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【邪馬台国問題】天才范曄に従うべし!( ^)o(^ )

2025-02-18 16:35:08 | 古代史

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「邪馬壹国」?「邪馬臺国」?ホントはどっちなの? #倭国物語
羊のワールドウォッチ@YouTube

@イヌノマキビ
古事記、万葉仮名では全て呉音で読まれています。
万葉仮名では「臺」「と」でいいんです。
福永晋三氏は師匠の古田武彦氏の「邪馬壹国」を完全論破しています。

YouTube 『邪馬壹国こそなかった

@katumoku10
福永さんの反論は結果として正しいのですが、范曄後漢書の「大倭王居邪馬臺国」に対する李賢注「案今名邪摩惟音之訛也」について言及していないのでこの反論では不完全です。魏末期の司馬政権あるいは西晋の政権が東夷に臺を使うのは不敬として壹に変えたというのが正しいのです。詳しくは「【邪馬台国問題】邪馬壹国はなかった!(#^.^#)」を参照してください!

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@katumoku10
いい話題を有難うございます。
まず、後漢書に邪馬台国が登場するのは、以下のことが考えられます。
①范曄が参照した魏志倭人伝の原本か写本に邪馬台国とあった
②范曄が参照した魏志倭人伝には邪馬壹国とあったが、臺は皇帝または朝廷を意味する漢字なので、魏末の司馬政権か西晋時代に東夷が臺を使うのは不敬ということで壹に変えさせた。

①はすべて邪馬台国と書かれていたわけではなく、邪馬壹国と書かれていた可能性がありますが、何故なのかは②で説明します。
②は、魏志倭人伝の正始八年(247年)の記事に「壹與遣倭大夫率善中郎将掖邪拘等二十人 送政等還 因詣臺」とあり、文末の「臺」は魏の朝廷を意味しており、「邪馬臺国」に見られる倭国に使われた「」を「」として区別していることからも分かります。

このような書き換えが魏末期司馬政権あるいは西晋で行われた別の事例があります。
范曄後漢書の倭伝に見られる倭国王帥升です。
シナ版wiki「帥姓」によれば、「帥本姓師,避晉宣帝諱改帥氏」とあり、本当は師升だったのを帥升に書き換えさせたということです。

ですから、倭人に臺を使うのは不敬ということで壹に変えさせたと5世紀の范曄が判断したということでしょう。それは、倭の五王の一人「讃」の使者からの情報によって正しく邪馬台国と書いたということです。
さらに、魏志倭人伝で「女王国東渡海千餘里 復有國 皆倭種」を「自女王国東渡海千餘里 至狗奴国」と范曄が書き換えたのも同じ理由です。ですから、女王の都とする邪馬台国の地理的条件が分かります。邪馬台国の東側は海になっていて、千里(この時代は約450km)ほど海を渡ると狗奴国があるということです。この条件に合う場所は限られています。詳しくは「【邪馬台国問題】五世紀の范曄がすでに解明していた(^_-)-☆」を参照してください。お邪魔しました(#^.^#)

【関連記事】

狗奴国の場所から邪馬台国が分かる!(^_-)-☆

多くの皆さんは魏志倭人伝の記述に騙されて狗奴国は熊本にあると思っていますが、狗奴国は纏向遺跡が正解です。孫栄建氏も「困ったときは范曄に聞け」と「決定版 邪馬台国の全解決」(言視舎2018年)の中で述べておられました。范曄は五世紀の倭の五王の時代の劉宋の人ですから、倭国の正しい情報を入手していたのですよ(^_-)-☆。

孫栄建氏は「春秋の筆法」に長けた陳寿を完全に理解した范曄の判断について、さらに以下のように述べています(同書、p.195)。
二十一世紀の私たちが、史書解読について五世紀の范曄より優れていると錯覚するのは、現代人の愚かな傲りだ。当時には当時の文化的世界があり、その体系があったからだ。
『後漢書』は『魏志』の『筆法』による記述をしっかりと受け止め、応戦しているのだろう。その結果、狗奴国は、女王国の東の海を渡った地方と読み取ったのだろう。『魏志』解読に関する彼我の能力を考えるとき、私は、黙って范曄に従わざる得ない。餅は餅屋なのだ。



(詳細は「邪馬台国は安心院(あじむ)にあった!」参照)

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