「社会保障費増大などは現役世代への犠牲に通じる」という議論は「姥捨て思想」に通じないか

テレビなどのニュース系の番組で、国の財政が問題になる。バラマキ論だ。この議論の中で非常に気になるのは、社会保障費の増大、年金総額のアップなど、結局は現役世代への犠牲に通じている、といった議論が行われている。
たしかに、この国家財政の内訳などから、結論的にいうなら高齢者など「現役引退した人たち」のための支出は税金によって維持されている、これを大きく負担している現役世代によって賄われているという側面はあるだろう。

この論を結論づけると、昔からある「姥捨て思想」に通じる側面を強く表しているのではないか、と危惧するのだ。

「姥捨て思想」というのは、知られているように、年をとって働くことのできなくなった人は「早く死んでもらうために山に捨てに行く」という伝説からくる。
社会保障費等の増額は老人のための支出が大きい、少子高齢化で高齢者が漸増している、だから老人のために社会保障費(年金支出による財政支出も含めて)など、これを大きく負担するのは「現役世代」だ。だから(声を大にしては言えないが)高齢者のために若者たちが犠牲になっている現実だというリクツになっている。

現役を退いた人たちは(声を大きくは言えないが)早く減ってくれた方がいいのでは、と言いたいのだと聞こえるのは、私のひがみだろうか。

そもそも政治というのは、今困っている人たちも、将来にわたって元気で幸福に生きられるようにさまざまな施策を行うことが基本だろう。社会の発達というのはこの公助のシステムを充実拡張してきたことを意味すると思う。このいわゆる恩恵を受ける人は、子ども、高齢者、傷害のある人たち、をまずあげることができる。そしてこのことがとりもなおさず誰もが幸福になっていくという展望につながるのではないか。

姥捨て思想に近い議論を、いわゆる評論家らしい顔をした人たちが回りくどく言っていることについて政治と公益の関係を熟考して欲しいと思うのだが。
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