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原本ヨハネ福音書付録2(ヨハネ福音書17章)

2016-06-13 17:46:03 | 聖研
原本ヨハネ福音書付録2(ヨハネ福音書17章)

イエスの祈り
(ヨハネ福音書17章)

これだけまとまったイエスの祈りが新約聖書にあることは非常に珍しい。この祈りは、17章冒頭の言葉では、15~16章の「ぶどうの木の説教」に引き続いて祈ったとされている。そもそも、この説教が何時、どのような状況でなされたのか、明確ではない。内容的には13章31節から14章31節までの告別の辞と重なっている部分が多い。
既に述べたように15章から17章は原本ヨハネ福音書にはなく、教会的編集者に手による挿入である。内容的には紀元1世紀の終わりから2世紀初め頃の教会の状況を反映している。それにしても17章のイエスの祈りはまとまりもよく、祈りとしての完成度はかなりに高い。

Ⅰ イエスの祈りの本文(文屋の個人訳による)

この祈りは、下記のように5つの部分に分けられる。
① 自分自身のための祈り(1b~5)
② 弟子たちのための執り成しの祈り(6~19)
③ 将来の弟子たちのための祈り(20~23)
④ 結びの祈り(24)
⑤ 弟子たちの祈り(25~26)

① イエス自身のための祈り(1b~5)
父よ、いよいよその時が来ました。あなたの子である私を誇りにしてください。私はあなたの栄誉を現わしました。あなたは私にすべての人に仕える能力を与えてくださいました。それによって私はあなたから託されたすべての人々に、永遠の命を与えることができました。
(著者註:永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたがお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。)
私はあなたから命じられたすべての業を成し遂げて、地上であなたの栄誉を現しました。だから今、父よ、あなたの御許で世界が造られる前に持っていたあの栄光で私を輝かせてください。

② 弟子たちのための執り成しの祈り(6~19)

私は、あなたが世から選び出して私に託された人々に、あなたの御名を明らかにしました。彼らはあなたのものでしたが、あなたは私に託されました。彼らはあなたの御言葉を守りました。彼らは、私に与えて下さったものはすべて、あなたからのものであることを悟っています。なぜなら私はあなたから預かった御言葉を彼らに伝え、彼らはそれを受け入れたからです。彼らは私があなたの許から出て来たことを知り、あなたが私をお遣わしになったことを信じています。
私は彼らのためにお願いします。私の願いはこの世のことではありません。私に託された者たちのことです。彼らはあなたのものだからです。私のものはすべてあなたのもの、あなたのものは私のものです。そして私は彼らによって輝きました。
私は世を去ります。そして彼らは世に残ります。私は御許に参ります。
聖なる父よ、私に与えてくださった御名のゆえに彼らをお守りください。私たちが一つであるように、彼らもまた一つになるためです。私が彼らと共にいた時には、あなたが私に与えてくださったあなたの御名によって彼らを守り、また保護しました。そして彼らのうちの誰も滅びませんでした(編集者註:滅びの子を除いて)。それは聖書の言葉が成就するためでした。
しかし、今、私は御許に参ります。そして私が今、この世でこの祈りを捧げるのは、私の喜びを彼らと共に分かち合うためです。私は彼らにあなたの言葉を伝えました。そして世は彼らを憎みました。私が世の者ではないのと同様に彼らも世の者ではありません。私は、彼らを世から引き上げてくださいとお願いしているのではありません。そうではなく、私の願いは彼らを悪から守ってくださることです。私が世に属する者ではないように、彼らも世に属していません。
真理によって、彼らを聖なる者としてください。あなたの御言葉は真理です。私を世にお遣わしになったように、私も彼らを世に遣わしました。彼らのために、私は自分自身を捧げます。彼らも、真理によって捧げられた者となるためです。ですが今、私はあなたの御許に参ります。

③ 将来の弟子たちのための祈り(20~23)

また、彼らのためだけでなく、彼らの言葉によって私を信じるようになる人々のためにも、お願いします。それはすべての人が一つになるためです。
父よ、あなたが私の内におられ、私があなたの内にいるように、彼らも私たちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたが私をお遣わしになったことを信じるようになるでしょう。あなたがくださった栄光を私は彼らに与えました。私たちが一つであるように、彼らも一つになるためです。私が彼らの内におり、あなたが私の内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。こうして、あなたが私をお遣わしになったこと、また、私を愛しておられるように、彼らをも愛しておられたことを、世が知るようになります。
 
④ 結びの祈り(24)   

