かみなり

心臓に人工弁を、耳に補聴器をしている昭和23年生まれの団塊世代です。趣味は短歌です。日々のよしなしごとを綴っていきます。

昨年の今日は母の初盆に家族旅行をして帰宅した

2019-07-16 18:49:08 | ブログ記事
13,14、15日と三日間三人の子とその連れ合い、三人の孫も一緒に旅をして別れて帰宅した。
 
 
 今年はもうお盆にも帰省することもない。
 
その代わり、今週は、blogの読者の方と旅をする。
 
夏山に行くのだが、果たして私の足は歩いてくれるかどうか。
 
いや、脚より、最近は腰が痛くなって歩けなくなることが多い。
 
若い人なら、
事前に足慣らしをしたりするのが効果的だと思うが、
私くらいの年齢になると、疲れが残るから、しないほうがいい。
 
むしろ、行くまで身体を休めておいたほうがましだ。
 
ということで、
今日は少し頑張ったが、
また明日からはごろごろすることにする。
 
私も労わらないと持たない身体になったということだ。
 
blogを書くのは、いくらでも書けるけれども?
 
やっと帰宅

子供、孫たちと一緒だったため、ブログの写真を撮るのも覚束なく、記事を書くゆとりもありませんでした。わが子とはいえ、会えるのは年に何度かですから、会ったときは目いっぱい触れ......
 

 ★鍛えるは無理な齢になりぬれば旅に出るまへ常より怠け

★頑張るもできぬ身体になりはてて身体やすめることばかり思(も)ふ

★梅雨明けはいつか気になりながら行く剣の山へツアーの連れと

★母よ母初盆終はればお盆にも帰らずなりぬことを悲しむ

★わたしだけ残りて四人の三人は黄泉に逝きけりわれも逝かまし

★実家とて実の家族のをらざればお盆になりてもなど帰らなむ

★わが顔を見て歓びてくるる人ひとりもいなくなりて故郷(ふるさと)

★昨年の初めの母の死で全て終はりしやうなわたしの笑ひ


短歌結社誌への投稿控え

2019-07-16 08:03:02 | ブログ記事
この記事は掲載していただけそうな可能性大だけれども、
自分の備忘のために転記しておくことに。

    記

 難聴者には歌しかない
            
わざわざ言うことでもないが、
健聴者は様々な楽しみが持てる。
会話の楽しみも音楽の楽しみも。
私達聴覚に障碍のある者はそう
いう楽しみは持てない。
勢い会話する楽しみの代わりに
読書をする。音楽の代わりも、
やはり読書になる。
が、インプットばかりでなく、
たまにアウトプットも試みたく
なる。それに打ってつけなのが
短歌だと私は思っている。
しかし短歌はその秀劣を競う
文芸でもある。ただ単に短歌を
楽しみたいと思っても、競争に
巻き込まれる。で、自称、他称、
歌人という属性の人たちは日夜
その技術を磨くことになる。
しかし私などは技術を磨いて
技巧の目立つ歌よりも、心から
溢れるものを溢れるまま訴えた
歌のほうが好きだ。
心の発露の溢れた歌を選者と
呼ばれる先生方は情け容赦なく
落とされるようにお見受けする。
それで出詠するのを止めた。
しかし、私は自分が詠うのも
好きだが、それ以上に人の歌を
読ませてもらうのが好きなので、
インターネット歌会には続けて
参加していた。そして人の歌を
楽しませていただいていたが、
出詠していない私が発言すると
出詠していない者は発言するな
と言う人がいた。それで歌会は
やめた。同時に歌もやめられた
らよかったが、難聴の私には、
歌は生きがいだから無理だった。
そのとき思った。歌以外にも
楽しみを求めることのできる人
こそ歌をやめたらどうかと。
歌を読むということは、人の
心を推し量るということと同義
である。歌しか楽しみの持てぬ
障碍者にこういう残酷なことが
平気で言える人間は歌に関わる
べきではない。
短歌は上手く詠えるに越した
ことはないが、しかし、上手く
詠うことのみに熱心になって、
人心を推し量ることのできない
のは本末転倒だと思う。