古代半島人の正体は?(#^.^#) 2024-11-13 18:51:08 | 古代史 いつも応援ありがとうございます。よろしければポチっとお願いします( ^)o(^ ) #土井ヶ浜弥生人のゲノム解析結果を東大理学部が発表していたことを下のYouTube動画で知り勉強させていただきました(プレスリリースと英語の論文をダウンロードできます)。よろしければお付き合いください(#^.^#) Hiro Uchida@YouTube よい情報をありがとうございます。Up様と同感です。 古代半島人と現代半島人はかなり異なりますね。3世紀の古代文献からも、扶余族の中に楚人や倭人(長江下流域出身)がおり、その中の倭人が4世紀に百済人になっていると考えています(詳細は「半島の古代史だ!(漢四郡まで)」参照)。 現代半島人はY-DNA解析から楚人・燕人などのシナ人系(O2)が40%と最も多く、殷(商)の人々(箕子朝鮮、O1b2からO47zを除く)が1/3、倭人(O-47z)や縄文人系(D-M55)はわずか4%程度でした。 現代本土日本人は縄文系が38%、倭人系が25%、シナ人系が17%くらいです。 (左クリックで拡大 詳細は「日本民族とその周辺民族の父系のルーツ!」参照) 7300年前の鬼界カルデラの大噴火で九州の縄文人が半島に逃げており、4・5世紀の古墳の伽耶人の王には縄文人の遺伝子が20%以上入っていることがウィーン大の報告から分かっています(詳細は「任那(みまな)の正体は?」参照)。ですから、白村江の敗戦でほとんどの倭人(百済人など)が日本に帰化していますので、現代半島人と古代半島人は異なると考えています。 紀元前9世紀ころに水田稲作や灌漑技術を日本列島に運んだのは半島に展開していた倭人と混血した縄文人と考えています。 金沢大学の三重構造モデルにはとても違和感がありましたので(詳細は「古墳人って何なのさ?」参照)、今回の結果から今まで検討してきた斎藤成也さんの三段階モデルによる日本人形成過程が妥当だと分かりました。詳細は拙ブログ「日本列島に集まった人々とは?」にありますので、よろしければどうぞ(;^ω^) @hirouchida3068 コメントありがとうございます!三重構造モデルに違和感があった中で、支持しない論文が出てきたので今回動画にしました! Y染色体だと縄文とO1bが優位という点がポイントですよね。いまのところ個人的には縄文人が半島に移動してそこで混血が起こったと考えています。松菊里と西北九州弥生人はつながっていたと感じますね。 斎藤さんの三段階渡来モデルも刮目天さんのブログも拝見させていただいておりました!とても参考になります!私は第二段階が遠賀川式土器の勢力で土井ヶ浜弥生人はその子孫、第三段階を斎藤さんは古墳時代としていましたが弥生中期の早良、奴、平原が源流なのではと見ています。それとは別に古墳時代以降も帰化人が断続的に入ってきたために古墳人より現代人のゲノムがやや大陸よりになった気がしています。 @hirouchida3068 さん 早速いいお返事をありがとうございます。第二段階の遠賀川の勢力ですが、現在は倭人と混血した縄文人かも知れないと考えて改訂しようと思っているところです。と言いますのも、純粋の江南系呉王族とその家臣の江南の倭人(アズミ族)が早良平野の吉武高木遺跡に入ってくるのは弥生中期初頭(紀元前4世紀初頭)と見ています。先住の有田遺跡などの住人が遠賀川土器の人々で、多分倭人と混血した縄文系の人々なので、呉王族と少し抗争があり吉武大石遺跡に初代奴国王天御中主の家臣の一部が戦死して埋葬され、すぐに平定されたと推理しています。 平原王墓は古墳時代初期(270年頃)に纏向遺跡の狗奴国王卑弥弓呼と同族の尾張王らによって討たれた女王台与だと推理しています(詳細は「【検証4】平原王墓の被葬者は誰だ?」参照)。台与は帯方郡などの華僑と辰砂の取引を伊都国に常駐して管理していたと推理しています。和歌山県の伊都郡に丹生都比売神社がありますが、台与が祀られていると見ています。ヤマト朝廷は、先に高良山で討ち取った大国主高野御子と妃の台与の祟りを最も畏れています。高野山縁起に登場する丹生都比売の御子を高野御子としていますが、これは誤魔化すためです(^_-)-☆ おっしゃるとおり白村江の敗戦後まで半島の倭人(縄文系も含む)が断続的に日本に帰化してきたと見ています。百済王族は天智天皇が本家で、分家に当たる呉王族だと推理しています(詳細は「天智天皇とは何者だ?( その4 )」参照)。またいろいろと情報交換させてください。