父よ、あなたが私に与えてくださった者たち、彼らもまた、私自身のいるところに私と共におられるようにしてください。彼らが、あなたが私に与えてくださった私の輝きを見るためです。世のはじめより前にすで あなたが私を愛しておられたという輝きです。

⑤ 弟子たちの祈り(25~26)

義なる父よ、世はあなたを知りません。しかし私たちは知っています。私たちはあなたがイエスをお遣わしになられたということを知りました。イエスは私たちにあなたの御名を教えてくださいました。そしてあなたがイエスを愛された愛は私たちの中にもあります。またイエスご自身が私たちの中におられます。だから私たちはこのことを世の中の人々にも伝えます。

Ⅱ 講釈

(0) 導入(1a)

<以下、テキスト>
これらのことをイエスは語って、天を見上げて祈りました。
<以上>


(1) この祈りはおそらくもともとは独立した宗教的文学として作られた「イエスの祈り」であろうと思われる。1節前半の言葉によってイエスの説教「ぶどうの木」に結び付けられものであろう。
(2) 「天を見上げて」
この祈りの姿勢がユダヤ人社会ではいっぱんてきであったと思われる。詩143:6にも、「あなたに向かって両手を広げ、渇いた大地のようなわたしの魂を、あなたに向けます」と述べられている。おそらく、イエスも祈るときにはこのような姿勢を取ったのであろう。

自分自身のための祈り(1b~5)

<以下、テキスト>
1b 父よ、いよいよその時が来ました。あなたの子である私を誇りにしてください。私はあなたの栄誉を現わしました。
2 あなたは私にすべての人に仕える権能を与えてくださいました。それで、私はあなたから託されたすべての人に、永遠の命を与えることができました。
3 永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたがお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。
4 私はあなたに命じられたすべての業を成し遂げて、地上であなたの栄誉を現しました。
5 そして今や、父よ、あなたの御許で世界が造られる前に持っていたあの栄光で、私を輝かせてください。
<以上>


「その時」(1節)
ヨハネ福音書においてイエスはしばしば「私の時」について言及している(2:4、7:6,8、8:20)。12:23ではギリシャ人の訪問を受けたとき、イエスは「いよいよ私の時が来た。これから最期の時が始まります。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、一粒のままですが、死ねば、多くの実を結びます」という。「私(イエス)の時」という言葉はヨハネ福音書津を貫く一つの鍵である。
(2) 「誇りにしてください」(1節)
ここでの「誇りにしてください」、「栄誉を現しました」という語はヨハネ福音書特有の「栄光化」という単語で、通常の「栄光を現す」という単語とは異なる。その違いは日本語では表しにくい。この単語はこの部分で4回、10節で1回用いられている。その他にこの祈りでは「栄光」(5,22,24)という単語も用いられている。「栄光化」という場合、誰かが誰かを「栄光化する」という形で用いられ、1節では父が子を「栄光化」し、子が父を「栄光化」する。4節では子が地上で父を「栄光化」し、5節では子が父のもとで元々持っていた「栄光」で子を「栄光化」する。10節では子は弟子たちによって「栄光化」されたという。
特にここでは父が子を「栄光化する」時であり、それはイエスが命を捨てるときを意味している。文章の流れとしては、神の子イエスが命を捨てることによって神の栄誉(栄光化)を示し、そのことによって父なる神が子を誇りにする(栄光化)する。
22節では子は父から与えられた「栄光」を弟子たちに与えたと言い、24節では弟子たちが父から与えられた「子の栄光」を見るという。
「栄光化」という特別な含みを持つ単語に異なった訳語を使いのには抵抗があるが、文章の流れから、あえてそうした。
(3) 「永遠の命」(3節)
3節はイエスによる祈りの言葉というよりも、「著者がイエスの口に入れた信仰告白である」(松村克己)。
(4) 「成し遂げて」(4節)
イエスは父から命じられた仕事をすべて成し遂げた、と言う。「成し遂げた」という語は4:34、5:36でも用いられている。十字架上でのイエスの最期の言葉は「成し遂げた」(jh.19:30)であった。その「成し遂げた仕事」とは、父なる神の「栄光化」である。ここでの意味は、奇跡を行うということよりも「神が神であること」、イエスの父に対する絶対服従が父の「栄誉(栄光化)」である。
(5) 「あの栄光」(5節)
ここでの「あの栄光」という言葉は重要である。これは原本ヨハネ福音書からの一つの伝統である。ヨハネ1章のロゴスの詩で次のように言われている。「ロゴスが人となった。ロゴスが人間と共に生きている。私たちはその栄光を見た」。教会的編集者はこの言葉を受けて、「ひとり子の栄光は、父の傍らにいたことです。彼には恵みと真理に満ちています」と言う。
この祈りの中でも、22節、24節でも繰り返されている。イエスにおいては、父と共に居ることが「栄光」である。

