来し方、行く末に思いを続けて…
日記 … Kametarou Blog
北海道の「学力危機」を考える(3)
先日来の「読売シンポ」に関連して。これが最後。
私は繰り返すが子どもの学力を引き上げるべく努力するのは学校と教師の基本のテーマであるといえる。その「学力」は端的にはかつていわれた言葉を引き合いに出せば「見える学力」と「見えない学力」の二つである。しばしば「学力」は前者を指す。つまりテストなどで計ることのできる学力である。小学校4年生程度の学力をもって「基礎学力」とくくるのは少々抵抗があるが、例えば小学校で習う漢字は1006字で、小4までには640字を習うことになっている。また47都道府県がどこにあり、その名前を覚えるなどもある。簡単ではない子どももいるが最低必要なことだろう。
誰もが基礎学力を、というのは当然であり、学校のテーマであろう。しかしながら、学校以外が声高に叫び出すことによって、学力アップ競争に拍車がかかる。「競争は悪くない」との意見もあるが、子どもの世界でこういう競争が励みになる子どももいるだろうが、逆に追い込まれる子どももむしろ多いのではないだろうか。
学力テストで、北海道など広くて経済事情がよくない地域はそもそもハンディキャップがある。全国平均以上に、というのは悪くないがムリはしてもらいたくない。子どもと先生が可哀想になる。
自信のない子ども(これを自己肯定感がないというのだそうだが)がどんどん増殖されている現状で、学校と教育の課題は「学力危機対応の教育を」ということなのだろうか。
社会の高度化は教育と学校の意味を変えてきていると言われる。今の子どもと60年代の子どもの学習へのモチベーションは明らかに違う。だいたい高度な社会では子どもの学力(上の「見える学力」)は一般的には下がる傾向にあることは誰の目にも明らかだ。これは「平均的学力」を想定していることだが。「受験学力」向上に力点が置かれていくことは当然の帰結になる。一部の受験勝者は高い学力をもつだろうが、社会全体で有効なのだろうか。
かつていわれた「ゆとり教育」(この語は適切ではない!)の時に言われた教育の方向とはまさに社会の高度化に対応する教育の課題を確認しかかったのではないだろうか。問題はこれを「産湯と共に赤ん坊も捨ててしまった」という感じがしてならない。「ゆとり教育」バッシングをする人は「ゆとり教育」の意味の理解が不十分だと、私など思っている。
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