「学力」問題3(「学力」の比較?)

「学力」というものを、暗黙の理解として「測定できる学力」すなわち点数として評価できる部分としていわれる。ある人(岸本裕史氏)はこれを「見える学力」といい、A学力(志水宏吉氏「学力育てる」)といったりする。そして「見えない学力」とか、思考・判断・表現のB学力、意欲・関心・態度のC学力などと区分する。よく「学校で身につけた学力などあまり役に立たない」なとどいわれるが、学力テストで計られる「学力」はそういうように評価されるきわめて多義的というか、あいまいというか、はたまた発言者の恣意的というか、の一面ももっている。しかし大方の議論は、この「見える学力」、A学力が下がっていることを問題にする。「学力が低下した」という場合、常に過去の子どもの学力との比較である。「素人」の場合、だいたい「自分がこの年齢のころはもっといろいろ理解できたし知識もあった」という自分史が背後にある。これと比べて今の子ども(若者)はどうか?、というようになる。しかしこの種の比較は実に手前勝手な比較である場合が多い。

例えば、戦後(私たち世代)「六三制、野球ばかりが強くなり」と経験主義の教育が批判されたことを先に指摘した。その時の子どもは戦前と比べて「国漢知識」は低くなったはずである。また、今の子どもは何年か前の子どもとある部分の学力を比較すると低くなっているだろう。しかし今の子どもが持っている例えばパソコンや携帯電話操作の力量は以前の子ども(今の40歳以上)と比べて格段に上である。こういうことは学力調査の上で出てこない。あるいは、英語の会話能力、聞く力や話す力、などを比較してもやはり同じだろう。だいたい私たちは英語は読めて訳すことができればいい、という世代だった。「日本的英語発音」だった。

「読み書きそろばん」的な学力といっても、10年から50年の時間でみれば内容は大きく異なる。「そろばん」を「パソコン」と置き換えることだって有効であるだろう。漢字を書くことも、私などもかなりあやしくなっている。まして筆順などは覚える意味はどこにあるのだろう、とすら思う。漢字を正確に書けなくとも、キーボードをうてば大体必要な文字が出てくる。

いいたいことは次のことである。
今と過去の子どもたちの学力を比較して「今の子どもの学力は弱い」と言う。しかしそこそこ高い学力をもっていた人生のベテラン諸君も、使わない漢字は読み方を間違ったり、まして因数分解の解法などすっかり忘れている。そしてパソコンの使い方が分からなくて子どもにバカにされる。そういう時に「今の年寄りは学力がない」といわれるだろうか。つまり、今と過去の学力の比較は、資料として残すとか調査研究のためにとか以外にはそれほど意味があるとは思えない、ということである。

教師たちは子どもたちの学力をいかに向上させるかに真剣に取り組んでいる。このことは教育実践の重要な内容である。そのために、授業の工夫やクラスづくりや学校行事など、多様な取り組みを行う。そして、一人ひとりの子どもが、1か月前と比べて学力獲得でどのように前進したか、その前進のバロメーターを示して、自信をもたせ、さらなるステップアップを激励する。
問題は、この学力獲得を他人との競争で行うことの意味を問うているのである。
あるいはそのときそのときの恣意的な基準で子どもたちの力が下がっていることを主張することがどういう意味をもっているのか、を自問自答すべきであろう。

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