GW前に鎌倉に行ってきた。今回取り上げるのは鎌倉にある、元寇ゆかりの場所。
常立寺の元使五人塚の墓参、龍口寺の龍ノ口刑場跡、円覚寺。
・常立寺境内「元使五人塚」
江ノ電 「江ノ島駅」あるいは湘南モノレール 「湘南江の島駅」より徒歩2分
元使五人塚は、元国(蒙古)の使者として日本に派遣され、龍ノ口で処刑された杜世忠ら5人の供養塚。
杜世忠らは、文永の役(元寇)があった翌年の1275年(建治元年)4月15日、日本に服属を求めるため長門国室津に上陸。
しかし、捕えられて太宰府に送られた後8月になって関東に送られ、9月7日、八代執権北条時宗の命により龍ノ口で処刑された。
処刑の理由は、
「ここ数年、我が国に使者を派遣して戦術の手段をめぐらしているようだが、今後はたとえ朝廷に貢物を差し上げる使者であっても生かして帰すべきではない」というものだったらしい。
常立寺には5基の五輪塔が建てられ、供養されたと伝えられる。
青い布は、モンゴルでは英雄を意味するもので、モンゴル人力士によって巻かれた。
2015年4月3日、モンゴル人力士たちが訪れ、元使五人塚を墓参した。毎春恒例の巡業「大相撲藤沢場所」を前に実施した事がある。
・龍口寺境内「龍ノ口刑場跡」
江ノ電 「江ノ島駅」あるいは湘南モノレール 「湘南江の島駅」より徒歩2分
龍ノ口刑場は、鎌倉時代から室町時代の刑場で、龍口寺内に石碑が建てられている。
日本に服属を求めた元国の使者ら5人が処刑されたとする場所。
しかし、実際に、この刑場がどこにあったのかは不明。
ここは慰霊碑。江ノ電から丸見えの立地。この寺院は日蓮聖人の直弟子の日法聖人が延元2年(1337年)に「龍ノ口法難の霊跡」として建立した。
“立正安国論”を記して鎌倉幕府に呈上した日蓮を捉え、龍ノ口刑場で斬首されそうになった逸話がある。日蓮を土牢から引き出し斬首しようとしたが、(伝承によると)江ノ島方より光の玉がやってきて、光の衝撃で振り下ろした刀が折れ、首を刎ねることができなかったという。日蓮は佐渡に流された。
また、日蓮が斬首される直前に突然の雷雨が起こり、斬首が中止されたという説もある。
・円覚寺
JR横須賀線 「北鎌倉駅」より徒歩1分
鎌倉時代後半の弘安5年(1282)、ときの執権北条時宗が中国・宋より招いた無学祖元禅師により、円覚寺は開山された。開基である時宗公は18歳で執権職につき、国家の鎮護、禅を弘めたいという願い、そして蒙古襲来による殉死者を、敵味方の区別なく平等に弔うため、円覚寺の建立を発願された。
その日は主に、元寇の殉死者と、一般住民の犠牲者を追悼する為に円覚寺に寄った。
円覚寺は現在でも修行僧を多く抱える。
立ち入り禁止の領域が多く、とても厳かな雰囲気。山の斜面の一部が円覚寺の範囲である。撮影禁止の箇所がとても多く、元寇の殉死者・犠牲者を弔う千体の地蔵の一部が置かれている所も撮影禁止であった為、控えさせて頂いた。
元寇というと、日蓮が祈ると嵐が起き、元軍は日本沿岸に辿り着く前に全滅し、日本には一切の打撃が無かったという説がまかり通っている。その嵐を神風とされ、日蓮が元寇の英雄とされている。
しかし、実情は違う。円覚寺はそれを物語っている。
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この記事では文永の役について触れたが、弘安の役については書いていなかった。
後日書こうと思う。
・北条時宗公について
時の執権北条時宗は生涯を通して元寇に苦悩してきたと言われる。
弘安の役の折には、金剛経などを血で写経している。
元寇の後には千体の地蔵を造って円覚寺に奉納し、無学祖元禅師に説法をお願いしている。
その裏には言葉で言い尽くせない苦悩があるという。
後には「相模太郎、胆甕(たんかめ)の如し」と詠われて、いかにも腹の座った人物として描かれているようだが、実際には苦悩され続けていたという。
そんな苦悩の中で参禅し、無学祖元禅師が心の支えになっていたという。
終わりに
常立寺境内の元使五人塚では、元使のご冥福と、倭国がしてしまった事を反省した。
そして円覚寺では、元寇の犠牲者・殉死者のご冥福を祈った。
元国が倭国に服属を求める事について言えば、断固拒否しなければならない。
拒否すれば幾度となく元軍が攻めて来る可能性がある。
徹底抗戦する力がどれくらいあったのか分からない。時宗公は本土を血の海にする事を絶対に避けたかったのだろう。武士の数が足らず、一般市民を徴兵しなければならない。心優しい時宗公は、市民を無闇に徴兵する事も極力避けたかったのだろう。
元国の使者をこの時に処刑してしまえば、元国も日本にこれ以上関わってこないのではないかと考えたのかもしれない。
ひとつ思うのは、朝廷に貢ぎものを捧げる使者になったとすれば自分なら処刑しないだろうな。とは思う。
しかしこれは平和ボケの思考なのかも知れない。
処刑してしまった事に関しては、いくら考えても何が正しかったのかは解らない。
時宗公は、苦悩に苦悩を重ねた末の苦渋の決断だったのかも知れない。
ご冥福を祈る他に、何もできませんでした。