めないからである。
(4)「父をも憎んでいる」(23節)
この句は、彼らはキリスト者を迫害することによって神に奉仕をしている(16:2)と思い込んでいる。しかし、実は彼らの行為は「神に対する憎しみである」とする。
(5)「そのことも聖書の詩編の中に既に言われていることで『理由なく、私を憎んだ』という聖書の言葉が成就するためでした」(25節 )
これは詩編69:4の「ゆえなく、私を憎む者は私の頭の毛よりも多い』(ps.69:4)」の引用である。何でもかんでも聖書の言葉の成就と考えるのは教会的編集者の特徴の一つ。これは著者による解説だと思われる。
(6)「保護者」、「真理の霊」(26節)
聖霊について「保護者」あるいは「真理の霊」という言い方はすでに14:16,26で用いられている。ただし、14:16は教会的編集者の言葉である。この言い方はヨハネ福音書以外では見られない。私がここで「保護者」と訳した言葉は、文語訳では「助主」、口語訳では「助け主」、新共同訳、フランシスコ会訳、岩波訳では「弁護者」、田川建三は「助け手」と訳している。
14:26での聖霊の働きは「あなた方にすべてのことを悟らせ、イエスの言葉を思い起こさせる」と記されている。15:26では、それを受けて「(イエスのことを)証ししてくれる」という。

D. 躓かないために

<以下、テキスト>(16:1~4)
1 私はこれらのことを話したのは、そのことが実際に起こったときに、あなた方が躓かないためです。
2 あなた方は会堂追放者とされたり、殺されたりするでしょう。しかも彼らはそれを神に対して奉仕として実行するのです。
3 彼らがこういうことをするのは、父をも私をも知らないからです。
4 しかし、これらのことを話したのは、その時が来たときに、私が話していたということをあなた方が思い出すためです。初めからこのことを話さなかったのは、私があなた方と一緒にいたからです。
<以上>


(1) イエスにとって、最後の心配事は、イエス自身が去った後の弟子たちのことであった。ここには全ての事業の創業者が後継者について心配する心情と同じ心情が溢れている。特に、イエスの場合は、十字架刑による死という最も惨めで、スキャンダラスな最期である。この困難を彼らは乗り切れるか。彼らもイエスと同じ壮絶な迫害が予想される。その迫害さえ乗り切れたら、その後は聖霊が働く。重要なポイントはその「間」である。
(2) 「会堂追放者」(2節)
この言葉は原本ヨハネ福音書においても2回用いられている(jh.9:22、12:42)。従って、もう既にパウロの時代から用いられていた言葉であろう。ただ、そこでは一般のユダヤ人が会堂追放者とされることを恐れている言葉として用いられているが、ここではキリスト者に対する迫害の意味で用いられ、そう呼ばれることを恐れることはないということが強調されている。
(3) 「神に対して奉仕(ラトレイア)」(2節)
この言葉は「礼拝する」(Rom.12:1)という意味でも用いられる。つまり教会を迫害する人たちは「宗教的行為」として行うのである。それは回心前の使徒パウロが「息をはずませながら」キリスト者たちを「脅迫、殺害」していたことを思い起こす。
(4) 「話さなかった」(4節)
実は、14:25(教会的編集者の言葉)ですでに語っている。従って、15章、16章の著者と14章の教会的編集者とは別人であろう。

E. 真理の霊の働き

<以下、テキスト> (16:5~11)
5 間もなく私は、私をお遣わしになった方のもとに行こうとしていますが、あなた方は誰も、「どこへ行くのですか」と尋ねようともしません。
6 私の話しが突拍子もなくて信じられないからなのかも知れません。私がこれらのことを話したために、驚き、悲しみで心はいっぱいなのでしょう。
7 しかし、これだけははっきり言っておきましょう。実を言うと、私が去って行くのは、あなた方のためになるのです。私が去って行かなければ、保護者である真理の霊はあなた方のところに来ないからです。
8 私が行けば、私の代わりに保護者があなた方のところへ派遣されます。その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、この世が誤解していることを明らかにしてくれます。
9 罪についてとは、この世の人たちがわたしを信じないこと。
10 義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなた方がもはやわたしを見なくなること。
11 また、裁きについてとは、この世の支配者が断罪されることです。
<以上>


