教育科学研究会編「現実と向きあう教育学」5

この教科研の著作に関するコメントを終えるに当たって「地域との連携」「地域に根ざす教育」についてひと言。

かつて学校は、地域のいわば文化センター的な意義をもっていた。子どもは学校と教師たちからの指導・教育にとどまらず地域の人たちみんなからはぐくまれ感化を受けてきた。地域の人たちもまた学校を自分たちの社会の構成要素として考え、学校の教師たちは地域とつながり合っていた。今、この理念はどういう性格を持っているのだろうか。

標記の書から2か所引用する。
一つは、森博俊氏(都留文科大)の「発達障害をもつ子どもをどう理解するか」。特別支援教育の意義を評価しつつ、「あらゆる子どもを包み込んだ学校(inclusive school)」の探求をいう。
※ この点でも現在多くのフリースクールではこの意義を実行しているのである。もう一度言いたい。教科研の方がたはぜひ各地のフリースクールをしっかり見て欲しい。あなた方がいう教育理念を意識するしないに関わらず最も着実に進めているのは、フリースクールであることを。
森氏は、インクルーシヴな学校づくりは特別支援教育の質を問い直しつつ、これを媒介にした学校づくりであり、これは「学校と保護者(家庭)と地域の共同の力を耕す学校づくりでもある」と結論づける。

今一つは、前にも引用した久富善之氏の「いま何を改革すべきか」の最後の部分で「いまなすべきこと」として指摘する「子どもたちが安心してのびのびと育つことのできる地域に根ざした『学校づくり』を」。この具体化として学校理事会による自治的な学校運営をいう。

私は、小学校や中学校の経験がないので軽軽には言えないのだが、かつて上に言った文化センター的な学校があり得たのは、第一次第二次産業が主力の社会だったのではないかと思う。「個人情報尊重」の網でくくられている今の社会で、地域との共同などいわば理念形でしかないのではないかとすら思う。あるのはせいぜい子どもの安全を守る町内会的なサポーター機能か。しばしば典型として評価されるのはやはり「地方」でのあり方だ。コミュニティが文字どおりの形で機能している所であるように思う。教科研の人たちのいう「地域での共同の学校づくり」を、特に大都市部で実現できるのか。

それにもかかわらず私たちは、やはり「学びの共同体」を指向する。子ども・教職員・父母・住民などの学校当事者が「理事会」をつくって行う自治的な学校運営とは異なるが、(こういう構成は非現実的!)やはり共同の学校をどうつくるかを、探求している。
子どもを支援する教職員と父母、地域のサポーターの連携、そして学校と子どもとの共同の取り組みなどを試行錯誤しながら進めている。
また、札幌と高校の本部のある和寒町との共同、こういうそれぞれの学校の条件にあった形で「自由と共同の学校」をめざす取り組みは、いずれ教科研の方がたに謙虚さがあれば見てもらえるだろう、と思っている。
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