皆様、こんばんは。
事務局です。
20日の一宮市内は、引き続き、きびしい暑さが続いています。
昨夜、雷鳴が轟き夕立があり、空気が涼しくなり、朝は少し、涼しく感じました。
本日の寺西は、縫製作業と来客対応でした。
ここからは、通称「青バス」の乗車会に参加したお話の続きです。
「青バス291号」は、国道415号線の、雨晴海岸が見える旧道で停車中です。
下の写真は、車体が腐蝕した上に、ラッピングシールが貼られているので、シールが浮いているところがあります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/74/2c/3f0c99695594dd99c9895f3dd4b7c39e.jpg)
引き続き、(3)ひみ漁業交流館「魚々座(ととざ)」(※)にお邪魔しています。
※去年11月から休館していました旧魚々座様が、名称を「氷見市漁業文化交流センター」様と改称して、7月14日から運営を再開しました。
※展示内容が変更されている場合がございますので、ご注意ください。
2015(平成27)年4月に開館しました、氷見の漁村文化を、実物を展示することによって、来館者の皆様に知っていただく施設です。
会館中央天井から、長さ70m前後の「越中式定置網」が展開されています。
※ごめんなさい。写真がありません。次回、お邪魔した際、写真を撮って添付します。
定置網の周りを泳ぐ魚になったように気持ちになれます。
越中式定置網が登場する前は、春はイワシ用、夏はマグロ用、秋はブリ用と、季節が変わるごとに、使用する網を変えていたそうです。
定置網の発祥地は、存じておりませんでした、氷見なんだそうです。
定置網の始まりは、ワラを材料にした「ワラ台網(※)」。
※台網(だいあみ)。定置網の種類で、垣網の部分を、浮子(あば。ふし※1)と沈子(いわ。ちんし※2)で固定している網の総称です。
(1)垣網・袋網又は、(2)垣網・囲み網・袋網がセットになっています。
袋網に魚を集めて、水揚げします。
※1浮子とは、魚網を浮かせるために、網の上縁(じょうえん)に取り付ける浮き玉です。
※2沈子とは、魚網を沈めるために、網の下縁(かえん)に付けるおもりです。
富山湾で「ワラ台網」が使われるようになったのは、天正年間前後、織田信長や豊臣秀吉が活躍していた頃、と伝えられています。
時代は流れて大正時代、宮崎県で、「日高式大謀網(※)」という定置網が開発されました。
※大謀網(だいぼうあみ)。台網の構造を指し大型のもです。
開発された網を氷見で設置してみたところ、いくつか問題点が見つかったようです。
問題点は、網口などの開口部から魚が逃げやすい構造だったこと。
そこで、上野八郎右衛門様は、魚が逃げやすい開口部を改良した、「上野式大謀網」を考案したそうです。
この網が、越中式定置網の元になり、昭和中期(40年代頃)に入って、「二重落し網(※)」という構造を追加。
※大敷網(おおしきあみ)ともいいます。垣網・角戸網・登り網・身網がセットになっている網です。
加えて網の材質を改良して、今の越中式定置網が完成したそうです。
ちなみに、越中式定置網は、網の目の大きさを場所によって変えることにより、「魚を3割取って7割逃がす」という配慮がなされている、とのことです。
網の入口に当たる部分、垣網は、網の目が大きくしてあり、成魚になる前の小魚を、外海に逃がしています。
網への魚の入り方です(一部の網名は省略しています)。
(1)イワシ・アジ・サバなど、海面近くを泳ぐ魚は、
垣網→登り網→箱網(中網)→落し網
の順に通り、落し網で引き揚げるそうです。
(2)タイ・アイナメ・メバルなど、磯などでゆったり泳ぐ魚は、
垣網→登り網→箱網(中網)
の順に通り、箱網で引き上げるそです。
(3)泳ぎの速い、ブリなどの青魚は、
垣網→登り網→箱網(中網)→タモトモッタ
の順に通り、タモトモッタで引き揚げるそうです。
聞いたお話の受け売りですので、詳しいことは、魚々座様に訪れていただいて、勉強してみてください。
ところで、魚々座様が開館する前にあった、海鮮市場はどこに行ってしまったのでしょうか?
