来し方、行く末に思いを続けて…
日記 … Kametarou Blog
野口英世のこと(渡辺淳一著「遠き落日」の紹介)(6・完)
1927年11月18日、船はようやくアクラ(ガーナー)についた。大型汽船が接岸できる港はなく、沖合に泊まって艀(はしけ)に移り岸辺に来ると黒人の床板にのって上陸した。英世のいた研究室や動物小屋、今はガーナ大学の医学部の一角。銅板がある「野口博士は、ここで黄熱病の研究をし、人類の幸福のために尽くした」。
当時、英世の下で働いていた黒人助手のウイリアム氏が今もアクラに住んでいる。ノグチへの思い出は「偉い人」の一言。
※ ここでいう「今」は著者(渡辺淳一氏)がこの小説を著した1975年前後と思われる。
1928年5月13日、英世は、ガーナのアクラの病院。寝たきり。高熱。嘔吐。黄熱病であることは確か。しかし英世は自分はこれにかからないと確信していた。免疫があると。ワクチンをうっているからと。
「結局、われわれは黄熱病については、なにもわかっていないんだね」と英世。敗北宣言だった。
5月19日、英世は軽い癲癇ようの発作、失神状態、精神錯乱状態におちいった。懸命な治療。強心剤と精神安定剤を注射し、アルカリを補給し点滴を続ける他に方法がなかった。
20日、意識朦朧、「おっ母ぁ…」と叫ぶ。
5月21日の午前11時、ノグチはかすかに口が動き、かろうじて聞き取れる低い声で言った。
「なにがなんだか、わからない…」。これが英世が最後の言葉だった。
死後解剖され肝臓の一部が摘出された。今ロンドンの博物館に現存されている(あきらかに黄熱病による黄疸の症状がある)。
英世の遺体はロックフェラー研究所が寄贈したニューヨーク市北郊の墓地に埋葬され、英世の名と業績を刻んだ墓碑が建立された。
現在ロックフェラー財団医学研究所図書館の正面玄関の左右には、ロックフェラー一世の胸像と向かい合って英世の胸像が並び、明治の半ば単身アメリカに渡った一日本人の業績をたたえている。
日本の英世の墓は、故郷翁島長照寺に、かつて孝養を尽くした母と、憎みきった父の墓石の間に墓標が立てられていたが、戦後、同じ境内に英世・メリー夫妻の墓が、新たに建立された。またその遺髪は、生家の中庭の石碑の下に埋葬されている。戒名は「大仁院殿済民英世居士」である。
当時、英世の下で働いていた黒人助手のウイリアム氏が今もアクラに住んでいる。ノグチへの思い出は「偉い人」の一言。
※ ここでいう「今」は著者(渡辺淳一氏)がこの小説を著した1975年前後と思われる。
1928年5月13日、英世は、ガーナのアクラの病院。寝たきり。高熱。嘔吐。黄熱病であることは確か。しかし英世は自分はこれにかからないと確信していた。免疫があると。ワクチンをうっているからと。
「結局、われわれは黄熱病については、なにもわかっていないんだね」と英世。敗北宣言だった。
5月19日、英世は軽い癲癇ようの発作、失神状態、精神錯乱状態におちいった。懸命な治療。強心剤と精神安定剤を注射し、アルカリを補給し点滴を続ける他に方法がなかった。
20日、意識朦朧、「おっ母ぁ…」と叫ぶ。
5月21日の午前11時、ノグチはかすかに口が動き、かろうじて聞き取れる低い声で言った。
「なにがなんだか、わからない…」。これが英世が最後の言葉だった。
死後解剖され肝臓の一部が摘出された。今ロンドンの博物館に現存されている(あきらかに黄熱病による黄疸の症状がある)。
英世の遺体はロックフェラー研究所が寄贈したニューヨーク市北郊の墓地に埋葬され、英世の名と業績を刻んだ墓碑が建立された。
現在ロックフェラー財団医学研究所図書館の正面玄関の左右には、ロックフェラー一世の胸像と向かい合って英世の胸像が並び、明治の半ば単身アメリカに渡った一日本人の業績をたたえている。
日本の英世の墓は、故郷翁島長照寺に、かつて孝養を尽くした母と、憎みきった父の墓石の間に墓標が立てられていたが、戦後、同じ境内に英世・メリー夫妻の墓が、新たに建立された。またその遺髪は、生家の中庭の石碑の下に埋葬されている。戒名は「大仁院殿済民英世居士」である。
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