「尋ねない」(5節)
実はペトロがすでに尋ねている(jh.13:36)が、この著者はそれを無視している。また、同趣旨の問いは14:5にもみられる。
「あなた方のためになる」(7節)
「私が去って行く」ということがポイント。なぜ、イエスが去ることが「あなた方のため」なのか。イエスが肉体を持つということは、時間的、空間的に限定されているということを意味する。受肉した神の子イエスは人間的な限界の中で生きる神であることを意味している。パウロは彼自身伝えられた教えとしてキリスト教の最初期の信仰告白を述べている(phi.2:6~8)。
それに対して、聖霊は時空の制限を破った神の働きを意味している。ここにその後、展開される三一論の秘儀がある。「意志としての父なる神」、「受肉した神の御子キリスト」、「霊として時空の制限を超えて働く神の霊」。これらの神は三つのペルソナを持った一つの神である。
「保護者である真理の霊」(8節)
15:26を受けてもう一度「保護者である真理の霊」が登場する。イエスに代わって、人間としてのイエスの限界を破って、イエスの働きを継承する者としての聖霊。人間としてのイエスは人間に「我と汝」という関係で出会うが、聖霊は人間の「外から」、また同時に「内から」私たちを保護し語りかける神である。
(4) 「罪について、義について、また、裁きについて、この世が誤解していることを明らかにしてくれる」(8節)
これが聖霊の最大の働きである。ここでハッキリと、これらの点について「この世は誤解している」と明言している。ここで「明らかにしてくれる」と訳した元々の言葉は「糾す」「糾弾する」というかなり強い言葉である。聖霊はキリスト者たちのため、あるいは教会の内部でだけ働くのでは亡く、この世に対しても働き変える。これはこの説教での一つの大きなポイントである。
(5) 9節から11節は、著者自身による解説の言葉。
なぜ、イエスが見えなくなることが「義」なのか。説明がいるであろう。この「義」とは裁判用語であって、イエスが父のもとに帰るということは、裁判におけるイエスが正しいということが認められたことで、それは裁判における「勝利」を意味する。それは同時に、「裁き」についての説明でもある。

F. 総括的まとめ

<以下、テキスト> (16:12~16)
12 言っておきたいことは、まだたくさんありますが、今、あなた方には理解できないことばかりでしょう。
13 しかし、保護者である真理の霊が来れば、あなた方を導いて真理をことごとく悟らせてくださいます。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなた方に告げるからです。
14 その方は私に栄誉を与えてくれます。私のものを受けて、あなた方に告げるからです。
15 父が持っておられるものはすべて、私のものです。だから、私は、「その方が私のものを受けて、あなた方に告げる」と言えるのです。
16 もう一度繰り返しますが、しばらくすると、あなた方は私を見なくなりますが、またしばらくすると、私を見るようになります。
 <以上>


(1)「真理をことごとく」(13節)
また出てきました。ここでは「真理をことごとく悟らせてくださいます」。もうここでは、イエスのことだけではなく、人間にとって必要なことすべて」である。父と子と聖霊が「すべてのこと」を知っている。
(2) 「私に栄誉を与えてくれます」(14節)
非常に訳しにくい言葉、「栄誉を与える」は例のヨハネ福音書独自の「栄光化」という言葉である。父なる神は子なる神によって栄光化され、子なる神は父なる神によって栄光化される(13:31~32)。ここでは子なる神が聖霊によって栄光化される。三位の神は相互に栄光化することによって、神である。これを受けて、第17章のキリストによる祈りが始まる。
(3) 「しばらくすると」(16節)
再び、「しばらくすると」が繰り返される(14:19)。弟子たちのやっとこの言葉の「謎」に気付く。一体これは何を意味するのだろうか。

第2部 最後の対話
ここは、イエスと弟子たちとの質疑の部分(16:17~24)と、最後の対話の部分(16:25~33)
とに分けられる。

A. 質疑
イエスの説教の最後の言葉をめぐって、弟子たちの間で議論がなされた。彼らは、このことについて既に何回もいわれていることなので、今さらイエスに直接質問をすることも出来なかったのかも知れない。「しばらくすると、あなた方は私を見えなくなりますが、またしばらくすると、私を見るようになる」とはどういうことか。その議論を聞いて、イエスは答えられた。

<以下、テキスト>(16:17~24)
語り手: イエスのかなり長い別れの言葉を聞いて、やっと弟子たちも我に返り、緊張がとけたようです。今度は弟子たちの方から質問の声が出て来ました。

弟子A: 先生は「しばらくすると、あなた方は私を見なくなりますが、またしばらくすると、私を見るようになる」とか、「父のもとに行く」とか仰っておられますがいったいどういうことですか。
弟子B: そもそも先生が言われる「しばらくすると」とはいったい何を意味しているのでしょうか。その点がはっきりしませんので、今話されたことがさっぱり分かりません。
イエス: 「しばらくすると、あなた方は私を見なくなるが、またしばらくすると、私を見るようになる」と、私が言ったことが、よく分からなかったようなので、そのことについてはっきり言っておきましょう。その時には、あなた方は泣き、悲嘆に暮れるでしょうが、この世の人々は喜びます。あなた方は悲しみますが、その悲しみは必ず喜びに変わります。女性が出産するときには、苦しむものです。まさに「女の時」が来たからです。しかし、子供が生まれると、一人の人間が世に生まれ出た喜びのために、もはやその苦痛を思い出せなくなります。それと同じように、あなた方にも苦悩の時が来ます。その時は悲しむでしょう。しかし、私が再びあなた方と会う時が来ます。その時、あなた方は心から喜ぶことになります。その喜びをあなた方から奪い去ることは誰にもできません。その日には、あなた方はもはや、私に何も頼むことはなくなるでしょう。
はっきり言っておきましょう。あなた方が私の名によって何かを父にお願いすれば、父は応えてくださいます。今までは、あなた方は私の名によって願ったことがありません。これからは何でも私の名によってお願いしなさい。そうすれば与えられ、あなた方は喜びで満たされるでしょう。
 <以上>