上庄川にかかります、斜張橋・比美乃江大橋を渡って、県道302号線を北上しますと、進行方向左側に見えてきます。
観光客の皆様に人気の、規模が大きくなった、海鮮市場の「ひみ番屋街」様です。
下の写真は、市場の回転寿司店で楽しんだ揚げ物です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/14/62/de8c2b7a65719072bd831a19b85a8db8.jpg)
氷見のお話はここまでとして、青バスに戻ります。
次回に続きます。
ブログに関するご感想・ご意見・クレーム等は、ブログのコメントや携帯電話にお願いします。
事務局です。
20日の一宮市内は、引き続き、きびしい暑さが続いています。
昨夜、雷鳴が轟き夕立があり、空気が涼しくなり、朝は少し、涼しく感じました。
本日の寺西は、縫製作業と来客対応でした。
ここからは、通称「青バス」の乗車会に参加したお話の続きです。
「青バス291号」は、国道415号線の、雨晴海岸が見える旧道で停車中です。
下の写真は、車体が腐蝕した上に、ラッピングシールが貼られているので、シールが浮いているところがあります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/74/2c/3f0c99695594dd99c9895f3dd4b7c39e.jpg)
引き続き、(3)ひみ漁業交流館「魚々座(ととざ)」(※)にお邪魔しています。
※去年11月から休館していました旧魚々座様が、名称を「氷見市漁業文化交流センター」様と改称して、7月14日から運営を再開しました。
※展示内容が変更されている場合がございますので、ご注意ください。
2015(平成27)年4月に開館しました、氷見の漁村文化を、実物を展示することによって、来館者の皆様に知っていただく施設です。
会館中央天井から、長さ70m前後の「越中式定置網」が展開されています。
※ごめんなさい。写真がありません。次回、お邪魔した際、写真を撮って添付します。
定置網の周りを泳ぐ魚になったように気持ちになれます。
越中式定置網が登場する前は、春はイワシ用、夏はマグロ用、秋はブリ用と、季節が変わるごとに、使用する網を変えていたそうです。
定置網の発祥地は、存じておりませんでした、氷見なんだそうです。
定置網の始まりは、ワラを材料にした「ワラ台網(※)」。
※台網(だいあみ)。定置網の種類で、垣網の部分を、浮子(あば。ふし※1)と沈子(いわ。ちんし※2)で固定している網の総称です。
(1)垣網・袋網又は、(2)垣網・囲み網・袋網がセットになっています。
袋網に魚を集めて、水揚げします。
※1浮子とは、魚網を浮かせるために、網の上縁(じょうえん)に取り付ける浮き玉です。
※2沈子とは、魚網を沈めるために、網の下縁(かえん)に付けるおもりです。
富山湾で「ワラ台網」が使われるようになったのは、天正年間前後、織田信長や豊臣秀吉が活躍していた頃、と伝えられています。
時代は流れて大正時代、宮崎県で、「日高式大謀網(※)」という定置網が開発されました。
※大謀網(だいぼうあみ)。台網の構造を指し大型のもです。
開発された網を氷見で設置してみたところ、いくつか問題点が見つかったようです。
問題点は、網口などの開口部から魚が逃げやすい構造だったこと。
そこで、上野八郎右衛門様は、魚が逃げやすい開口部を改良した、「上野式大謀網」を考案したそうです。
この網が、越中式定置網の元になり、昭和中期(40年代頃)に入って、「二重落し網(※)」という構造を追加。
※大敷網(おおしきあみ)ともいいます。垣網・角戸網・登り網・身網がセットになっている網です。
加えて網の材質を改良して、今の越中式定置網が完成したそうです。
ちなみに、越中式定置網は、網の目の大きさを場所によって変えることにより、「魚を3割取って7割逃がす」という配慮がなされている、とのことです。
網の入口に当たる部分、垣網は、網の目が大きくしてあり、成魚になる前の小魚を、外海に逃がしています。
網への魚の入り方です(一部の網名は省略しています)。
(1)イワシ・アジ・サバなど、海面近くを泳ぐ魚は、
垣網→登り網→箱網(中網)→落し網
の順に通り、落し網で引き揚げるそうです。
(2)タイ・アイナメ・メバルなど、磯などでゆったり泳ぐ魚は、
垣網→登り網→箱網(中網)
の順に通り、箱網で引き上げるそです。
(3)泳ぎの速い、ブリなどの青魚は、
垣網→登り網→箱網(中網)→タモトモッタ
の順に通り、タモトモッタで引き揚げるそうです。
聞いたお話の受け売りですので、詳しいことは、魚々座様に訪れていただいて、勉強してみてください。
ところで、魚々座様が開館する前にあった、海鮮市場はどこに行ってしまったのでしょうか?
上庄川にかかります、斜張橋・比美乃江大橋を渡って、県道302号線を北上しますと、進行方向左側に見えてきます。
観光客の皆様に人気の、規模が大きくなった、海鮮市場の「ひみ番屋街」様です。
下の写真は、市場の回転寿司店で楽しんだ揚げ物です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/14/62/de8c2b7a65719072bd831a19b85a8db8.jpg)
氷見のお話はここまでとして、青バスに戻ります。
次回に続きます。
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