五木寛之さんの「親鸞」

北海道新聞の連載小説。今「激動編」で稲田草庵にて親鸞が人びとに浄土真宗の根本(ではないかと思う)を説いている。すなわち、阿弥陀仏(仏と言い換えてもいいかも)はどのように心に映るのか、私たちは阿弥陀仏をどう理解するのか、というテーマだ。

これまでいくつもの「親鸞」記があったが、これほどわかりやすく心に響く親鸞を描いた作家はいないのではないか、と思うがどうだろうか。

「親鸞」の中で五木さんはこう問いかける。「仏を見たことがあるか」と。誰もそうう体験はない。思いがけず、親鸞自身も「この親鸞も、阿弥陀さまとお会いしたことは、一度もないのだ」と答える。そして「仏と会うために命がけで修行を積んだが、仏に会うことはできなかった」と繰り返す。
師法然上人の助けも借りながら、ついにこう答える。
「阿弥陀さまとは、明るい光、かぎりない命のこと」

私たちは普通の人、これを仏教の語で凡夫(ぼんぷ)というが、絶えず迷う。心がゆらぐ。くじける。そのつど立ち直らせてくれる光が念仏(南無阿弥陀仏)だ。「おい、おいどうしたのだ、と、阿弥陀さまが呼びかけておられるような気がするのだよ」と法然上人はおっしゃった。

何か呪文を唱えるように聞こえる念仏の意味がはっきりする。五木さんの「親鸞」は現代人の生き方への問い直しをしているように感じてならない。それはとりもなおさず自分自身への迷いを𠮟咤激励する800年前の親鸞の声のように聞こえる。

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