来し方、行く末に思いを続けて…
日記 … Kametarou Blog
また森友問題について
森友学園が小学校をつくろうとあれこれ手を尽くしたが、うまくいかずその学校づくりのプロセスにカネと政治力がからんで、いわば一種の疑獄事件まがいの問題として浮かび上がっている。
これを横目で見て、もし森友問題を学校づくりの基本テーマとして考えたらどういうことになるだろうか。
私たちも、学校をつくるべく努力してきた。そして和寒町という自治体の協力支援によって通信制の高校を作り上げることができた。
私たちも、学校をつくるべく努力してきた。そして和寒町という自治体の協力支援によって通信制の高校を作り上げることができた。
このプロセスで同町の支援協力として校舎校地の活用という面で便宜をはかってもらった。そして私たちは地方の活性化というテーマを小さいながらも尽力してきたと思っている。
大阪にある国有地の貸与、贈与ということも、上の私たちの場合をみてもあり得る話である。土地の価格を評価額の8割引きとすることも、私たちの場合と比べて特別に不自然ではないかも知れない。(この土地が国有地でありこの大幅な値引きの根拠がはっきりしないが)。
学校の目標(「建学の理念」)が教育勅語の理念にもとづくという時代錯誤であり、これは教育基本法の理念に全くそぐわないということははっきりしている。
「学校設立」がテーマとなったとき、まず出てくる問いは「どういう学校?」である。この基本が教育基本法の理念と今日の教育問題解決の方向と合致していることが大前提になる。
森友学園の目標の小学校はこの点で逆方向であることが問題の第一だろう。そして中国・韓国へのヘイトスピーチや子どもへの虐待なども問題になっていることなども合わせてみたとき、この学校設立は拒否されて当然である。「学校設立の自由」という立場からは肯定できるものではない。
つまり学校設立の自由という原則はきわめて市民的自由すなわち国民の民主的な権利の行使につながるテーマだ。教育勅語、反韓国、反中国の教育思想、は教育基本法の反対の極にある立場だ。そういう点からも森友学園の目指す学校づくりは許されるべきではないと考える。
だから学校設立の自由という一般的なテーマを引用して森友学園の方針を考えることはできない。
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