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日記 … Kametarou Blog
高岡 健さんの講演
岐阜大の先生で、発達障がいや引きこもり等を長年取り組んでこられた高岡先生を招いての講演会(北海道フリースクール等ネットワーク主催)。
「かでる27」の80人の部屋はほぼ満員。今回は学校の先生と思われる方がたが多かったようだ。
お話の冒頭、「不登校を堂々としていれば自殺しなくてもよかったはず」と岐阜の例をあげて、いじめが子どもを死に追い込むケースが大きいことを指摘されている。このことは今年8月の手稲区の中学生の自殺の場合にもお当てはまるだろう(この場合いじめと自殺の関係ははっきりしていない、という報告書はあったが)。
「不登校は子どもが学校になじめない」というのではなく、「100年以上続く今日の学校のしくみが社会になじんでいない。そして今の社会に生きる子どもは学校になじめない」。
学校は第二次産業の社会で有効な役割を果たしてきた。70年代、第三次産業がどんどん大きな比重を占めてくるようになっても学校はこれに合わせた改革をしていない。「集団指導」を骨子とする学校から子どもたちが離れていくことが不登校の根本ではないか。
そして「発達障がい」の歴史的なおさえをした上で、「自閉症スペクトラム障がい」とこれをとらえ直していこう、と3つの特性をもつこと、3歳前にすでにこの傾向は始まっていること。
3つの特性とは、対人関係が苦手、コミュニケーションが苦手、想像力が狭くて深い、などだが、これも別にいえば社会的な関係をつくる上での強みになる場合もあるし、もの事を取り組む上でのスキルが大きいということにもなる。
そして、自閉症スペクトラムへの対応は人間の社会の多くのケースに適応できるのではないか、と。
ノーマライゼーションとは、皆同じようになるわけではなく、ある違いをもった人たちが仲良く過ごすことができるようになることだ。違いの文化を共生することにその意味がある。
またADHD(注意欠如多動性)などは特別なサポートなど要らないのではないか、ダメだダメだではなくいいところをリストアップしてほめることがあれば、誰もが自信をもつようになる。LD(学習障がい)も教育器機の活用とか勉強理解を促すスベを考えることによって、大ごとになる問題でもない、「勉強ができない」人などたくさんいた。
終わってからの懇親会も、高岡先生を囲んで参加者全員が話しをした。「明日」になる直前の帰宅だった。
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