皆様、こんばんは。
事務局です。
14日の一宮市内は、曇りの天気となり、きびしい暑さから、少し、解放された感じになっています。
暑さが続くことから、ツイッターのツイートなどを見ていますと、スマートホンがたちまち熱を持ち、動かなくなってしまいます。
本日の寺西は、組み立てレイアウトのボード製作をおこないました。
ここからは、通称「青バス」の乗車会に参加したお話の続きです。
「青バス291号」は、国道415号線の、雨晴海岸が見える旧道で停車中です。
富山湾の奥に立山連峰が見えています。
雨晴海岸は、砂浜と海水がきれい海岸です。
ところで、このきれいな海岸は、どこまで続くと思いますか?
富山県出身の皆様には、簡単すぎる質問ですね。
氷見(ひみ)市にあります、「氷見市海浜植物園」様北側付近、松田江(まつだえ)まで、890mほど続きます。
「日本の渚百選」の1つにも選ばれています。
下の写真は、氷見市海浜植物園様の玄関です。
海水浴場は南から、
(1)雨晴海岸海水浴場
(2)松太枝浜海水浴場
(3)島尾海水浴場
(4)松田江浜海水浴場
と続き、海開きは7月3日前後、と聞いています。
ここからは、数年前、富山市で開催されました鉄道イベントで、主催をされていました、テレビ局の職員様から聞いたお話を書いていきます。
ご存知の方には、余分なお話になってしまいますね。
富山市にあります、岩瀬浜海水浴場(越中の舞子)の話題から、このお話に流れていきました。
(2)松太枝浜海水浴場
(4)松田江浜海水浴場
どちらも「まつだえ」と読みます。
読み方は同じなのに、どうして漢字は違うのでしょうか?
万葉の歌人・大伴家持が詠んだ、「松田江の長浜」は、雨晴駅付近から氷見市街地までを指すんだそうです。
昔は海岸一帯を管理するのは氷見郡で、浜の名前は、松田江の後(※)に
(2)渋谷の浜
(3)島尾の浜
(4)窪の浜
と呼ばれていたそうです。
※諸説あります。
1953(昭和28)年、町村合併があり、氷見郡太田村が、高岡市に編入。
編入後、雨晴駅周辺から氷見市街地までの海岸を、管理する自治体が2つになりました。
以降、理由は分かりませんが、「松田江の長浜」と呼ばなくなった、とのことです。
下の写真は、去年、氷見市海浜植物園様で開催されていました、漂流物アート展にて。
未だ「松太枝(まつだえ)」という名前が登場していませんね。
こちらは明治時代末期のお話です。
当時、太田村には、3つの神社があり、諸事情により1つまとめて、統合となりました。
統合の際、神社名を新たに決め、名は、松田江の長浜にちなんで、「松太枝神社」となったそうです。
1955(昭和30)年前後、渋谷の浜という名前が地味というお話が地元から出た、とのことです。
改名にあたり、太い松の木が浜一帯に多くあったことと、松太枝神社から名前をいただいて、現在の(2)松太枝浜海水浴場となったそうです。
遅れて1960(昭和35)年前後、窪の浜も、改名することになり、こちらは、大伴家持ゆかりの砂浜、ということで、(4)松田江浜海水浴場と命名された、というお話です。
下の写真は、氷見市海浜植物園の中庭で、海岸に自生している植物などを紹介しています。
このお話は、富山テレビ放送(BBT)様の番組で取材をおこない、放送されたそうです。
青バスは、雨晴海岸をバックに走ります。
次回に続きます。
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