来し方、行く末に思いを続けて…
日記 … Kametarou Blog
「学力」問題2(「経験重視」と「知識重視」)
戦後の日本の教育史は、声高に叫ばれる学力論の特徴によって区分されてもよいといえる。一昨日記したように、学力問題ほど誰でも語ることができ、また反論できるテーマはない。何よりも今の教育・学校を厳しく批判できるのである。だからマスコミを巻き込み大きな学校教育批判の波をつくる。そこでは、「学力」をどうとらえるかなどは一部学者に任せて、それぞれが自由な「学力観」をもって議論する。未来の社会に活きる学力はどういうものであるべきかなどはとりあえず棚にあげ、身につけなければならないと想定される無数の知識の断片を勝手に思い浮かべて「今の子どもは学力が低下した」と発言する。常に学力論は「以前と比べて今は低い」という前提の論理が潜在する。
その最初が戦後民主教育の展開時だった。戦前の軍国主義教育が否定され、アメリカのデューイ思想が土台となる経験主義教育だった。「なすことによって学ぶ」教育は、それ以前の暗記・つめこみ教育との対比で、非常に新鮮だった。子どもも教師も、自由の風潮とあいまって実にいきいきと学び合った。しかし、その教育の流れは50年代になると「学力が低下した」と批判されだした。「はいまわる経験主義」とか「系統性のない教育」とか、はては「六三制、野球ばかりがうまくなり」と揶揄されたりした。
学力問題は、戦後まもなくから「政治的」思惑をもって言われる。50年代終わりから60年代にかけて知識中心の教育が幅をきかす(高度経済成長時代)。経験主義の教育は背後に追いやられ知識偏重の教育が「復活」した。この動きは子どもたちをめぐってさまざまな問題を引き起こした。受験競争や学歴社会の弊害である。
これを受けて、80年代以降、教育政策は「個性重視」「総合的な学習」「ゆとり教育」という形で反対方向に動く。
このように、戦後の教育は、「経験重視主義」と伝統的な「知識重視主義」の両極をいったり来たりするという振り子的な流れをつくってきた。そして昨日記したように3年前の全国学力テスト復活に端的に示されるように「ゆとり教育」という経験重視・考える教育は、知識重視型にシフトしていく。ところがこの傾向も若干軌道修正しそうだ。(全員受検から抽出受検へ)。
※ 抽出は場合によっては全員よりも問題を大きくするという意見もある。悉皆調査を、という強い意見もあげられているとのこと。「せっかく学力競争を勝利するめやすができたのに」ということらしい。サンプル調査ならこの厳密な比較があいまいになるから。
その最初が戦後民主教育の展開時だった。戦前の軍国主義教育が否定され、アメリカのデューイ思想が土台となる経験主義教育だった。「なすことによって学ぶ」教育は、それ以前の暗記・つめこみ教育との対比で、非常に新鮮だった。子どもも教師も、自由の風潮とあいまって実にいきいきと学び合った。しかし、その教育の流れは50年代になると「学力が低下した」と批判されだした。「はいまわる経験主義」とか「系統性のない教育」とか、はては「六三制、野球ばかりがうまくなり」と揶揄されたりした。
学力問題は、戦後まもなくから「政治的」思惑をもって言われる。50年代終わりから60年代にかけて知識中心の教育が幅をきかす(高度経済成長時代)。経験主義の教育は背後に追いやられ知識偏重の教育が「復活」した。この動きは子どもたちをめぐってさまざまな問題を引き起こした。受験競争や学歴社会の弊害である。
これを受けて、80年代以降、教育政策は「個性重視」「総合的な学習」「ゆとり教育」という形で反対方向に動く。
このように、戦後の教育は、「経験重視主義」と伝統的な「知識重視主義」の両極をいったり来たりするという振り子的な流れをつくってきた。そして昨日記したように3年前の全国学力テスト復活に端的に示されるように「ゆとり教育」という経験重視・考える教育は、知識重視型にシフトしていく。ところがこの傾向も若干軌道修正しそうだ。(全員受検から抽出受検へ)。
※ 抽出は場合によっては全員よりも問題を大きくするという意見もある。悉皆調査を、という強い意見もあげられているとのこと。「せっかく学力競争を勝利するめやすができたのに」ということらしい。サンプル調査ならこの厳密な比較があいまいになるから。
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