来し方、行く末に思いを続けて…
日記 … Kametarou Blog
「我が国の未来に希望をもてるか」-(2)
先日、こういうタイトルの文を書いた。半世紀以上前の日本社会の方が「希望」を持つ人が多かったのでは、という意味のことを記した。
「希望」をもつ、ということは「『今』に対する私の気持ち」を前提としている。今よりも「あのときは自分もみんなもいきいきとしていたな」という気持ちがあって、何年も前の「あのとき」が頭に浮かぶ。「あのとき」が今よりも暮らしが豊かであったというわけでもない。妻や子どものいる「しあわせな家庭」であったわけでもない。しかし気持ちは、自分もまわりの人たちも、今よりいきいきとしていたのではないか、と思い出されるのだ。
こういうことを思ったときに「あの時の充足感」は、何だったのか、と考えるのだが…。
何度も記してきたが、戦後数年間、私たち子どもも、当時の大人も「よし平和で自由な日本、貧しくてもやりがいのある仕事ができる日本になるぞ」といった気分があったような気がした。今は、そういう気持ちを誰もがもてるし持っているのだろうが、それがどうも自分の「生きがい」とか「人生観」などに結びつかない(と私は思う)。
何を言いたいのか、と問われるだろう。自分でも、文字通り「独り言」みたいな文章だと思っているのだが、改めて自分に問う気持ちで気した。
「希望」をもつ、ということは「『今』に対する私の気持ち」を前提としている。今よりも「あのときは自分もみんなもいきいきとしていたな」という気持ちがあって、何年も前の「あのとき」が頭に浮かぶ。「あのとき」が今よりも暮らしが豊かであったというわけでもない。妻や子どものいる「しあわせな家庭」であったわけでもない。しかし気持ちは、自分もまわりの人たちも、今よりいきいきとしていたのではないか、と思い出されるのだ。
こういうことを思ったときに「あの時の充足感」は、何だったのか、と考えるのだが…。
何度も記してきたが、戦後数年間、私たち子どもも、当時の大人も「よし平和で自由な日本、貧しくてもやりがいのある仕事ができる日本になるぞ」といった気分があったような気がした。今は、そういう気持ちを誰もがもてるし持っているのだろうが、それがどうも自分の「生きがい」とか「人生観」などに結びつかない(と私は思う)。
何を言いたいのか、と問われるだろう。自分でも、文字通り「独り言」みたいな文章だと思っているのだが、改めて自分に問う気持ちで気した。
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