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卑弥呼の一族の墓は巨大円墳?(^_-)-☆

2024-11-03 00:00:04 | 古代史

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【ゆっくり解説】記紀から抹消されている謎すぎる宇佐神宮と邪馬台国の関係
闇のミステリーハンター【ゆっくり解説】@YouTube

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卑弥呼の墓は多分宇佐神宮ですが、その前が宇佐市安心院町妻垣神社奥宮一柱謄宮で、二度改葬されたと思われます(詳細は「宇佐は記紀が隠した秘密が満載だ」参照)
魏志倭人伝にある径百余歩(直径約150m)の円墳は「三柱山古墳」です(詳細は「【刮目天の古代史】卑弥呼の謎!」参照)。
 
卑弥呼の宮室があったのは宇佐市安心院町宮ノ原遺跡の三女神社ですよ。邪馬台国とされた場所です。同じ遺跡の中の現在ブドウ園の展望台になっている「奥城古墳」が卑弥呼の父赤坂比古(和邇氏の祖、玄界灘を支配したムナカタ海人族のシャーマン王、魏志倭人伝の伊聲耆)の墓です。直径約120mの円墳で国内第三位。
 
鳥栖市「愛宕神社古墳」が直径140mの円墳で国内第二位です。卑弥呼の弟赤坂比古(愛宕権現、魏志倭人伝の掖邪狗)です(詳細は「卑弥呼の父・弟が魏志倭人伝に登場していた?」参照)。
 
新日本三大円墳
 
和爾氏の祖の墓は皆巨大円墳です。豪華な副葬品で話題になった奈良市富雄丸山古墳も直径約100mの円墳で、今のところ国内第4位ですが、卑弥呼の弟の孫で初代応神天皇の皇太子だったウジノワキノイラツコです。第二代宇治天皇に即位していたのですが、日本書紀で隠されています。聖帝とされた仁徳天皇(オオサザキ)に暗殺されて、皇位を奪われたので和邇氏によってひっそりと葬られたので前方後円墳ではないのです(詳細は「富雄丸山古墳に何故葬られたのか?」参照)。どうも、お邪魔しました(;^ω^)
 

<「空白の世紀と倭の五王の謎(その1)(その2)(その3)」参照>

 

【関連記事】

「御塚・権現塚古墳」文化遺産オンライン

宗像女神市杵島姫卑弥呼を宇佐市安心院町三女神社で奉斎するとの伝承のある福岡県三潴郡の豪族水沼君(みぬまのきみ)も卑弥呼と同じムナカタ族だと、その古墳の形状(円墳)から分かります。久留米市権現塚古墳の墳丘は径55メートルの2重の濠を巡らせた円墳で、外堤の直径は約150メートル。五世紀ごろ築造の御塚(おんつか)古墳は帆立貝式前方後円墳で全長125メートルの三重の周濠がめぐっていますが、帆立貝式はムナカタ族の大型円墳から派生したものです。四世紀の富雄丸山古墳も小さな造り出しのある円墳ですので卑弥呼が祖である和邇氏のものです(^_-)-☆

西日本有数の生産量を誇る ~安心院ぶどう~(宇佐市公式観光サイト)

魏志倭人伝に倭地温暖で冬でも生野菜を食べ、はだしで生活するとあります。卑弥呼の居た三柱山台地は温暖なでブドウ栽培に最適な気候のようです。卑弥呼は葡萄酒は呑んでませんが、濁り酒を楽しんでいたようです。泡をすくう土器が出土していますから。毎晩、河原の露天風呂に入って、ふろ上がりにすっぽん料理など山海の珍味を食べて贅沢で快適な生活を送っていたようです。北九州で皆既日食が起こらなければ歴史は違っていたかもしれませんね(^_-)-☆

【刮目天の古代史】卑弥呼の謎!

卑弥呼に関する記事をこちらにまとめましたので、卑弥呼の部屋へどうぞ!(*^-^*)

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