有難うございました(#^.^#) @hirouchida3068 @katumoku10 遠賀川の勢力については弥生早期の愛知朝日遺跡の人骨もゲノム解析結果が出ているので興味深いです。 年代観の違いによって色々な角度で考えられるのが古代史の面白さですよね!ブログ改めて見させていただきます! これからもよろしくお願いします! 【関連記事】<半島の古代史>半島の古代史だ!(漢四郡まで)新羅の脱解王が奴国大王?(^_-)-☆【衝撃】百済王のなぞ?いつ・誰が背乗りした?馬韓の伯済国の倭人斯摩(百済武寧王)が502年に百済を乗っ取ったのは武烈天皇と強いつながりがあり、事前の盟約があって、倭国軍が支援したのかも知れませんね(^_-)-☆ 任那(みまな)の正体は?! 古代朝鮮の伽耶(かや)には日本人の遺伝子を持った高貴な人々がいたと判明 2022.06.23 THURSDAY 川勝康弘@ナゾロジーオーストリアのウィーン大は古代朝鮮(4~5世紀)の「伽耶」の古墳において、日本人に特徴的な縄文人のDNAを多く持つ人々が埋葬されていたと発表。伽耶で当時の倭国人はいったい何をしていたのでしょうか? 通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)応援をしていただき、感謝します。よろしければ、またポチ・ポチ・ポチっとお願いします( ^)o(^ )
Y染色体だと縄文とO1bが優位という点がポイントですよね。いまのところ個人的には縄文人が半島に移動してそこで混血が起こったと考えています。松菊里と西北九州弥生人はつながっていたと感じますね。
斎藤さんの三段階渡来モデルも刮目天さんのブログも拝見させていただいておりました!とても参考になります!
私は第二段階が遠賀川式土器の勢力で土井ヶ浜弥生人はその子孫、第三段階を斎藤さんは古墳時代としていましたが弥生中期の早良、奴、平原が源流なのではと見ています。それとは別に古墳時代以降も帰化人が断続的に入ってきたために古墳人より現代人のゲノムがやや大陸よりになった気がしています。
@hirouchida3068 さん 早速いいお返事をありがとうございます。
第二段階の遠賀川の勢力ですが、現在は倭人と混血した縄文人かも知れないと考えて改訂しようと思っているところです。と言いますのも、純粋の江南系呉王族とその家臣の江南の倭人(アズミ族)が早良平野の吉武高木遺跡に入ってくるのは弥生中期初頭(紀元前4世紀初頭)と見ています。先住の有田遺跡などの住人が遠賀川土器の人々で、多分倭人と混血した縄文系の人々なので、呉王族と少し抗争があり吉武大石遺跡に初代奴国王天御中主の家臣の一部が戦死して埋葬され、すぐに平定されたと推理しています。
平原王墓は古墳時代初期(270年頃)に纏向遺跡の狗奴国王卑弥弓呼と同族の尾張王らによって討たれた女王台与だと推理しています(詳細は「【検証4】平原王墓の被葬者は誰だ?」参照)。台与は帯方郡などの華僑と辰砂の取引を伊都国に常駐して管理していたと推理しています。和歌山県の伊都郡に丹生都比売神社がありますが、台与が祀られていると見ています。ヤマト朝廷は、先に高良山で討ち取った大国主高野御子と妃の台与の祟りを最も畏れています。高野山縁起に登場する丹生都比売の御子を高野御子としていますが、これは誤魔化すためです(^_-)-☆
おっしゃるとおり白村江の敗戦後まで半島の倭人(縄文系も含む)が断続的に日本に帰化してきたと見ています。百済王族は天智天皇が本家で、分家に当たる呉王族だと推理しています(詳細は「天智天皇とは何者だ?( その4 )」参照)。
またいろいろと情報交換させてください。有難うございました(#^.^#)
半島の古代史だ!(漢四郡まで)
新羅の脱解王が奴国大王?(^_-)-☆
【衝撃】百済王のなぞ?いつ・誰が背乗りした?
馬韓の伯済国の倭人斯摩(百済武寧王)が502年に百済を乗っ取ったのは武烈天皇と強いつながりがあり、事前の盟約があって、倭国軍が支援したのかも知れませんね(^_-)-☆
任那(みまな)の正体は?!
古代朝鮮の伽耶(かや)には日本人の遺伝子を持った高貴な人々がいたと判明
2022.06.23 THURSDAY 川勝康弘@ナゾロジー
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オーストリアのウィーン大は古代朝鮮(4~5世紀)の「伽耶」の古墳において、日本人に特徴的な縄文人のDNAを多く持つ人々が埋葬されていたと発表。伽耶で当時の倭国人はいったい何をしていたのでしょうか?