人は、考える葦である。天は自ら助けるものを助ける。

戦後の混乱から立ち上がり、文化的平和な国に成長した日本が、近頃反対の方向を向き始めた。偉人の言葉を考え直して見たい。

人は考える葦であるー第3章 いじめと思慮深さ

2018-04-03 15:12:51 | 随筆
 人は誰でも自分が望む幸せな人生を送りたいと思っている。だから、他人の幸せにも介入することは許されないし、他人を不幸にすることはそれ以上に許されない。この当然なことを、憲法が保障していることを国民は全員知っているのだろうか。知っていれば、人を傷つけたり、いじめたりすることは悪いと当たり前に思うはずなのに、なんでいじめが絶えないのか。憲法を持ち出さなくとも、人は大人になる過程で常識となっている。
 ところが、いじめが一生続きかねないのである。セクハラ、パワハラ、マタハラ・・・という外来語に変えて時代と共に増えて来ている。それは、他人に対して訳もなくいじめる人が絶えないということになる。勿論人は一人では生きられず、幸せを求めても色々な社会の規制を守らないといけない窮屈さは感じるかもしれない。窮屈というより、大勢の人が心地よく一緒に暮らすためには秩序を保つ上で規制が存在するのだ。
 家庭の愛情に包まれて育った後に、社会の荒波を乗り越えなければならなくなる。自分とは違う考えの人たちが大勢いることを知り、それにどのように対処したらいいか、異なった価値観にどう向き合ったらいいかを考えさせられる。親に注意深く善悪の区別を教えられた子供は
それを基準に考えて行動するに違いない。短絡的に叱られた子供は、すぐさま、暴力で相手を負かしたり、汚い言葉でののしったりするかもしれない。だから、考えの深い子供はどちらかと言えば暴力に弱く、とっさに汚い言葉に勝てる言葉に窮するかもしれない。言葉で返すことは、負けず嫌いが相手をやりこめる手段だから、同じに返すと、売り言葉に買い言葉でますますエスカレートし喧嘩になる。そこには、人としての姿はなく、動物の本能的争いになる。
 いじめは、一方的な場合が多いから、大人しい子、何か人と違っている子がターゲットになり、反抗しないまま苦しさ悔しさで我慢する。そんな時、自分がいじめられる理由はないと
敢然と反抗する勇気が欲しい。一人の力は弱いので、信頼できる友人をふだんから仲間にしておくとよい。又、危険を回避し助けを求めたり、大人に頼ることも考えに入れることが必要である。この冷静な判断力を子供のころから醸成することが大切なのだ。
 これは、公道での身の危険に対処することにもつながる。よく、無防備な子供を誘拐する事件が起きるが、一旦こういうことが起きると、全国的に出会う大人には用心することが徹底される。私は、沼の柵内で遊ぶ子供に注意しようと近づいたとき、「あんた不審者?」と言われびっくりしたことがある。こういう教育は如何なものか。通学路で「お早う」と声がけしたら、「あんた誰?」と逆襲されたこともある。子供なりに不審者かどうか五感を働かせて判断すする習慣が身についているとよい。(かつて、中学生に水飲み場を聞かれた小学生が、その子中学生にに殺された事件は、猟奇事件として痛ましく、忘れることはできない。これは常識を逸脱し予見は難しかった)
 「人を見たら泥棒と思え」と言われた時代があった。今は人のいない過疎地、裏通り、観光地の人込み等に通用すると思うけれど。人は色々な違った考えをするということをしっかり念頭に置き、どんな人か身の危険はないかという危機意識を持つのは良いが、すべてが悪者という先入観は思考の柔軟性を欠くようになる。スマホに夢中になって歩くのが、最近あたり迷惑危険だが、いじめ以前に自己中心な性格も増えてきているように思う。