斑爾里(カルガリー)ちゃんねる

平和ボケのただの日本人が、中央アジアのネタと、日本に残る遊牧遺構の記事など書いた。

元帝国と関わりの深い元使五人塚、龍ノ口刑場跡、円覚寺

2023年05月06日 | 遊牧アディクト

GW前に鎌倉に行ってきた。今回取り上げるのは鎌倉にある、元寇ゆかりの場所。

常立寺の元使五人塚の墓参、龍口寺の龍ノ口刑場跡、円覚寺。

 

・常立寺境内「元使五人塚」

江ノ電 「江ノ島駅」あるいは湘南モノレール 「湘南江の島駅」より徒歩2

 

元使五人塚は、元国(蒙古)の使者として日本に派遣され、龍ノ口で処刑された杜世忠ら5人の供養塚。

 

杜世忠らは、文永の役(元寇)があった翌年の1275年(建治元年)415日、日本に服属を求めるため長門国室津に上陸。

 

しかし、捕えられて太宰府に送られた後8月になって関東に送られ、97日、八代執権北条時宗の命により龍ノ口で処刑された。

 

処刑の理由は、

 

 「ここ数年、我が国に使者を派遣して戦術の手段をめぐらしているようだが、今後はたとえ朝廷に貢物を差し上げる使者であっても生かして帰すべきではない」というものだったらしい。

 

常立寺には5基の五輪塔が建てられ、供養されたと伝えられる。

 

 

 

青い布は、モンゴルでは英雄を意味するもので、モンゴル人力士によって巻かれた。

 

201543日、モンゴル人力士たちが訪れ、元使五人塚を墓参した。毎春恒例の巡業「大相撲藤沢場所」を前に実施した事がある。



・龍口寺境内「龍ノ口刑場跡」

江ノ電 「江ノ島駅」あるいは湘南モノレール 「湘南江の島駅」より徒歩2

 

龍ノ口刑場は、鎌倉時代から室町時代の刑場で、龍口寺内に石碑が建てられている。

 

日本に服属を求めた元国の使者ら5人が処刑されたとする場所。

 

しかし、実際に、この刑場がどこにあったのかは不明。

 

 

ここは慰霊碑。江ノ電から丸見えの立地。この寺院は日蓮聖人の直弟子の日法聖人が延元2(1337)に「龍ノ口法難の霊跡」として建立した。

 

立正安国論を記して鎌倉幕府に呈上した日蓮を捉え、龍ノ口刑場で斬首されそうになった逸話がある。日蓮を土牢から引き出し斬首しようとしたが、(伝承によると)江ノ島方より光の玉がやってきて、光の衝撃で振り下ろした刀が折れ、首を刎ねることができなかったという。日蓮は佐渡に流された。

また、日蓮が斬首される直前に突然の雷雨が起こり、斬首が中止されたという説もある。

 

 

・円覚寺

JR横須賀線 「北鎌倉駅」より徒歩1

 

鎌倉時代後半の弘安5年(1282)、ときの執権北条時宗が中国・宋より招いた無学祖元禅師により、円覚寺は開山された。開基である時宗公は18歳で執権職につき、国家の鎮護、禅を弘めたいという願い、そして蒙古襲来による殉死者を、敵味方の区別なく平等に弔うため、円覚寺の建立を発願された。

 

 

 

その日は主に、元寇の殉死者と、一般住民の犠牲者を追悼する為に円覚寺に寄った。

 

円覚寺は現在でも修行僧を多く抱える。

立ち入り禁止の領域が多く、とても厳かな雰囲気。山の斜面の一部が円覚寺の範囲である。撮影禁止の箇所がとても多く、元寇の殉死者・犠牲者を弔う千体の地蔵の一部が置かれている所も撮影禁止であった為、控えさせて頂いた。

 

元寇というと、日蓮が祈ると嵐が起き、元軍は日本沿岸に辿り着く前に全滅し、日本には一切の打撃が無かったという説がまかり通っている。その嵐を神風とされ、日蓮が元寇の英雄とされている。

しかし、実情は違う。円覚寺はそれを物語っている。

遊牧遺構3 元寇防塁 - カルガリーちゃんねる

 

この記事では文永の役について触れたが、弘安の役については書いていなかった。

後日書こうと思う。

 

・北条時宗公について

 

時の執権北条時宗は生涯を通して元寇に苦悩してきたと言われる。

 

弘安の役の折には、金剛経などを血で写経している。

元寇の後には千体の地蔵を造って円覚寺に奉納し、無学祖元禅師に説法をお願いしている。

 

その裏には言葉で言い尽くせない苦悩があるという。

 

