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女王卑弥呼が共立されて、倭国大乱が終わるとあります。倭国は、7・80年間男王が支配していたとありますから、107年に後漢安帝に朝貢したのが倭国王帥升ですのでその一族が倭国王でした。しかし、その50年前には後漢光武帝に朝貢して金印を賜った奴国王が倭国を支配していたのですから、帥升が倭国王として認められるために160人もの生口を献上したと推理できます。
これらの史実が書かれた范曄後漢書の原文はすでに消失しており、原文を引いたと思われるいくつかの文献から倭国王帥升は倭面土国王師升と原文にあったようです。魏志倭人伝には倭国内で男王は伊都国にしかいないので、面は回の俗字 囬の誤写で倭の 囬土(ウィト)国王師升だと白鳥庫吉先生が重要なヒントを教えてくれました。そして師姓は周以前からの宮廷祭祀を司る楽師の官位を表すと維基百科「師姓」にありますので、奴国宮廷楽師の師升らが反乱を起こして倭国を乗っ取って、伊都国に遷都したと分かります(詳細は「倭王帥升(すいしょう)は何者だ?」参照)。
まだ続きますが、長くなったので、よろしければつづきは拙ブログをご参照ください。お邪魔しました(#^.^#)
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白鳥 庫吉(しらとり くらきち、1865年3月1日(慶応元年2月4日)[1] - 1942年(昭和17年)3月30日[1])は、日本の歴史学者。東京帝国大学(現:東京大学)教授、東洋文庫理事長を歴任した。専門は東洋史。文学博士。邪馬台国北九州説の提唱者として有名(Wiki「白鳥庫吉」より)。
そしてウィト国が魏志倭人伝で伊都国と書かれていたことはものすごく重要なヒントです!
伊は聖職者の意味です。更に殷(商)王朝初期の伝説の政治家伊尹(いいん)に因む都(みやこ)です。伊尹は放蕩者の王を追放したことでその評価が議論される人物ですから師升王の事績と一致します。このクーデター事件を知っていた人物がこれらを書いて教えたと分かります。司馬遷の史記や孟子を読む教養人です。
「漢字を書けない倭人の発音を聞いた魏の役人が韻書の冒頭の文字を使って書いた」という通説は誤りだったのです。そして、伊都国はとても好い、いわゆる嘉字で書かれているのですが、その他の倭国の地名や人名・役職名には卑字が多用されていることを考えると、その人物を特定できます(^_-)-☆
景初三年(239年)六月に魏への朝貢のために帯方郡に出かけた倭大夫難升米が約半年間帯方郡に滞在して太守劉夏と話し合って倭国の情報を書いたのだと推理できます。そして、当時はニンベンを省略する習慣があったので、難升は儺升のことだと分かります。つまり儺は追儺、鬼やらいを意味する文字ですから「難升」は倭国王を追放した師升を意味します。米は「め」と読み頭目(かしら)の意味でも使われますので(古事記「迦邇米雷王」など)、難升米は奴国宮廷楽師の師升の子孫(多分、孫)の伊都国男王だと分かります。卑弥呼が女王だとすれば卑弥呼の政治を補佐する男弟とされた人物で、実質上の倭国王だったことは、後に魏の正規軍の軍旗「黄憧」が難升米に直接授けられていることからも分かります。
魏志倭人伝の前段の邪馬台国への行程記事などは難升米が全部書いて劉夏に教えたものと推理できます。
さらに、不弥国まで里数表記が急に日数表記に変わり、投馬国まで水行二十日、邪馬台国まで水行十日、陸行1月とべらぼうな日数を書いて、しかも方角も末蘆国から北を東に変えていますから、女王の都の邪馬台国を帯方郡から南東万二千余里の場所で、魏のライバルの呉を東方海上から挟み撃ちにする東夷の大国(邪馬台国七万余戸、倭国の合計十五万余戸)と見せかけたものだと分かります。
戦略上重要な倭国を朝貢させた魏の実力者司馬懿の功績を実際よりも大きく見せるために、難升米と劉夏が談合してデタラメを書いたと分かります。ですから、行程記事だけを頼りにして邪馬台国の位置を定めることはできないのです(詳細は「誤解と幻想の邪馬台国(´・ω・`)」参照)。
そうなると、どうやって邪馬台国を探すかは、魏志倭人伝の記事から、以下の条件に一致する場所を探せばいいのです。人が容易に持ち運べる金印・鏡・絹織物などは決定的な証拠にはならないと考えられます。候補地が複数あれば、考古学などの成果からどれが邪馬台国かを比較検討して決めることができると思います。
①卑弥呼の径百余歩の冢(直径約150mの円形墳墓、しかも前後の状況から急造の土を盛り上げただけの墓)です。
②さらに、その周辺に城柵で囲われて兵士で厳重に護られた王宮があること(弥生後期の集落)。
③また、その場所に、卑弥呼に纏わる伝承や地名などがあること。
④そして倭地温暖で冬でも生野菜を食べ、はだしで生活できる場所。
⑤卑弥呼は人前に出ないことから巨大集落から少し離れた場所が居城。
⑥女王国の東側が海で、渡海千余里でまた倭種の国がある。范曄後漢書では倭種の国を狗奴国としている。九州説なら周防灘に面した豊前地方が該当する。
これらに合致する場所が邪馬台国の有力な候補と考えられます。
これに合致する有力な候補地を発見しています。「【邪馬台国問題】魏志倭人伝にヒントが?」をご覧ください。
【関連記事】
弥生時代に漢字を読み書きできる倭人が居なかったというのは日本書紀による誤った刷り込みでした(;一_一)
伊都国の三雲遺跡番上地区から大量の楽浪土器が見つかっていますので、楽浪郡などの華僑が滞在したと考えられます。王族や大夫は華僑らと接触してシナ語も覚え、文献なども取り寄せて読んでいたと考えられます(^_-)-☆
宇佐市安心院町の三女神社の西に径百余歩(直径約150m)の冢(ちょう、土を盛り上げただけの円形墳墓)があります。その南の深見川の河原に遥拝所があります。そこにヒカケ横穴群があり、墓を目視できないように作られていました。日食のために殺された卑弥呼に因む地名がヒカケでしょう。考古学や民俗学などの成果に加えて、卑弥呼の巨大円墳が見つかっていますので、可能性が高いと思います(^_-)-☆
最後までお付き合いありがとうございます。通説と違いますので、疑問点などをお寄せください。
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