刮目天(かつもくてん)のブログだ!

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纏向遺跡の勢力が九州の倭国を滅ぼした証拠だ(^_-)-☆

2024-11-07 22:03:40 | 古代史

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2024-09-12 09:43:05の記事「卑弥呼は纏向遺跡には居なかった!」で紹介したYouTube動画

でユーザーの方たちとコメントのやり取りをしました。よろしければ、またお付き合いください(#^.^#)

@buluemoon2008
奈良県立橿原考古学研究所の土器の説明では、
『また纒向遺跡からは、西部瀬戸内沿岸地域から北陸・東海に及ぶ広範囲の古式土師器が出土する。古墳時代初等の同遺跡が、列島の極めて広範囲に及ぶ交流の中心地であったことを示している。[奈良県立橿原考古学研究所] 』
と九州は含まれていません。一方、これらの土器にはヤマトの土で作られた地方の土器が含まれるため、地方の人が纏向に持ってきたものとされています。他地域の土器の割合から、他地域の人が2~3割纏向にいたとされています。しかし、北部九州の土器がほぼ出ていないということは、逆にこの時代(古墳時代初頭)に九州とは人的交流がなかった物証ということになります。九州と交流のない邪馬台国はありえないわけです。

@kei.suzuki
九州の遺跡から畿内由来の庄内式土器が出土しているので畿内から九州に人が流入しているのは明らかですよ

@buluemoon2008
纒向遺跡で九州の人の流入がないことの反論として、北九州では庄内式土器が見られ、畿内から九州への人の移動がみられるという指摘もある。纏向に九州以外の地方から来た人々はその建設にあたったと考えられるが、九州に入った近畿の人々の目的はなんだったのか。それは以下の論文に参照された内容をみれば推測できる。九州に前方後円墳を造りにきたのだ。 
 したがって、九州と近畿が交流を閉ざしていた時期と、近畿から人が九州に入った時期は違う。近畿からの流入があった時期に、九州が大和のネットワークに組み込まれたことをしめしている。

佐々木憲一2010「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」p.254
『 この古墳出現前後の時期,各地独特の土器が移動することが知られている。従来この現象は,その古墳出現と何らかの関係があるように理解されてきた。例えば岩崎卓也(1984)は,外来系土器が質・量ともに多い地域と古式前方後円墳の分布に「ある種の相関関係が存在した可能性」を認める。
 また井上裕弘(1991)も,北部九州において古墳出現前後に畿内系の土器が流入する地域に出現期の古墳が存在することを指摘し,弥生後期以来の伝統的でない四本柱の住居の出現と考え併せ,古墳を創出したヤマト勢力の動向を背景の一つに挙げている。』

@katumoku10
 @buluemoon2008  さん おっしゃるとおり北部九州に畿内の庄内土器が見られるのは卑弥呼の死後の古墳時代初頭からなのです。考古学的に畿内の勢力が北部九州の倭国を倒して、ヤマト王権が成立したことを示しています。二世紀末の倭国大乱と三世紀後半の建国の戦いの痕跡を発見しています。よろしければ「刮目天の古代史 鉄鏃・銅族の出土状況のデータ共有」をご参照ください!これによって卑弥呼の正体が玄界灘を支配していた縄文海人ムナカタ族の姫巫女(和邇氏の祖)宗像女神市杵島姫であったことが推理できます。
最も大事なことは、記紀が天皇の歴史書ではなく勝者藤原氏の歴史書だったことに気付けば、様々な謎が解けてきます。
乱暴者の神スサノヲが高天原から追放された神話は、一〇七年に後漢安帝に朝貢した倭国王帥升(正しくは奴国宮廷楽師 師升)に宋史王年代紀第十八代奴国王スサノヲが殺されて倭国を乗っ取られた史実を誤魔化すために作られた話だったのです。ここからイモずる式に謎が解けてきます。詳しくは「刮目天の古代史 王年代紀は記紀神話を正した」をご参照ください。

@buluemoon2008
『また纒向遺跡からは、西部瀬戸内沿岸地域から北陸・東海に及ぶ広範囲の古式土師器が出土する。』この地域が、古墳時代の東アジアからの渡来人の血が濃い地方(古墳人)と重なることに、気づいてしまいました。この時の渡来人は中国を出て真東に向かい、黒潮に乗って日本の太平洋側に着いたのでしょう。紀湊から紀路を通れば纏向地域へは一直線です。

@yamataikoku4in8miyazaki7zaki
 @kei.suzuki  
征服されたら連続性がなくなるんですか?

@yamataikoku4in8miyazaki7zaki
 @katumoku10  
「考古学的に畿内の勢力が北部九州の倭国を倒して、ヤマト王権が成立したことを示しています」
考古学的というか、遺跡ではそんな事は判りません
あなたがそう解釈しただけです

@kei.suzuki
 @yamataikoku4in8miyazaki7zaki  

そんな事書いてませんけど?

@katumoku10
 @yamataikoku4in8miyazaki7zaki  
3世紀前半の卑弥呼の時代の纏向遺跡から九州の土器が見られないのです。纏向遺跡で行われた石塚古墳などの初期前方後円墳での重要な祭祀に北部九州の倭国の人が参加していないのです。敵対していた勢力だと分かります。
そして、卑弥呼は倭国の女王とされていたとありますから、北部九州で畿内の庄内土器が見られるのは、卑弥呼の死後に纏向遺跡の勢力がやって来た証拠でしょう。3世紀末ごろに纏向遺跡でヤマト王権が成立しており、その頃つまり3世紀後半に鉄鏃・銅鏃の出土状況から戦乱の痕跡が見られます(詳細は「【検証19】日本建国のための戦いだ!」参照)。日本書紀の崇神天皇紀の四道将軍と景行天皇紀の九州遠征そして日本武尊の東国遠征などのルート上にそれらの痕跡が見つかっているのです。ですから、日本書紀の四道将軍から景行天皇紀の遠征までの約150年の話は史実を引き延ばして創作したものだと分かります。この内容がヤマト王権成立前夜に実際に起こった史実だと分かるのです。詳しい話は「鉄鏃・銅族の出土状況のデータ共有」を参照してください。


@katumoku10
 @buluemoon2008  さん 纏向遺跡の外来土器で、西部瀬戸内沿岸地域のものとされたのは、実は東瀬戸内地域、つまり阿波・讃岐の間違いだったことが、石野博信「大和・纏向[第三版]」学生社2011,pp.468-470にあります。西瀬戸内の人々は3世紀の纏向遺跡には来ていません。それから阿波・讃岐の人々も230年くらいまでは纏向遺跡に来ていたのですが、それ以降は纏向遺跡に来ていないようです。纏向遺跡の勢力(旧奴国=狗奴国)を見限って、楽浪・帯方郡や半島との交易を行っていた卑弥呼の倭国に出入りしているのだと思いますよ(^_-)-☆



王年代紀は記紀神話を正した!(^_-)-☆

 

ヤマト王権の成立過程と主要な人物の系譜については以下の図のとおり推理している。

 

 

 

最後まで読んでいただき、感謝します。
通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)

初めての方は「【刮目天の古代史】古代史を推理する(^_-)-☆」に基本的な考え方を説明していますので、是非ご参照ください!

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