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【邪馬台国問題】魏志倭人伝にヒントが?(#^.^#)

2024-11-02 00:05:55 | 古代史

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宇佐市安心院町宮ノ原遺跡にある「三柱山古墳」が卑弥呼の墓の候補です。宮ノ原遺跡は南側に流れる深見川の河岸が高さ10m以上の崖になっており、卑弥呼の宮室と考えられる三女神社の西側にV字溝があり、多分城柵が造られています。溝から銅鏃が一個見つかっています。


地元では安心院盆地を挟んで南側の妻垣神社一柱謄宮という卑弥呼の墓の伝承やさらに宇佐神宮本殿下の亀山という話もありますが、それらは後の時代に三柱山古墳から遷されたと考えています(詳細は「宇佐は記紀が隠した秘密が満載だ」参照)。

また、墓の横の地名が血野とあり(最近「知野」に変更された)、奴婢百余名を惨殺した場所と推定できます(地元では戦国時代に若殿が惨殺されたという伝承になっていますが、卑弥呼の死後の地名だと推理しています)。

また、墓の南約400mの河原に墓の遥拝所と考えられる三女神社と同名の神社があり、三女神の石塔が墓に正対しています。地名が日食を連想する「ヒカケ」となっています。摂社が卑弥呼の祖父と推理した出雲国風土記の国引き神話の八束水臣津野神(略して八束命)と八束命の孫大国主(卑弥呼のいとこ)を祀っています(詳細は「卑弥呼の墓は見つかってるよ!」参照)。

日本書紀ではスサノヲの娘の三女神が降臨した場所が葦原中国の宇佐嶋とされています。そして筑紫の水沼君(みぬまのきみ)が奉斎しているとあり、福岡県三潴郡の豪族ですが、久留米市大善寺町にある権現塚古墳から卑弥呼の同族のムナカタ族の大型円墳になっていますので水沼氏はムナカタ族と考えています(墳丘は径55メートルの2重の濠を巡らせた円墳で、外堤の直径は約150メートル。5世紀ごろ築造の御塚古墳は帆立貝式前方後円墳で全長125メートルの三重の周濠がめぐっていますが、帆立貝式はムナカタ族の大型円墳から派生したものです。4世紀の富雄丸山古墳も造り出しのある円墳ですので卑弥呼が祖である和邇氏のものです)

 

 

宮ノ原遺跡に卑弥呼の父赤坂比古とのものと推定した奥城古墳(直径約120mの円墳、現在ブドウ園の展望台)があり、さらに大平古墳があり、三角縁神獣鏡の破片が出土しているのでヤマト政権側の水沼氏のものと推定しています(詳細は「【刮目天の古代史】卑弥呼の謎」参照)。卑弥呼の居た三柱山台地はブドウ栽培に適した温暖な土地です(詳細は「邪馬台国は今、ブドウ園?」参照)。

邪馬台国の長官らが居住したのは宇佐神宮周辺の集落と考えています。古荘英雄氏は吉野ヶ里遺跡と同程度の60ヘクタールの環濠集落だったとされています(YouTube「邪馬台国と宇佐神宮ー邪馬台国宇佐説の風景~宇佐は吉野ヶ里遺跡を凌駕する弥生環濠集落だった~地図をなぞって日本古代史を考える」参照)。

邪馬台はヤマ国に住む女王という意味なので、安心院町(和名抄の野麻郷)の宮ノ原遺跡を中心として、豊前地方(中津市)あたりから豊後地方(別府市・大分市、更には大野川流域の鍛冶集落群)まで合わせた地域全体が邪馬台国と考えています。

なお、行程記事は漢字を読み書きできない倭人が魏の役人に教えたのを漢字にされたというのが通説になっていますが、当時の倭国王などや大夫クラスは華僑らと接触していますので漢字の読み書きはできたと考えられます。そして范曄後漢書に倭面土国師升の記事がありますが、王が居た場所は伊都国と考えられますので面は回の俗字の誤写と見た白鳥庫吉説が正しいようです。そうすると、回土(うぃと)国を伊都国という深い意味のある国名を書いて教えた人物が分かります。本当の倭国王難升米だったのです。帯方郡太守劉夏の上司で魏の実力者司馬懿の功績を曹魏第一等のものにするために景初三年六月から上洛するまで約半年間難升米は帯方郡に滞在し、司馬懿の指示で劉夏と談合し、邪馬台国への行程を過大にし、九州上陸地点から方角も東を南に変更したと推理しています。これによって水行・陸行の謎は解けました(詳細は「伊都国の意味がヒントだった?」「投馬国へ水行してみませんか?」参照)。

 

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初めての方は「【刮目天の古代史】古代史を推理する(^_-)-☆」に基本的な考え方を説明していますので、是非ご参照ください!
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