後には「相模太郎、胆甕(たんかめ)の如し」と詠われて、いかにも腹の座った人物として描かれているようだが、実際には苦悩され続けていたという。

 

そんな苦悩の中で参禅し、無学祖元禅師が心の支えになっていたという。

 

 

終わりに

常立寺境内の元使五人塚では、元使のご冥福と、倭国がしてしまった事を反省した。

そして円覚寺では、元寇の犠牲者・殉死者のご冥福を祈った。

 

元国が倭国に服属を求める事について言えば、断固拒否しなければならない。

 

拒否すれば幾度となく元軍が攻めて来る可能性がある。

 

徹底抗戦する力がどれくらいあったのか分からない。時宗公は本土を血の海にする事を絶対に避けたかったのだろう。武士の数が足らず、一般市民を徴兵しなければならない。心優しい時宗公は、市民を無闇に徴兵する事も極力避けたかったのだろう。

 

元国の使者をこの時に処刑してしまえば、元国も日本にこれ以上関わってこないのではないかと考えたのかもしれない。

 

ひとつ思うのは、朝廷に貢ぎものを捧げる使者になったとすれば自分なら処刑しないだろうな。とは思う。

 

しかしこれは平和ボケの思考なのかも知れない。

 

処刑してしまった事に関しては、いくら考えても何が正しかったのかは解らない。

 

時宗公は、苦悩に苦悩を重ねた末の苦渋の決断だったのかも知れない。

 

ご冥福を祈る他に、何もできませんでした。

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我が国日本における遊牧無形文化遺産

2023年04月11日 | 遊牧アディクト

自分が、日本において遊牧無形文化遺産だと思えるものは以下の通り。

・相撲

・鷹狩り

・競馬

・流鏑馬

 

なぜそう思い込んでいるかというと、遊牧民族の伝統競技にもこれらに似たものがある。

 

モンゴルのナーダムでは、ブフ(蒙古相撲)、競馬、弓射の3つの競技が行われる。ナーダムとは、モンゴルにおいて年に数回行われる国民行事、民族の祭典である。

まるで日本の伝統競技みたいだ。あるいは武芸のようでとても親近感が湧く。

 

中央アジアにはノマドゲーム(国際遊牧民競技大会)という2年に1度開催される、遊牧民の伝統競技を推進し、祝福するためのイベントである。

それにも、競馬、相撲、鷹狩り、騎射(流鏑馬と基本同じ)が盛り込まれている。

 

日本に無いものは、ヤギをボールに見立てたポロ。その他もあるかもしれないが、よく分からない。

 

今回は日本の相撲と蒙古相撲について書く。

 

蒙古相撲と日本の相撲は、服装とルールこそ違えど、組み合って闘う点では根本的に同じ。

 

日本では国技である。モンゴルでも国技である。

日本でもモンゴルでも神事の性格を備えた格闘技。蒙古相撲(ブフ)は土俵やリングはなく、伝統的に草原で行われてきた。頭、背中、肘、膝、尻などが地面に着くと負けとなるが、掌は地面についてもよい。

技は複合技などを含めると400以上あるといわれ、決まり手は500種類を越える。

 

試合は、いわゆる立ち会いはなく組み手の駆け引きから開始される。技を仕掛けてはそれをかわすことを繰り返す。「投げる」「倒す」が基本。試合は長時間に及ぶことが多い。

 

蒙古相撲は約2500年の歴史があり、日本の相撲と技の共通点も多く、その源流という説もある。

中世には兵士の鍛錬として行われた。チンギス・ハンも愛好したといわれる。

 

 

日本相撲の起源は、力自慢の取っ組み合いが相撲の始まりと言われる。古事記(712)や日本書紀(720)にある力くらべの神話や、当時出雲国にいた野見宿禰(のみのすくね)と大和国にいた当麻蹶速(たいまのけはや)*天覧勝負の伝説が挙げられる。相撲はその年の農作物の収穫を占う祭りの儀式として、毎年行われてきた。これが後に宮廷の行事となる。

 

* 天覧勝負 : 天皇の前で試合を行う事。

 

また、相撲の天覧勝負がはじめて行われたのは4世紀よりも昔、今から2000年も前だとも言われている。キックやパンチも繰り出される取っ組み合いだったらしい。知らんけど。今のような相撲のスタイルになるのは、江戸時代に入ってから。

 

定期的に相撲が開催されていた資料が残っているのは奈良時代以降から。相撲に魅了された聖武天皇が定めたとされている。

 

鎌倉から戦国時代にかけて、相撲は武士の鍛錬として盛んに行われるようになる。四股名がつくようになり、プロの力士が誕生したのもこの時代から。織田信長も大の相撲ファンだったようである。