② 弟子たちのための執り成しの祈り(6~19)

<以下、テキスト>
6 私は、あなたが世から選び出して私に託された人々に、あなたの御名を明らかにしました。彼らはあなたのものでしたが、あなたは私に託されました。彼らはあなたの御言葉を守りました。
7 彼らは、私に与えて下さったものはすべて、あなたからのものであることを悟っています。
8 なぜなら、私はあなたから預かった御言葉を彼らに伝え、彼らはそれを受け入れたからです。私があなたの許から出て来たことを知り、あなたが私をお遣わしになったことを信じています。
9 私は彼らのためにお願いします。私の願いはこの世のことではありません。私に託された者たちのことです。彼らはあなたのものだからです。
10 私のものはすべてあなたのもの、あなたのものは私のものです。そして私は彼らによって輝きました。
11 私は世を去ります。そして彼らは世に残ります。私は御許にに参ります。聖なる父よ、私に与えてくださった御名のゆえに彼らをお守りください。私たちが一つであるように、彼らもまた一つになるためです。
12 私が彼らと共にいた時には、あなたが私に与えてくださったあなたの御名によって彼らを守り、また保護しました。そして彼らのうちの、滅びの子を除いて、誰も滅びませんでした。それは聖書の言葉が成就するためでした。
13 しかし、今、私は御許に参ります。そして私が今、この世でこの祈りを捧げるのは、私の喜びを彼らと共に分かち合うためです。
14 私は彼らにあなたの言葉を伝えました。そして世は彼らを憎みました。私が世の者ではないのと同様、彼らも世の者ではないからです。
15 私は、彼らを世から引き上げてくださいとはお願いしません。そうではなく、私の願いは彼らを悪から守ってくださることです。
16 私が世に属する者ではないように彼らも世に属していません
17 真理によって、彼らを聖なる者としてください。あなたの御言葉は真理です。
18 私を世にお遣わしになったように、私も彼らを世に遣わしました。
19 彼らのために、私は自分自身を捧げます。彼らも、真理によって捧げられた者となるためです。ですが今や、私は御許に参ります。
<以上>


この部分がこの祈りの中心部である。
「選び」(6節)
「ぶどうの木」の説教では、弟子たちがイエスを選んだのではなく、イエスが選んだということが述べられている(jh.15:19)。しかし、ここではそれより前に、父が世から選び出し、子に託したのだと言われている。
(2) 「御名を明らかにした」(6節)
ヨハネ福音書でイエスが弟子たちに神の名を教えたという記事は見られない。ユダヤ民族の伝統から見ると「神の名前」は神秘中の神秘で、めったに公に語られることはない。出エジプト記でモーセが神の名前を尋ねたとき「在って在るもの」という名前ではない名前を述べ、「アブラハム、イサク、ヤコブの神」という言い方がなされた。むしろ「神の名前」が「神」という言葉の代わりに使われている。ヨハネ福音書でも「神の名前」は出て来ない。使われているのは「父」である。従ってここで言う「御名を明らかにした」というのは、イエスにとっての「父」である。御名という言葉はこの祈りの中では、11節、12節、26節で用いられている。
(3) 「御言葉」(6,8節)
この祈りにおいて「御言葉」が強調されている。14節にも使われている。じゃその「御言葉」とは何かということになると明白ではない。むしろ、ここではイエスの言葉として伝承されているもの、あるいはイエスという伝承というべきで、当時の教会においては初代教会から伝えられてきた「言葉」であろう。これを軽視するときに、当時流行のグノーシスという「知恵」へと傾斜してしまう。
(4) 「御許から出てきた」(8節)
イエスの信仰の中心点は、イエスが神のもとから派遣されたということにある。つまり「神からの人」である。それはヨハネ福音書の重要なポイントでもある。イエスは神のもとにあったロゴスであり、「ロゴスが人となった。ロゴスが人間と共に生きた。私たちはその栄光を見た」(1:9~14)。
(5) 「私は彼らによって輝きました」(10節)
この「輝きました」とは先に述べた「栄光化」である。イエスが神のことをして受け入れられることが、イエスの栄光化であり、輝くことであった。
(6) 「滅びの子を除いて」(12節)
この言葉とそれに続く「聖書の言葉」はイエスの祈りとしては違和感がある。後代の挿入かとも思えるが、むしろ、当時の教会としては「教会の中での異分子」および伝統的な「聖書の言葉」を軽視する者たちへの批判ということを考慮すると、かなり重要が言葉であろう。
(7) 「分かち合う」(13節)
ここはイエスの祈りに対する信徒たちの参与が重要である。イエスの祈りは信徒たちの祈りでもある。
(8) 「世の者」(14~16節)
この祈りにおいて、もう一つ強調されている点が信徒たちは「この世に属していない」という点である。その「属していない」ということにおいて、イエスと弟子たちとの同じ立場になっている。つまり、イエスは父なる神から派遣された者としてこの世に生きている。その点で信徒たちもこの世に派遣された者として生きる。
(9) 「聖なる者」、「捧げられた者」(17,19節)
「この世に属さない」ということの積極的表現が「聖なる者、捧げられた者」で、それを「真理によって」なされる。この真理とは御言葉である。

