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#2024-11-02 00:05:55に掲載した【邪馬台国問題】魏志倭人伝にヒントが?でご紹介したハルキーさんのYouTube動画「魏志倭人伝における邪馬台国所在地論の分かれ目について語る(あくまでもこのチャンネルの見解です)」でユーザーの方たちといろいろと議論していますので、よろしければお付き合いください(#^.^#)
@YO-high
まさかこのタイミングで「邪馬台国」論ですかぁ。吉備の話の前なのにやりますね。 正直言えばワイとは違うんですが、考え方としては正しいかと存じます。 ワイは「女王国」≠「邪馬台国」と考えてますので、女王国が豊前というのはワイの「妄想」とは合致しております。 何というか、「押し付け」ではなくて、もう少しおおらかに考えたいと思ってるところですなぁ。さあて、次回も楽しみにしております。
@北島正隆-d5x
私は、水行10日陸行1月で至るのは「邪馬壱国の女王の都となる所」だと考えます。 (都という中国語には「先祖からの墓がある所」という意味もあり、この意味ととった。) 意訳すると「邪馬壱国の女王の母国」だと思ってます。
@takedaharuki
そういう解釈もあるんですね。都の中国の意味は興味深いです。
@takedaharuki
今回の動画は旅行記のおまけのような感じです。吉備の動画自体は2週間近く前に完成しているので、もう当日まではあまり考えず待つばかりです。
@katumoku10
@北島正隆-d5x さん 范曄後漢書では邪馬台国となっていますので、これが正しいと思います。邪馬台は ヤマ国に住む女王(台)という意味ですので、意味がはっきりします。邪馬壱(やまいち)だとバブルがはじけて倒産した証券会社しか思い浮かびませんから(;´Д`)
「臺(台)」は皇帝を意味する場合があるので、畏れ多いので「壹」と書き換えた可能性が大きいですよ(;^ω^) 「女王の母国」は正解だと思います。卑弥呼の墓の近くに父親の墓も発見していますから(#^.^#)
@北島正隆-d5x
@katumoku10さん 魏志に先行する広志という文献があります。ここには邪馬台国(邪馬臺國)でも邪馬壱国(邪馬壹國)でもなく 邪馬嘉國とあります。嘉という文字は壴(シュ)という文字から来ているとの事なので、
邪馬嘉 → 邪馬壴 → 邪馬壹 →(魏志の一部にみられる)邪馬一 →耶麻惟とか
| →邪馬臺 → 耶麻堆とか
このように表記がブレた可能性を考えています。 また魏の当時の発音は、邪は「ジャ・ジア」、馬は「ラ(マでもバでもない)」台は「アイ」だったようです。 邪馬台は「ジアラアイ」邪馬壱は「ジアライー」で、発音はどちらでもよかったのかも知れません。 いずれにせよ、直接ヤマトに繋がる発音とは思えません。 さて、邪にもいくつか意味があり、呉では今でいう「椰子」の意味でも「邪」を使ってました。 邪馬台国をヤマタイ国と発音したのは呉の発音かも知れません。
赤烏元年(238年)と赤烏七年(244年)という銘が入った鏡が出土しているので、どこかが呉と繋がっていたようです。 また赤烏とは「中国の伝説に登場する「太陽の中にいる三本足の烏」」と言う意味ですので八咫烏に通じます。 他にも日本の漢字の音読みには「呉音」はあるが「魏音」はないです。 魏は北部九州と、呉は琉球ルートで呉と繋がっていたことが示唆されます。 上記のように。無理にヤマトに近い音に合わせる必要もありません。 このように、元は邪馬嘉である可能性も考えられ、邪馬国の台(女王)と決めていいものでもありません。
あと、そもそもですが陳寿が書き残したであろう国名はちょっと変です。 魏略には對馬國・一支國なのに魏志には對海國・一大國とあります。 本当は邪馬台国という国があった「のかも知れません」が、陳寿が意図して邪馬壱国と書いたのかも知れませんし、 邪馬嘉国を、意図して邪馬壱国と書いたのかも知れません。 邪馬嘉国は、後にヤマカと読むようになったのであれば、熊本県山鹿市かもしれません。 陳寿が意図して邪馬壱国と書いたのなら、今の釜山(く邪韓国)から邪を、対馬から馬を、一支国から一(壱)をとり ベネルクス三国のような意味で邪馬壱国と言ったのかも知れません。 であれば、邪馬壱国は倭国の入り口という意味から、倭国全体或いは女王の勢力範囲を指し、その首都は伊都国 こういうことかも知れません。
邪馬壱は間違いで、邪馬台国が正しい、と言い切れるものでもありません。
@katumoku10
@北島正隆-d5xさん そうなんですよ。シナの古文献は原本がない場合が多く、誤写もあり、本当は何が書かれているのか混乱しますね。 だから、諸説が発生する原因です。 そこでいろいろな解釈の中でどれが正しいか、蓋然性のある解釈を見つける方法があります。 たとえばおっしゃるようにヤマカから山鹿とするならば、そこに卑弥呼の墓があるのか?を調べればいい訳です。わたしの知る限り卑弥呼の時代の径百余歩の冢と言えるものはないと思います。だからヤマカ説は失格となりますね!
「邪馬壱国は倭国の入り口という意味」というのなら山門あたりでしょうか?そこにも径百余歩の冢は見当たらないと思います。
「邪馬台」ならば宇佐市安心院町が平安時代中期に作られた和名類聚抄の宇佐郡野麻郷に比定されています(宇佐市史 上巻P.324)。そこに弥生後期の集落宮ノ原遺跡があり、記紀に宗像三女神降臨の伝承のある三女神社があり、遺物から三女神、実は一人市杵島姫命であることが分かり、卑弥呼だったと推理できます。
本稿の目的は,科学の方法におけるアブダクションの位置づけを確認し,発見の方法とも呼ばれるアブダクションが,たんなる偶然のひらめきによりなされているのではなく,あらたな発見(の驚き)に対する心構えとしての習慣を必要とすると論じることにある。
日本において「科学」という言葉は,理系,特に,自然科学をさすものと考えられがちであるが,「科学」を意味する英語の science は「知る」を意味するラテン語に由来するものであり,疑念を解消するために知ろうとする探求の営みは,社会科学や人文科学(人文学)にも共通している。本稿では,まず科学の方法について確認したうえで,科学の成立と現在における様々な科学の営みを確認する。そのうえで,そのような科学の方法を駆動させる推論としてのアブダクションに注目し,広い意味での科学的な発見がどのようになされるのかを自然科学,社会科学,人文科学(人文学)それぞれについて検討する。
それらの検討を通じて,本稿では,一般にセレンディピティやひらめきとよばれるものが単なる偶然によるものではなく,そもそもそのような機会をつかみ取る心構えとしての習慣,つまり,何かをあらたに知る,あるいは発見するためには,日頃からあらたなものに対する予測と,そのような予測が裏切られることに対して驚く準備ができている必要があると論じる。
この記事の3つのポイント
- 仮説先行で考える「アブダクション」は探求の論理学
- 自分の想像の外に出るには「まず作ってみる」
- 満足感のキーになる素材を単独で食べてみると……?
通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)
初めての方は「【刮目天の古代史】古代史を推理する(^_-)-☆」に基本的な考え方を説明していますので、是非ご参照ください!
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