 

江戸時代になると、武士の娯楽であった相撲が大衆へと広がっていく。技も現代のスタイルになる。

 

格闘技は、基本どの民族でも同じような事を考えるが、モンゴル相撲が日本の相撲の起源であると考えられなくはない。

 

日本の相撲と技の共通点が多いという事や、2000-2500年の歴史があるという事から思うに、両者は起源が同じと考えてもおかしくはない。神事の性格という共通点もある。

 

古事記日本書紀では倭国で起きた事柄しか取り上げていない。当時は入国管理など全くしていなかった為、いつどこでどこから倭国に一般人が流入したかなど逐一取り上げていない。

 

古代、いつの間にか流入した北方遊牧民族がいつ間にかそこら辺で力比べの取っ組み合いをやっていて、それを書かれた。それだけ。知らんけど。可能性としてはゼロじゃない。

 

もう一つ考えられるのは、北方遊牧民族は古代だけではなく戦国時代などの中世にも流入があった。中世代はモンゴルも日本も似た様な事をやっていた。武士の鍛錬の為、相撲をしていた。中世になれば、古代よりも現代に近いスタイルの相撲になる。これは単に自分の憶測だが、中世は倭国と蒙古は相互に人的交流があったのではないか?と思われる。

 

江戸時代にスタイルが固まる直前ぐらいまでは、人的交流があり、相撲という遊び、神事に、互いに影響を与え合った。その為、倭国相撲と蒙古相撲、双方に共通するが生まれた。

違う民族から生まれた競技で無数にある技の中で共通する技があるのは奇跡に近い。

 

それでも蒙古相撲は、倭国相撲よりも遥かに技の数が多く、競技人口が日本より遥かに多いそうなので、その中で勝ち抜いて日本に来た力士は強い。モンゴル人力士が非常に強い理由はそれかと思われる。

長文をご精読ありがとうございます😊

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遊牧遺構3 元寇防塁

2023年04月01日 | 遊牧アディクト

これは倭人が建てたので、厳密には「遊牧遺構」というのか判りませんが遊牧勢力(蒙古軍)と倭国武士の衝突を健在に残す証拠の他なりません。

 

元寇防塁は建治2(1276)に北部九州の博多湾沿岸一帯に石により築かれた防塁。中山平次郎の命名で石築地(いしついじ)が本来の呼び名である。

 

文永の役(1274)では元軍が百道浜に上陸し、祖原、鳥飼、赤坂一帯が戦場となった。その後この防塁が築かれた。

 

西の今津から東の香椎浜までの約20kmにわたって築かれた。そのほぼ中間にあたるのが西新・百道地区の防塁である。

 

海への傾斜面に幅11.5m、残高1.8mに石を積み上げ、その後ろを粘土で補強していることが判明した。

 

大正9年、西新の防塁が発掘され、昭和44年に本格的な発掘調査が行われた。防塁は、砂丘の上に粘土を敷いて基盤を安定させた上に、基部幅3.4mで石を積み上げていることがわかった。

 

西南学院大学第1号館の建設に当たって検出された防塁の発掘調査では、石塁の背面に約1mほどの間を置いて土塁がつくられ、二重構造であった。

 

西新地区の防塁は、昭和53年の発掘調査に整備され、見学できる。また、西南学院大学で検出された防塁は、12mほど北東側の1号館内に移築復元され、公開されている。


 ただし、現在埋め立てによって海浜は大きく北に移動しており、かっての百道松原の面影はまったく失われている。

 

文永の役(1274)の戦場の赤坂付近では激戦が繰り広げられ、苦戦を強いられた。

 

苦戦を強いられた原因の一つは、果敢に一騎打ちを挑む日本の武士たちに対して、元軍はドラや太鼓を合図に集団で攻めかかる戦法であったこと。元軍が用いた短弓が、日本の弓矢のおよそ2倍の射程距離があり、その上その矢尻には毒が塗ってあったこと。てつはうと呼ばれる炸裂弾を使い、日本の武士たちが乗る馬を驚かせ士気を混乱させたことなどが挙げられている。

 

日本の武士たちは、大宰府守護(防衛軍司令官)の少弐景資(しょうにかげすけ)を中心に善戦する。元軍No.2の副司令官に重症を負わせたのが幸いしたのか、1021日になると元軍は忽然と姿を消し、立ち去っていたのだった。

 

その後、博多湾から引き揚げた元軍を暴風雨が襲い、船の大半は沈没したといわれている。

 

弘安の役(1281)の際には防塁が築かれたところからは元高麗軍は一切上陸することが出来なかったといわれている。

 

