安重根のことなど

安重根の扱いをめぐって日本と中韓の間でギクシャクしてきた。
「安重根」という人はほとんど日本人にとってはあまりなじみがない。だが高校日本史の教科書には登場している人物である。
東京書籍の日本史Bの記述。
「日本は、ポーツマス条約の調印後、韓国に対する支配を本格的に開始した。…(第一次日韓協約、韓国を保護国としたこと、初代統監とする伊藤博文のこと、韓国皇帝を退位させたこと、韓国の軍隊を解散させたことなど…)。これに対して、韓国国民ははげし抵抗を示し(義兵運動)、日本は軍隊を出動させてこれを鎮圧した。しかし対日抵抗運動はその後もつづけられ、1909(明治42)年には、ハルピン駅頭で、前統監の伊藤博文が義兵運動の指導者安重根によって殺される事件がおこった」。
(翌1910年…武力を背景とした植民地支配をおしすすめた、と記す)。

この教科書の記述は客観的であろう。伊藤の役割、安重根の行動の意味など、短いながらもまとめていると言える。

韓国の立場からすれば安重根はまさに「国益」を守るために日本の韓国支配の中心人物を殺した、いわば英雄である。日本の政府の人たちはテロリストである、と指摘するが、今言うテロリストという表現は歴史的な意味からすれば当たっているのだろうか。

国が異なれば評価は正反対であり、これはあり得ることだろう。ただ100年前のことを外交または国家関係の桎梏としてあげることはどうなのだろうか。

今から700年以上前の鎌倉時代、時の幕府の中心人物北条時宗は、モンゴル帝国からの服属の要求を断固として拒否し、その後の2度に及び「元寇」を招きながらもこれを撃退した。この2度目の元軍の襲来に先立って日本にやってきた元の使者数名を幕府は切り捨てる。その後またやってきた使者をも切り捨てて、「断固たる態度を示した」。

このことは安重根事件とは関係がないのだが、元の立場からすれば、日本の態度は非常識であり無茶苦茶である。日本からいえば、北条時宗の毅然とした態度の表れとして意味をもつ。
国家間の争いに関係することは全く正反対の意義をもっている。一方において善隣関係を築かなければならないという原則もある。

国のリーダーはどうあるべきか、リーダーでもないわれわれもまた考えてみたいテーマではある。

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