「よく分からないようなので」(19節)
この言葉は原文では「このことについてあなた方は互いに求めているのか」(田川訳)である。これを新共同訳では「彼らは尋ねたがっている」と訳し、口語訳では「互いに論じ合っている」となっている。
イエスが見えなくなること
十字架刑によって死ぬこと、墓に葬られること、当然、それは弟子たちとっては、驚き、恐れ、悲嘆に暮れるであろう。しかし、それはこの世の人たちにとっては喜びの時であるという。しかし、イエスにとっての勝利はその次ぎに起こる。イエスは死人の中から復活する。それは女性の出産の出来事に比することが出来る。
それにもまして、「見えなくなること」と「見えるようになること」という二つの出来事は、イエスの十字架と復活との隠語であると思われる。ここから逆に「見えなくなること」と「見えるようになること」とを遡って読み直す必要があるようである。
(3) 「あなた方が私の名によって何かを父にお願いすれば、父は応えてくださいます」(24節)
この句が最後の最後にまたでてきた。著者はことをよほど強調したいのであろう(13:14~15、15:7、16)。

B. 最後のメッセージ

<以下、テキスト>(16:25~33)
イエス: 私はこれらのことを、今まではたとえを用いて話してきました。しかし、もはやたとえではなく、はっきり父について知らせる時が来ます。その日には、あなた方自身が私の名によって願うことになります。もう、私があなた方に代わって父にお願いする必要ななくなります。父御自身が、あなた方を愛されるからです。あなた方が私を愛し、私が神のもとから出て来たことを信じたからです。私は父のもとから出て、この世に来ましたが、今、世を去って、父のもとに行きます。
弟子たち: 今、先生はすべてのことを、たとえを用いないで、はっきりとお話しくださいました。あなたが何でもご存じで、誰からも教えられる必要のない方だということが分かりました。これによって、あなたが神のもとから来られたと、私たちは信じます。
イエス: やっと私を信じるようになりましたか。それを聞いて私は非常にうれしい。だが、あなた方が私を捨てて、バラバラに散らされて、それぞれ自分の家に帰ってしまうという事態が起こるでしょう。それも遠い未来のことではありません。もうその時が目の前に迫っています。しかし、そうなったときでも、決して私は一人ではありません。私には父なる神がいつも共にいてくださるからです。
私がこんなことを言ってしまったのは、そのことが実際に起こってしまったときに、驚き慌てないためなのです。あなた方が受ける苦難は並大抵のものではありません。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っています。
<以上>


「私の名によって願う」(26節)
また、「私の名」が出てきた。ここでヨハネ福音書における「イエスの名」についての触れている個所を確認しておく。
イエスを示す「名」は13回用いられている。その内12回は教会的編集者の言葉であり、2:23の「しるしを見て、イエスの名を信じた」一回だけが原著者の使用例である。
①「イエスの名」が「信じる」に関係付けられているのは4回:(1:12、2:23、3:18、20:31)。これらはほとんど「イエスを信じる」とほとんど同じ意味で用いられている。
②「イエスの名」が「願う(祈る)」と結びついているのが、5回:(14:13、15:16、16:23,24,26)
③その他、聖霊との関係で(14:26)、迫害との関係で(15:21)でそれぞれ1回ずつ、17章の祈りの中で父なる神に対して2回(17:11,12)である。
(2) 「たとえを用いないで」(29節)
「たとえを用いないで」、はっきりと語る。理屈から言うと、今までのイエスの話がすべて「たとえ」であったわけではない。むしろ、聞き手の方が「鏡におぼろげに」(rom.13:12)に聞いていたが、今や、「顔と顔とを合わせて」、はっきり聞く。むしろこれは弟子たちの方がイエスの真の姿をはっきり見たという霊的経験であろう。
(3) 「やっと私を信じる」(31節)
これは弟子たちのことというよりも、信仰というものの本質を語る言葉である。比喩的な語りにおける「間接性」と「直接的な言葉」において信じるということを意味する。
二代目、三代目のキリスト者の問題は、使徒たちの経験を媒介にする間接性が問題であった。それに対して、ここでは自分自身の「直接的な経験」が問われている。

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