私は難聴ということもあって、人と群れることはしない。
群れたくても群れることができないともいえる。
難聴の程度が軽いときは、それが寂しいときもあった。
が、難聴も進んで高度難聴になると
群れたくても全く群れることができなくなってしまった。
それが遠因になって、過去、鬱病にもなった。
また、これは現在も続いているが、ネット依存症にもなった。
ネットだと、聴覚障害を気にしないで人と交流できるから、
人との付き合いに飢えていた私はたちまち依存症になった。
これは仕方ないと思っている。
が、リアルな社会では、今でも孤独である。
川西に引っ越してきて、今年で足掛け12年になるが、近所に友達はいない。
地区の自治会の役員も難聴を理由に夫に出てもらうから、知人すらいない。
そんな私には、夫だけが頼りだったが、その頼みの夫も最近は別居している。
ひょっとすると、夫も難聴の私が重荷になったのかもしれない。
そういうわけで、現在は全くの孤独である。
が、孤独は悪いものではない。
と、逃れようのない孤独になって気づいた。
最近は、
むしろ人と群れて失うもののほうが多いとさえ思う。
人によっては、こんな私のことを変人のように思うかもしれない。
そんな人には思わせておくさ。
独りでいても、ブログがあるし、本がある。
声を出さずに、朝晩、草花に語り掛けている。
水をやりながら、世話をしながら植物に語り掛ける。
私が語り掛ければ、草花は応える。
それで充分だ。
どうせ一人で生まれて一人で死ぬ人間だ。
★孤独こそ此の世に生きる意味を知る玉手箱なり開けてみるべし
★草花に語りかくれば草花は返してくるる声なき声を
さるブログ記事で、聴覚障碍者は中身がないと書かれてあったが、むしろ逆だ。
孤独でいる分、日々、己の中身を磨いている。
★聴覚に障害あれど頭まで障害あると思ふなよゆめ
★聴覚の障碍者見て偏見を持つ者こそが障碍者なり
★選ばれし難聴者なり選ばれて孤独の生を孤独に生きる
群れたくても群れることができないともいえる。
難聴の程度が軽いときは、それが寂しいときもあった。
が、難聴も進んで高度難聴になると
群れたくても全く群れることができなくなってしまった。
それが遠因になって、過去、鬱病にもなった。
また、これは現在も続いているが、ネット依存症にもなった。
ネットだと、聴覚障害を気にしないで人と交流できるから、
人との付き合いに飢えていた私はたちまち依存症になった。
これは仕方ないと思っている。
が、リアルな社会では、今でも孤独である。
川西に引っ越してきて、今年で足掛け12年になるが、近所に友達はいない。
地区の自治会の役員も難聴を理由に夫に出てもらうから、知人すらいない。
そんな私には、夫だけが頼りだったが、その頼みの夫も最近は別居している。
ひょっとすると、夫も難聴の私が重荷になったのかもしれない。
そういうわけで、現在は全くの孤独である。
が、孤独は悪いものではない。
と、逃れようのない孤独になって気づいた。
最近は、
むしろ人と群れて失うもののほうが多いとさえ思う。
人によっては、こんな私のことを変人のように思うかもしれない。
そんな人には思わせておくさ。
独りでいても、ブログがあるし、本がある。
声を出さずに、朝晩、草花に語り掛けている。
水をやりながら、世話をしながら植物に語り掛ける。
私が語り掛ければ、草花は応える。
それで充分だ。
どうせ一人で生まれて一人で死ぬ人間だ。
★孤独こそ此の世に生きる意味を知る玉手箱なり開けてみるべし
★草花に語りかくれば草花は返してくるる声なき声を
さるブログ記事で、聴覚障碍者は中身がないと書かれてあったが、むしろ逆だ。
孤独でいる分、日々、己の中身を磨いている。
★聴覚に障害あれど頭まで障害あると思ふなよゆめ
★聴覚の障碍者見て偏見を持つ者こそが障碍者なり
★選ばれし難聴者なり選ばれて孤独の生を孤独に生きる