かみなり

心臓に人工弁を、耳に補聴器をしている昭和23年生まれの団塊世代です。趣味は短歌です。日々のよしなしごとを綴っていきます。

短歌を商業ベースに乗せることの功罪

2019-06-24 21:36:26 | ブログ記事
昨日広報堂という会社から
私の短歌を新聞の広告に出さないかと電話があった。

電話は夫が受けて断ってくれたが、以前も同じような電話があった。

24万円だせば、自作短歌を新聞に載せてくれるという案内だった。

誰がそんな大金まで出して新聞に載せてもらいたい?

ところが、世の中にはお金持ちも多いらしくて、
その誘いに乗って、短歌を出してもらう人たちもいるらしい。

私は、もちろん、お金がいただける短歌など作れない。

が、かといって、自作短歌を載せてもらうのに、そんな大金は支払いたくない。

お金を使って売名行為をして、どうするというのだ。

これとは別に、
短歌には短歌専門の商業誌というのが存在する。

知り合いの歌人は、ときどきこの商業誌に歌を載せてもらっているが、
そのたびに、その商業誌の当該号を10冊ほど購入すると聞いた。

購入して親戚、知人に配るのだそう。

私には、これも驚きだった。

そんなお金を払ってまでして雑誌に載せてもらいたい人がいるなんてと。

もちろん、純粋に頼まれて掲載してもらう人が大半だとは思うが、
中には、こういう人もいるということだ。

それにしても、歌を作るのって、趣味ではないの?

楽しむためにやっているのではないの?

しかし、楽しみで始めても、結社に所属するとランク付けされ、
変な競争をさせられる。

それが正当な競争であればまだしも、わけのわからないランク付けもある。

また、プロと言われるような歌人の歌を商業誌で見たとき、
どうしてこんな歌が巻頭を飾っているの?と不思議に思う作品も多い。

主に若い人たちの作品だ。

短歌界が若い人を欲しがるのは分かる。

が、甘やかすのはどうだろう?

その反動として、実力があっても無名のままでいる人は無数にいる。

私は、短歌を商業ベースに乗せるから、こういう問題が起こると思っている。

短歌なんて、そこまでして売り出す類のものではないと思う。

本来、短歌は人に見せる目的より、
詠うことで詠う人の心が癒されれば、それで十分な文芸だと思う。

死にたいというのは決して弱さじゃない

2019-06-24 08:07:07 | ブログ記事

奥田英朗さんという方の言葉だそうです。

今朝、コメント欄で教えていただきました。

私もそう思います。

ふだんは日常に取り紛れて忘れていますが、

人は根本的に死にたいと思いながら生きているかもしれません。

それを防ぐために結婚があり、子育てがあり、宗教があるのかもしれません。

親が生きている間は親を悲しませたくないという気持ちも強いです。

実際、親は子に先立たれるとひどく悲しみます。

私も、自分はいつ死んでもいいと思っていますが、

子供に先立たれるのは絶対いやです。

夫に先立たれるのも、昨日書いた通り、受け入れることができません。

そうならないためにも、早く亡くなりたいのです。

昨年までは母が生きていましたから、生きている必然がありましたが、

今は、私が死んでも、それほど悲しむ人はいないと思います。

子供たちもそれぞれ家庭を持って、子供を育てていますから、

親の私がいなくなっても困ることもないと思います。

夫は、私がいなくなれば、せいせいする?(笑)

まあ元気な人ですから、困ることはないでしょう。

吉田兼好は

「人は四十路には死なむ」と言いました。

昔の四十歳ですから、現在なら60歳くらいでしょうか。

そのくらいに死ねたら女性もまだ色香が残っていて惜しまれると思います。

男性もまだまだ仕事盛りだから惜しまれるでしょう。

だから本人のためには、そのくらいで死んだほうが幸せということになるのかもしれません。

私は今年71歳になりましたから、少し生き過ぎたと思っています。

ですから、お迎えがくれば、速やかにこの命をお返ししたいと思います。

そう望んでいれば、神様もそうしてくれるかもしれませんね。

ただ一つ、曲がりなりにも歌を作っていますから、

後世に残る歌の一つでも詠ってから死にたいと思うのですが、

これは執着になるでしょうか?

*

★死ぬまでにまともな歌のひとつでも詠ひて死なむ歌詠みわれは

★欲出せばろくなことにはならぬとぞ思(も)ひつつ思ふ歌詠むわれは