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【邪馬台国問題】狗奴国の正体がキモ?(#^.^#)

2025-02-09 00:00:02 | 古代史

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狗奴国の謎!!邪馬台国の敵!?【ゆっくり解説 】
古代史ヤバイ【ゆっくり解説】@YouTube

【古事記一新】第二十九話・となりの狗奴國さん
北行古事記一新ちゃんねる@YouTube

いい話題を有難うございます。

狗奴国の本当の位置が分かれば邪馬台国の位置も分かります。しかし、魏志倭人伝が邪馬台国も狗奴国の位置も誤魔化していることを、倭国大乱の痕跡を考古学の成果から発見して分かりました。女王卑弥呼は倭国大乱の結果登場しますので、倭国大乱期はまだ女王は存在しないのです。ですから、なぜ倭国大乱が発生したのかが分からないと当時の状況を正確に把握できません。

まず、倭国大乱の原因から考えてみます。魏志倭人伝には、7,80年間は男王が倭国を支配していたとあります。後漢書倭伝によれば107年に後漢安帝に160人もの生口(奴隷)を献上した倭国王帥升の朝貢記事がありますので、帥升の系統の男王が伊都国に居たと分かります。この帥升ですが、魏末期の司馬政権時代か西晋時代に師姓だったのを帥姓に変えられたことが文献にあり、師升は周王朝以前から宮廷祭祀を行う楽師の官位を表す姓だと分かりました(詳細は「倭王帥升(すいしょう)は何者だ?」参照)。

つまり、57年に光武帝から有名な国宝金印を賜った奴国の宮廷楽師だったのです。それが倭国王になるために朝貢したわけですから反乱を起こしたと分かります。どの奴国王の時代かは、記紀の高天原神話の乱暴者の神スサノヲだったことが、宋史 日本伝の王年代紀から分かりました。第十八代王素戔嗚尊です。

古事記には、スサノヲが八百万の神から拷問を受けて、全財産を奪われたことが書かれていますから、史実を暴露したものだったのです(注1)。スサノヲが捕らえられて、いち早くスサノヲの部下が金印を持ち去り、逃げる途中で志賀島に立ち寄り土の中に埋めたものが、江戸時代の百姓によって偶然掘り出されたということなのです。漢代の金印が純度95%だということは現代になって分かったのですから、江戸時代の贋作ではないので、これらのことから本物だと分かります。

 

そして、この師升らの反乱から脱出したのが、スサノヲの王子イタケルです。祖母は国生み神話の女神イザナミで、縄文海人ムナカタ族の王族でしたので、ムナカタ族の手引きで出雲に落ち着き、その子孫が列島に広く展開するムナカタ族を束ねる王となりました。スサノヲ大王(脱解王のモデル)のコネで半島南部の鉄を手に入れて鉄のネットワークを作って強勢になります(注2)。師升王らへの恨みを晴らすために大分県大野川流域から阿蘇山麓にかけて半島の鉄を持ち込み、鉄製武器を製造する鍛冶集落群を作ります。


(野島永「弥生時代における鉄器保有の一様相」京都府埋蔵文化財論文集6、2010,p.45)

そして後漢朝廷の腐敗で半島の統制が緩み、混乱したために倭国は楽浪郡との交易が途絶えて衰退気味になります。そこで、菊池川流域に前線基地方保田東原遺跡などを造り、山陰や畿内の兵士を呼び込み、倭国の領域を襲撃したのが倭国大乱です。二世紀末弥生後期後半の鉄鏃・銅鏃の出土状況を調べると、北部九州の集落からから鉄鏃が環濠などから見つかりました。その他の地域では住居跡や墳墓などから出土していますが、矢戦の痕跡はありませんでした(詳細は「【検証18】倭国大乱の痕跡だ!」参照)。

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また、スサノヲの弟ニギハヤヒも師升ら反乱を逃れ、かつて父イザナギ(十七代王伊弉諾尊)の部下だった吉備勢が裏切って倭国側についたので、ムナカタ族の支援を受けて討伐し、瀬戸内海航路の要衝を抑えて、隆盛になり、奴国を再興しました。第十九代王天照大神尊として倉敷市楯築王墓に葬られています。先代旧事本紀で物部氏の祖とされた天照国照天火明櫛玉饒速日命です。