長崎県内にも防塁が存在する。長崎県松浦市星鹿町から平戸市田平町の海岸線40-50キロメートルにかけて、防塁が古代のまま現存している。開発の進んでいないこの地域には元寇に関連する遺跡も多数あり、また、それに関連すると思われる「火立場」「血田」「追い出し」などの地名や、昔からの言い伝えもあるが、発掘等の詳しい調査はなされていない。

 

俗にいう神風が倭国を救ったという表現があるが、これは倭国は無傷であり神風“()によって元軍が倭国岸に近づく事さえ許さずに全滅させたという誤解を与えかねないニュアンスだ。

 

自分も5年前迄はそう思い込んでいたが、大いなる勘違いをしていた。

 

倭国国土を守護すべく戦った戦士達や、犠牲になった一般人民、壱岐、対馬の島民達がいた事を知るべきだった。

 

壱岐では武士全員が討ち死にしたと言われている。九州の北部、一部の犠牲によって当時の大半の倭国民が犠牲から免れた。

 

この犠牲についてもっと教育の場やメディアに取り上げられても良いのではないかと思う。現地だけではなく、全国的に取り上げられるべきだと思う。翌年2024年は弘安の役、元寇から750年である。

 

この件で犠牲になられた方々に、ご冥福をお祈りします。

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遊牧遺構2 元寇部落

2023年03月24日 | 遊牧アディクト

日本に於ける遊牧部落の跡地を探している。

 

遊牧部落とは、家畜を携えた遊牧民や、家畜を失った遊牧民が大陸から日本海を越えて日本に辿り着き、首長を筆頭に定住した集落を指す。

 

もしかして…..元寇部落ってあるの?!

という事でググった。

 

佐賀県 神埼市 尾崎部落が元寇部落らしい!!

 

尾崎人形という土で作った人形がある。

伝承によると元寇(弘安の役)の際、捕虜になった蒙古軍の兵士が故郷を偲んで人形を作り吹き鳴らしたのが始まりと言われているが、

 

この人形、モンゴルにもあるの?!

 

息を吹き入れるとホーホーと素朴な音が鳴る土笛になっていたり振るとコロコロとかわいらしい音が鳴る土鈴になっていたりする。

 

吹くときに口にくわえる部分に着色しないのは、「土のものを口につけると癇封じの効果がある」

との説があり、子供の健やかな成長を祈る願掛けの意味もある。

 

この言い伝えも本場モンゴルにあるのかな?

 

本当にモンゴルに土製の人形と、この言い伝えがあるのか検証してみたい。と言っても実際に行って確かめるのが一番いいがまずはネットだけで調べてみます。ネットだけググって判断すると、大いなる勘違いのウィニペグやサスカトゥーンその他のように表面上の判断になります。

 

いつか実踏出来るといいな。

 

モンゴルに行ってみたい九州にも行ってみたい。

 

佐賀県神埼市尾崎部落をググってみた。

左上↖︎にある天山の方が気になる。

 

九州は関東などに比べ渡来牧民、渡来元牧民に関連する痕跡や遺構が多そう。

 

尾崎部落には尾崎焼の起源を伝える伝蒙古屋敷と蒙古合戦恩賞地がある。地区の南西部には蒙古合戦の捕虜となった蒙古人を連れてきたとされる「蒙古屋敷」と呼ばれる地区が伝えられている。

 

尾崎の地は、皇室領荘園神埼荘内に位置し、蒙古合戦の恩賞地として永仁5(1297)河野通有に「神埼庄内小崎郷内荘餘残分 同庄内荒野分」を給付されている。

 

この河野通有は弘安の役の際の戦功と活躍で知られている人物で、伊予国御家人で、弘安8 1285)には筑前国弥冨郷の替所として「肥前国神崎庄内小崎郷」を当てがわれている。

 

これらの記録より、尾崎と河野氏の結びつきが確認 され、伝承として伝えられている「蒙古屋敷」の地は、尾崎の地に領地を得た河野氏に関する屋敷地ではないかとも考えらる。

現在、蒙古屋敷の伝承地は、南北方向の土塁状の高まりが残るだけで全体構造は不明。周辺部の畑には、非常に多くの土器が散乱しているらしい。

 

元寇部落は河野氏が捕虜を屋敷に監禁し、倭人の小作人に農業労働をさせていた集落だったのだろうか?

 

それとも屋敷に監禁せず平面的に住まわせ、武士として鍛錬していた「蒙古村」という形だったのだろうか?

 

伝承だから何とも言えないが、伝承があるというだけでも凄い。

 

遊牧アディクト的には非常にビリビリくる!!

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