③ 将来の弟子たちのための祈り(20~23)

<以下、テキスト>
20 また、彼らのためだけでなく、彼らの言葉によって私を信じる人々のためにも、お願いします。
21それはすべての人たちが一つになるためです。
父よ、あなたが私の内におられ、私があなたの内にいるように、彼らも私たちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたが私をお遣わしになったことを信じるようになります。
22 あなたがくださった栄光を私は彼らに与えました。私たちが一つであるように、彼らも一つになるためです。
23 私が彼らの内におり、あなたが私の内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。こうして、あなたが私をお遣わしになったこと、また、私を愛しておられたように、彼らをも愛しておられたことを、世が知るようになります。
<以上>


(1) 20~23節の部分は、直接の弟子たちによる宣教活動によって、弟子になったキリスト者たちのための祈りである。つまり、2代目の、3代目のキリスト者、イエスご自身はもちろんのことイエスの直弟子たちとも会ったことないキリスト者たちのための祈りである。厳密にいうと、それは2代目、3代目に限らない。それ以後の全てのキリスト者、そこには私たちも含まれている。新約聖書において、このような祈りや関心を示しているのは、ここだけである。その意味で、著者がこの項目を加えているのは非常に大きなことである。
(2) ここで祈りの内容はただ一つ、「一つになること」である。11節でも「一つになる」ということが述べられている。
ヨハネ福音書においては「一つになる」あるいは「一つである」という言葉は鍵の言葉の一つである。10:16では「こうして中庭の羊たちも中庭の外の羊たちも同じ一つの群れになって、一人の羊飼いに導かれることになります」と述べられている。これは将来の教会の理想的な姿を描いたことであろう。また、10:30では「私と父とは一つです」とあり、これは「一つである」ということの最高のモデルであると思われる。と同時に、ユダヤ人たちがイエスを処刑する根本的な理由は、ここにある(10:31)。また、12:51~2では「イエスが国民のために、ただ国民のためだけではなく、また散在している神の子らを一つに集めるために、死ぬことになっている」という言葉がある。もっともこの言葉はイエスを処刑する立場にあったカヤパのセリフであるが、この言葉を編集者は「このことは彼が自分から言ったのではない。彼はこの年の大祭司であったので、預言をしていったのである」と注釈している。この言葉は明らかに教会的編集者の言葉である。
教会が分裂し対立している時、宣教は弱体化する。実はその頃、著者が所属していた教会は分裂の危機にあった。事実、この福音書が書かれた直後、ヨハネの教会では「去る人たち」が出て来た。ただ「去る」だけなら問題は少ないが、むしろ深刻な問題は教会の内部に入り込み、伝統的「教え」に反する教えを主張することによって、教会を分裂させる危機にあった。
そのことについて、その頃、書かれたヨハネ第1の手紙が次のように述べている。
読んでみよう。1ヨハネ2:18~19。
≪子供たちよ、終わりの時が来ています。反キリストが来ると、あなたがたがかねて聞いていたとおり、今や多くの反キリストが現れています。これによって、終わりの時が来ていると分かります。彼らはわたしたちから去って行きましたが、もともと仲間ではなかったのです。仲間なら、わたしたちのもとにとどまっていたでしょう。しかし去って行き、だれもわたしたちの仲間ではないことが明らかになりました。≫
(3) ここでは、分裂の原因となった信仰あるいは神学の内容には立ち入らない。ともかく、ヨハネがこれを書いている頃、もう既にその分裂の危機は迫っており、ヨハネは何とかしてそれを避けたいと努力をしているのであるが、去る者は引き止めることが出来ない。それで、彼らは「初めから仲間ではなかった」(予定説)という立場で書いている。しかし、この祈りでのイエスの言葉では、そこまで断定していない。
教会が分裂状態にあるということの最大のマイナス面は宣教の不信ということに現れる。ヨハネはとくにその点をここでは問題にしている。「彼らの言葉によって、わたしを信じる人々のために」という祈りの言葉がそれを示している。

