来し方、行く末に思いを続けて…
日記 … Kametarou Blog
豊臣秀吉の妻たちのこと(2)
話は前後するが、信長の妹に、当時のミス日本といってもいい美女がいた。お市(おいち)という。この人は最初浅井長政(信長の家臣)の妻となり、3人の娘を産む。茶々、初、江(ごう)である。そして浅井は信長と闘い敗れる。(1570 姉川の戦い)。この後、36歳のお市は信長の家臣の柴田勝家の妻になる。勝家61歳。
賤ヶ岳の戦い(しずがたけのたたかい)が起こる(1583年4月)、今の滋賀県長浜市、賤ヶ岳付近で起きた羽柴秀吉と柴田勝家の戦いである。この戦いは織田勢力を二分する激しいものとなった。柴田勢は敗れた。お市もその夫勝家も死んだ。お市は37歳。
しかし、お市の3人の娘は生き延びることができた。一番上の茶々は考えた。父長政も、祖父久政も、叔父信長も、そして今勝家と母お市の方も、皆合戦で死んだ。合戦には勝たなければならない、と。
天正13年(1585) 、茶々19,初(はつ)17、江15歳。
聚楽第(じゅらくてい。秀吉のつくった邸宅兼城郭。しかしこれは8年後廃棄された)で、茶々は秀吉と会った。小柄な皺の多い一人の平凡な老人だった。
天正16年(1588) 。茶々は秀吉の側室に。彼女は、自分は天下人の側室といっても、所詮一人の俘囚以外の何者でもないと。しかし茶々は言う。「稚児を生み新しい城に住みましょう」。
秀吉の正妻は北政所(きたのまんどころ。正妻の部屋は邸宅の北にあった。この主というような意味。もともとの名はねね。40歳?)だった。
茶々は、肉親の仇敵である秀吉の側室に上がることは耐えられないことだった。茶々の知っているすべての人はみなこの秀吉のために命を失っていた。しかし、自分は秀吉の生殺与奪の権を持っていると考えることで初めて耐えることができた。老いた権力者と同じ床で眠ることができた。
賤ヶ岳の戦い(しずがたけのたたかい)が起こる(1583年4月)、今の滋賀県長浜市、賤ヶ岳付近で起きた羽柴秀吉と柴田勝家の戦いである。この戦いは織田勢力を二分する激しいものとなった。柴田勢は敗れた。お市もその夫勝家も死んだ。お市は37歳。
しかし、お市の3人の娘は生き延びることができた。一番上の茶々は考えた。父長政も、祖父久政も、叔父信長も、そして今勝家と母お市の方も、皆合戦で死んだ。合戦には勝たなければならない、と。
天正13年(1585) 、茶々19,初(はつ)17、江15歳。
聚楽第(じゅらくてい。秀吉のつくった邸宅兼城郭。しかしこれは8年後廃棄された)で、茶々は秀吉と会った。小柄な皺の多い一人の平凡な老人だった。
天正16年(1588) 。茶々は秀吉の側室に。彼女は、自分は天下人の側室といっても、所詮一人の俘囚以外の何者でもないと。しかし茶々は言う。「稚児を生み新しい城に住みましょう」。
秀吉の正妻は北政所(きたのまんどころ。正妻の部屋は邸宅の北にあった。この主というような意味。もともとの名はねね。40歳?)だった。
茶々は、肉親の仇敵である秀吉の側室に上がることは耐えられないことだった。茶々の知っているすべての人はみなこの秀吉のために命を失っていた。しかし、自分は秀吉の生殺与奪の権を持っていると考えることで初めて耐えることができた。老いた権力者と同じ床で眠ることができた。
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