いつも、ありがとうございます。
とても重要な話題を有難うございます。
今、@イヌノマキビさんにコメントしましたが、宋史 日本伝の王年代紀の十八代奴国王素戔嗚尊(記紀の暴れん坊の神スサノヲ)のときに奴国宮廷楽師の師升らが反乱を起こし、スサノヲを殺して倭国を奪った事件があったのです(詳細は「倭王帥升(すいしょう)は何者だ?」参照)。(2025.2.7 青字追加)
日本書紀は高天原神話を創って誤魔化していますが、古事記はスサノヲが八百万の神に拷問を受けて、全財産を奪われたことを記しています(注1)。師升は金印の在りかを聞き出すために拷問したのですが、いち早くスサノヲの部下が金印を持ちだして、逃げる途中に志賀島に立ち寄って土の中に隠したのが、江戸時代になって、偶然百姓が見つけたのです。金印は本物ですよ。だから160人ものスサノヲの部下を奴隷(生口)として献上して倭国王に認められたのです(^_-)-☆(2025.2.7 青字追加)
この事件が7・80年後の倭国大乱の原因です。
旧奴国勢力を狗奴国と呼んだのです。(奴国を蔑んだ「狗コロの奴国」の意味)(2025.2.6 赤字追加)
だれが?
師升の後継者難升米です。
難は儺のニンベンを省略した減筆です。奴国を仲哀天皇紀で儺県(なのあがた)とされていますが、「儺」という言葉は「追儺=鬼やらい」を意味しますので、この事件を示唆しています。「儺升」は「奴国王を追い払った師升」という意味です。「米(め)」は「頭目(かしら)」の意味がありますので、難升米は師升(儺升)の後継者の倭国王という意味になります。(2025.2.7 青字追加)
そして面土国は白鳥庫吉は回の俗字「 囬」の誤写で「 囬土(うぃと)國」が正しいとしました。その「 囬土国」が魏志倭人伝で「伊都国」となっていますが、とても深い意味のある国名になっています。伊は聖職者を意味し、伊都国は殷(商)王朝初期の伝説の政治家伊尹(いいん)に因む国名になっています(注2)。伊尹は司馬遷「史記 殷本紀」・「孟子・尽心上篇」に放蕩者の王を臣下でありながら追放した人物として評価が議論されています。まさに師升が臣下でありながら奴国王を殺して倭国を奪った事績と似ています。(2025.2.7 青字追加)
つまり、景初三年(239年)六月に魏への朝貢のために帯方郡を訪れた倭大夫(本当の倭国王で伊都国男王)難升米が「 囬土(うぃと)國」を「伊都国」と書いたことが分かりました。洛陽に上るまで約半年間(司馬懿が卑弥呼の詔勅を作るのに要したため)帯方郡に滞在して司馬懿の部下の太守劉夏と談合して邪馬台国への行程記事を書いたと分かるのです(詳細は「魏志倭人伝を推理する(その2)」参照)。(2025.2.7 青字追加)
ですから、司馬懿の功績を実際よりも持ち上げるために、戦略的に重要な呉を東方海上から挟み撃ちする、郡から東南万二千余里の位置に倭国女王が都とする邪馬台国があるとしたのです。
そのために、多くの研究者が行程記事を自分の思う位置になるようにいくら解釈をしても、他の人は納得しないので邪馬台国問題が解決しなかったのですよ。邪馬台国の謎が解けたのです。だから、魏志倭人伝ではなく范曄後漢書の記述を信じて、卑弥呼の墓「三柱山古墳」が見つかったのです。
よろしければ、「【邪馬台国問題】五世紀の范曄がすでに解明していた(^_-)-☆」をご参照ください。失礼しました(;^ω^)
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【邪馬台国問題】五世紀の范曄がすでに解明していた(^_-)-☆
邪馬台国が宇佐市安心院町宮ノ原遺跡と分かったので、邪馬台国への行程記事のトリックも下図のとおり推理できました(^_-)-☆
(注1)「於是八百萬神共議而、於速須佐之男命、負千位置戸、亦切鬚及手足爪令拔而、神夜良比夜良比岐(その後、八百万の神々一同は相談して、須佐之男にたくさんの贖罪の品物を科した。また、髭と手足の爪とを切って祓えを科し、高天原から追放してしまった。)」(「古事記」上巻、訳は 「古事記・現代語訳「上巻」天照大御神と須佐之男命」より引用)
(注2)Wiktionary「伊」にその語源が以下のとおり説明されています。
『「人」+音符「尹」。「尹」は、手で神杖を持った様を表わす象形文字。伊は神の意志を伝える聖職者。治める人の意を表す。調和をさせる様、殷初期の伝説の宰相伊尹(いいん)に因み嘉字とされ、人名、地名に用いられる。』(2025.1.19に確認)
通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)
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