記紀では吉備津彦(イサセリヒコ)の鬼退治の話しにされて史実が隠されていますが、平安時代に吉備津彦と伊弉諾尊を皇祖神として祀ったことから判明しました(詳細は「【検証7】桃太郎はニギハヤヒだった?」参照)。

ニギハヤヒ大王の子孫が吉備から纏向遺跡に遷都して、各地の旧奴国勢力を集めて最終的にヤマト王権を成立させます。魏志倭人伝では纏向遺跡の旧奴国を狗奴国と呼んだのです。誰が倭国の行程記事を書いたのか、犯人を特定しました(詳細は「【邪馬台国問題】デタラメな行程記事を書いたのは誰だ!」参照)。

倭国大乱に話を戻しますが、狗奴国の官狗古智卑狗(豊岡市久久比神社祭神久々遅彦)が活躍して倭国を滅亡寸前まで追い詰めていましたが、公孫氏が半島を平定し204年に帯方郡を設置したので、倭国は息を吹き返し、菊池川流域の集落を襲い、油断していた狗古智卑狗が討たれたと推理しました。王を喪って途方に暮れたムナカタ族の有力者赤坂比古(卑弥呼の父、和邇氏の祖、魏志倭人伝の伊聲耆)が倭国王難升米に懐柔され、狗奴国を裏切って倭国側についたのです。条件は、卑弥呼の太陽神の神託によって政治を行うことです。ですから卑弥呼は姫巫女で宇佐神宮に祀られていた比売大神宗像女神市杵島姫でした。天理市和邇坐赤阪比古神社の現在の祭神でした(詳細は「消された和邇氏の正体が建国の謎を解くカギ?」参照)。

 

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ということで、公孫氏が魏の司馬懿に討たれ、倭国王難升米は、魏への朝貢のために帯方郡を訪れて、司馬懿の部下の太守劉夏と約半年間一緒に居て、司馬懿の功績を魏臺一等のものにするために談合して、邪馬台国への行程記事を創りました。郡から万二千余里離れた邪馬台国の女王が東夷の大国の倭国を支配しており、ライバルの呉を東方海上から挟み撃ちにする戦略上最重要な位置にあるとしたのです。実際は宇佐神宮周辺の大集落から少し山間部に入った宇佐市安心院町宮ノ原遺跡の三女神社が卑弥呼の宮室です。V字溝の中から銅鏃が発見されていますので、城柵の中で兵士に厳重に護られてたことが分かりました。また、その近くに卑弥呼の墓「径百余歩の冢(ちょう)」と見られる「三柱山古墳」を発見しましたので、邪馬台国の有力候補です(詳細は「邪馬台国は安心院(あじむ)にあった!」参照)。)(2025.2.9 青字追加)

つまり、「女王国(邪馬台国)から東に海を約千里渡ると狗奴国」と書いた范曄後漢書が正しかったと分かりました。詳しくは「【邪馬台国問題】五世紀の范曄がすでに解明していた(^_-)-☆」をご参照ください。長々とお邪魔しました(;^ω^)


(卑弥呼の死の直前の状況)

 

(注1)「於是八百萬神共議而、於速須佐之男命、負千位置戸、亦切鬚及手足爪令拔而、神夜良比夜良比岐(その後、八百万の神々一同は相談して、須佐之男すさのおにたくさんの贖罪の品物を科した。また、髭と手足の爪とを切ってはらえをし、高天原たかまのはらから追放してしまった。)」(「古事記」上巻、訳は 「古事記・現代語訳「上巻」天照大御神と須佐之男命より引用)

(注2)記紀では日向三代神話にしていますが、史実はスサノヲ・イタケルの子孫の出雲・丹後半島を根拠地として、山陰から北陸・越のムナカタ海人族を束ねた三代の王(八束命・日高彦・高野御子)です(詳細は「【刮目天の古代史】出雲・丹後王国の謎!」参照)。

 

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