④ 結びの祈り(24)

<以下、テキスト>   
24 父よ、あなたが私に与えてくださった者たち、彼らもまた、私自身のいるところに私と共にいられるようにしてください。彼らが、あなたが私に与えてくださった私の栄光を見るためです。世のはじめより前にすで あなたが私を愛しておられたという輝きです。
<以上>


24節はこの祈り全体の結びの祈りである。
「世のはじめより前にすで あなたが私を愛しておられたという輝きです」。ここで「輝き」と訳した言葉の原語は「栄光」である。これは1:14で述べられている「それは父の独り子としての栄光」である。

⑤ 弟子たちの祈り(25~26)

<以下、テキスト>
25 義なる父よ、世はあなたを知りません。しかし私たちは知っています。私たちはあなたがイエスをお遣わしになられたということを知りました。
26 イエスは私たちにあなたの御名を教えてくれました。そしてあなたがイエスを愛した愛は私たちの中にもあります。またイエスご自身が私たちの中におられます。だから私たちはこのことを世の中の人々にも伝えます。
<以上>


最後の25~26節は、かなり問題である。はっきり言って、文章にかなり混乱がある。通常はこの部分もイエスの祈りということになっており、そのように訳している。しかし、そうするにはかなり問題がある。

参考に、新共同訳
25 正しい父よ、世はあなたを知りませんが、わたしはあなたを知っており、この人々はあなたがわたしを遣わされたことを知っています。
26 わたしは御名を彼らに知らせました。また、これからも知らせます。わたしに対するあなたの愛が彼らの内にあり、わたしも彼らの内にいるようになるためです。

問題1 「正しい父よ」という表現は新約聖書でここだけで何か違和感がある。
問題2 「わたしはあなたを知っており」という文章も、あまりにも当然すぎて、逆に無意味である。神の子イエスが父なる神を知っているということを今さらここで繰り返すのはおかしい。むしろここでは信徒たちがイエスによって父なる神のことを知っているという意味であろうと思われる。
問題3 この部分の原文の語順は、「彼らに知らせました」+「御名を」+「これからも知らせます」となっている。これでは「御名を」は「彼らに知らせました」の目的語であるが、「これからも知らせます」の目的語にはなり得ない。つまり、「これからも知らせます」という文の目的語がない。この文の目的語が「御名を」であるならば、「知らせました」と「知らせます」が直結して並べられなければならないのに、ここでの単語の順序がおかしい。これだと、「知らせます」に別な目的語が必要になってくる。だとすると、「わたしに対するあなたの愛が彼らの内にあり、わたしも彼らの内にいる」ということを知らせますという文章になる。そう訳すことも出来るがスッキリした文章にならない。
これらのことを考えて、田川建三は「この文を文の流れのなかで正確に読もうとするからいけないので、ここで決意表明をやらかしているのはもちろんイエス自身ではなく、教会的編集者たち、つまり現在キリスト教を宣伝して歩いているキリスト教宣教師および教会的説教者なのである」(661頁)とする。
その場合に、彼らは彼ら自身の働きはイエス自身の働きの継承であり継続だという確信に基づいて、普通なら「私たち」というべきところを「イエスはという(ここでは「わたしは」)。従って、ここでは「私は」という主語を「私たちは」と読み替えると文章が明白になる。


<余録>
この祈りは、古くから「大祭司イエスの祈り」と呼ばれてきた。その起源は不明であるが、この祈りの内容が、そう思わせるのであろう。
キリストは復活・昇天を経て神の右に上げられたという信仰は、かなり早くに確立したものと思われる。やがてその信仰はキリストは神の右の座において何をしておられるのか、という問いに導かれる。このことについて、パウロはロマ書8:34で次のように言う。「だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです」。この信仰はパウロだけではなくヘブライ書の著者にも受け継がれ、彼のキリスト大祭司論の基礎となっている。「イエスは永遠に生きているので、変わることのない祭司職を持っておられるのです。それでまた、この方は常に生きていて、人々のために執り成しておられるので、御自分を通して神に近づく人たちを、完全に救うことがおできになります」(Heb.7:24~25)。つまりキリストは神の右の座において大祭司としての役割を果たしておられる。
この信仰とこの祈りとが結びついて、「大祭司イエスの祈り」という言い方が成立したのであろうと思われる。

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