Quelque chose?

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東京都写真美術館

2019-07-15 | アート
今日は久しぶりに恵比寿へ。
東京都写真美術館(Tokyo Photographic Art Museum)。


開催中の展示のうち、今日のお目当ては二つ。
「世界報道写真展」と、今日まで開催の「宮本隆司 いまだ見えざるところ」である。
「世界〜」は B1階、宮本隆司は2階。二つ以上観るときにはセット券にすると割引になるのであるが、支払いにいくつか特定のクレジットカードを使ったりすると安くなるのであった。今日は、JREカードを使ったので少しおトクになり、得した気分。ふふっ。



まずは、世界報道写真展へ。

毎年開かれているこの写真展は、「世界報道写真コンテスト」の受賞作を紹介するもの。
今回は「129の国と地域から4,738人のフォトグラファーが参加し、78,801点の応募」があったとのこと。すごい規模である。
その中から選び抜かれた写真は、一枚一枚が、見ている者に「今まさに起こっていること、今まさに動いている世界」を克明に、そして深く突きつけてくる。

展示は「現代社会の問題」、「一般ニュース」、「長期取材」、「自然」、「環境」、「スポーツ」、「スポットニュース」、「ポートレート」の8部門に分かれている。順路は特にない。私たちは、テレビや新聞、というより最近ではネットやSNSなどで得ている同時代の情報を、細部まで鮮やかに、大きくプリントされた決定的写真によって、知識としてではなく「体験」として得ることになる。
例えば、中南米からアメリカに向かう「キャラバン」の人々。シリアで傷つくこどもたちの表情。保護され、人間とともに過ごすフラミンゴ。
いつか報道で聞いた内容を、ここで私たちは再構成し、自分たちが今生きているこの地球は、こんなに荒々しく、こんなに危機的なのか、と、安全な東京にいながら思うことになるのである。

8月からは大阪、滋賀、京都、大分に巡回するとのことです。

次は2階の「宮本隆司 いまだ見えざるところ」展へ。

宮本隆司というフォトグラファーについて、これまでほとんど予備知識はなかったのだけれど、どこかでみた「ソテツ」の写真に何か惹かれるものがあり、最終日の今日、立ち寄ってみた。

宮本さんは1947年東京生まれ。多摩美を卒業後、建築雑誌編集を経て1975年から写真家として独立。
今回の展覧会は、「建築の黙示録」や、アジア各国の都市を撮影したモノクロ写真のシリーズと、東京でスカイツリーを撮った「塔と柱」、それに両親のふるさとで、アートプロジェクトの企画に携わったという徳之島での日常やピンホール作品などが展示されていた。

宮本さんの作品は、しばしば「建築」「廃墟」「闇」ということばをキーワードとして解説されるという。今回の展示でも、「建築の黙示録」からの数展や、ネパールの「ロー・マンタン」で撮影された城壁など、光と影、そして時間が建築を変容させていくありさまが写真という形で私たちに提示される。
一方で、後半の徳之島の写真、風に揺れるサトウキビの映像や精密プリントされたソテツの写真などには、鮮やかな色合いに、南国の風が感じられる。穏やかに「シマ」に住まう人々のスナップでは、高齢の方々の、照れたような微笑みが並んでいる。

豊かな自然と静けさ、そして一部に写る頭蓋骨、そういったすべてが、今を生きる「シマ」の暮らしを織りなしているのだろう。

 


「ブラフマンの埋葬」

2019-07-15 | 本・映画・テレビ
小川洋子「ブラフマンの埋葬」(講談社文庫)を読んだ。

小川洋子作品を読むのは久しぶり。
この小さな文庫本は、たしか出張先の駅の書店で買って、新幹線の中で最初だけ読んで、これは丁寧に読むべき作品だとすぐに気づいたものの、作品と向き合う時間が取れずにそのままになっていたものだ。

書き出しから強い印象を受ける。
ブラフマン、というのは、「僕」が夏の初めに出会う小さな生き物に、碑文彫刻師が(と言っていいのだろうか)つけた名前である。
「僕」や「碑文彫刻師」は、<創作者の家>というところにいる。「僕」はそこの住み込みの管理人で、碑文彫刻師はその一角の工房で、墓碑や石棺をつくる仕事をしている。

この物語は、この、どこかにありそうだけれどもどこにもない<創作者の家>、およびその「家」が位置する、山と川と海に囲まれた「村」を舞台に、「ブラフマン」および彼をめぐる人々とを描いた作品である。
「ブラフマン」は最初、子犬のように思えるのだが、読んでいると実は違うらしいということに気づかされる。「僕」や「碑文彫刻師」、そしてその他登場する、それぞれに個性や仕事を持った人々も、この不思議な小さな生き物をそれぞれのスタイルで受け入れ、ブラフマンが泉の周りを駆け回るのとともに夏の季節は巡っていく。

風がそよぎ渡り、音楽や詩が聞こえてくる<創作者の家>。
しかし、作品のベースには、モティーフとして「死」や「石・石棺」が重層低音のように響いている。語り手である「僕」がどんな人物なのかは読者には明かされない。ただ、「僕」は「死」を思わせる写真を手にし、過ぎ去った時間、手の届かない存在を思いながら、目の前にいる小さな生き物と心を通わせる。
碑文彫刻師も、この物語になくてはならない、重石のような存在であることが最後のシーンで確かめられる。いろいろな糸がつむぎ合わされて、少しずつの事件が季節を一気に進めていく。読者の心も森の中へと送られていくようなラストである。

小川洋子作品の言葉は丁寧に練られていて、シンプルにして深い。
この作品に関しては、行間やフォントの使い分けも絶妙である。

"川面は太陽を浴び、水ではなく光が流れていくようだった。"

この一節を読んだだけで、この「村」の夏の陽光が、閉じた目に降り注いでくるような気がする。

夏、不思議で上質な短編を読みたい方におすすめ。
第32回泉鏡花賞受賞作。