今日8月15日、私の「戦争体験」について

やはり、76年前を思い出す。私は何度か記したことだが、直接の「戦争体験」をした一人だと思っている。東京大空襲とか、その他の爆撃下での死ぬか生きるかの体験ではない。しかし私たちの世代(70~80歳代の人たち)は多少の差はあっても誰もが戦争と関わりをもっていたはずだ。
爆撃の下とか地上戦のかたわらということだけが戦争体験ではない。肉親の誰かが戦争で死傷した、また直接わが家が焼かれた、その他いろいろ。

1942年10月に私の父親は、私と弟、そして母をおいて、中国大陸(昔の言葉で「中支」と言っていた)で銃弾を受けてではなかったらしいが、「戦病死した」というように伝えられた。母はこの知らせを受けて何日も泣き崩れていたというかすかな記憶がある。そして翌年3月、新潟から母の実家の道北の和寒町に移り住んだ。44年に小学校(当時は国民学校といっていた)に入学した。

小学校1年生でも、学校の先生から「神国日本は不滅だ」とか、必ず神風が吹いてアメリカ軍は海に沈められるはずだ、とバカみたいなことを言われていたように思う。神国日本を創ってくれた天皇陛下への御恩は…とか、そして120代をこえる天皇の名前を暗誦できるようにならなければ、とジンム、スイズイ、アンネイ、等覚える練習をしたように思う。

直接爆撃を受けて死ぬという体験は幸い道北ではしなかった。空襲警報の知らせがあったら校舎の裏の防空壕に入るゾ、などとも言われた。しかし昭和20年の7月旭川が爆撃されたという知らせがあった。そして夏休み中の8月15日、無条件降伏を告げる天皇の放送は聴けなかった(当時、私の住んでいた和寒には電気もなくラジオがなかったから)が、町から帰ってきた叔父が「戦争は終わったらしいゾ」と言っていた。小学校2年だった。

私の戦争体験は上の筋書きが基調だが、今に至るまで心から離れないのは、父の戦死を受けた母の悲しみだった。そして昭和35(1960)年までの暮らしは食うことに困ることもなかったし、和寒での母の実家での暮らしも全く辛いこともなかったはずだが、気苦労は大きかったのではないかと想像している。

だからわが「戦争体験」というのは、死ぬか生きるかではないが、最も重要な人(父であり母から言えば夫)を失うということだった。これは病気とか交通事故で失うこととは違って、神国日本から殺されたということだ。しかもこの戦争が、当時の日本の立場で「正義の戦争」ではなく「他国侵略」という不正義の戦争だった。

戦争体験云々が、今日を前後して語られた。これについて「オレの戦争体験とは何だ」と自問自答したことから生んだ結論である。

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