人は、考える葦である。天は自ら助けるものを助ける。

戦後の混乱から立ち上がり、文化的平和な国に成長した日本が、近頃反対の方向を向き始めた。偉人の言葉を考え直して見たい。

遊びをせんとや生まれけんー4

2018-12-14 22:20:35 | 随筆
 子供が親の庇護の元にある時期を過ぎると、一人の人間としてのアイデンティティー「自我」に目覚めていきます。その頃の育て方も未来を決める大切な時期といえるのではないでしょうか。反抗することをやみくもに叱るとその芽は摘まれてしまいます。親がしつけのつもりで叱ったり感情のまま叱ったりすると、子供の意志表現の気持ち、自主性がつぶれ、ますます反抗の気持ちだけになり、信頼関係もなくなりかねません。その気持ちをくんで、反抗の理由を理解すれば、やさしく良い方向へ導くことができます。我がままだったら、我慢することを教えなければならないし、親の方が勘違いしていたら認めてあげるなどの方法があります。認めることをすれば、これからも自分の考えや希望していることを反抗という形でなく伝えることを覚えて行くことでしょう。善悪の区別判断を理解させる機会となり、まわりに気配りすることも次第にできるのではないでしょうか。とにかく子供だと思って短絡的にしつけず、本人の自主性を尊重し、冷静に考える基礎を教えて行く過程であると考えます。
 
 親に替わって孫を育てた祖父がその孫に殺されるという悲惨な事件が報じられました。その孫は、職についても長続きせず転々とした挙句、パチンコ狂になり金の工面に家の物を売ることもするという状態まで心が病んでしまったということです。祖父は、愛情深く育てたのでしょうが、大切な社会のルールを理解させることに力を入れなかったのでしょうか。我がままを通したことが、極端な非社会性の心を伸ばしてしまったのではないかと懸念されます。そんなに可愛がった祖父を金をくれないという理由で殺めたら、結果どうなるかの判断力がなかったに違いありません。つまり自分で考えて行動することが出来ず、気持ちの衝動つまり動物的な感情支配で動くことが優先されていたのではないでしょうか。パチンコすることが自分の喜びで、そのための手段として自分で働いて収入を得なければならないということを考えられない、よこしまな行動が当たり前になってしまったのです。
 祖父も、そんなになった孫に手を焼いていたのでしょうが、そこまで非人間的になった孫をどうしたらいいか悩んでいたことでしょう。だから、もっと小さい時に言いなりになる愛情ではなく、我慢ということが大切なことを教えなければならなかったと悔やまれます。幼稚園や小学校から集団生活に入り、親の愛情外でいろいろな軋轢を感じます。それこそが一生を左右する判断力の育成になるのですが、愛情だけでなくきちんと社会のルールを感じながら育てば、アイデンティティーと共に、社会性がのびて行くに違いありません。善悪の区別を知っていれば、相手が自分を攻撃する時も、相手の不法に気づき、負けずに対処したり、危険から身を守ることができると思います。学校で解決しなくても帰宅して親に話す習慣があれば親との信頼ある会話で自分の行動に自信がついて行くことと思います。読書に興味を持ち、更に価値観が育っていけば、社会性も拡がることでしょう。「鉄は赤いうちに打て」というのは意味が人間にも通用する諺です。親の躾でそれが醸成されていなくても、このような軋轢や交流によって身について行くことが、集団生活の有効性になるはずです。

 それが、社会に出て、自立しなければならない時に正しい判断力がないと、自分の意思通り即ち我儘を通し満足感を得ようとするようになり、社会からは浮いてしまうでしょう。最悪、悪い仲間に入ったり、上記のように恩人でさえも手にかけてしまう悲惨な結果を生んでしまいます。楽しむには、しっかりした社会のルールを守るという裏打ちが必要なことを理解しなければ一人前にはなりません。 

遊びをせんとや生まれけんー3

2018-12-02 22:09:53 | 随筆
pert 3 

全く親の保護にある間は、親の気配りにより子供に遊びを考え楽しむことを教えていきます。というか遊ばせながら楽しさ嬉しさの経験を積み重ねます。すぐに海外までその範囲が広がる家庭もあるでしょうが、環境によって経済の差が生じ、すべてが満足できる経験ができるとは限りませんん。只、親の子育ての考え方や愛情が、子供の性格や思考に影響を与えるので、就学するまでは、ゆったりと愛情に包まれた環境を持たせ楽しませることが親の責任となります。或いは、叱って子供を育てている中に、親の間違った考えや、逆効果の内容がなきにしもあらずで、親が冷静に喜ばせるかどうかで子供がどのくらい楽しめるかどうかが決まります。
 就学期に入ると、それまでの親の価値観が通用するかどうか、誰でもが当然と思う公共性で共同生活になじめるかが問われます。間違った価値観で周りの子供に嫌われると、子供も迷うことになりますし、いじめの的になる恐れもあります。そこに、学校生活の楽しさ、友達と遊ぶ嬉しさが生まれなければ登校は長続きしないかもしれません。又あまり大切にされて、子供第1に育った場合でも、周りの友達から浮いて仕舞いかねません。暴力の多かった家では、やはり思い通りにならないと暴力が出る恐れがあります。お互いに思いやりながら仲良くし、スムースにスタートすることは、楽しさ嬉しさ心地良さに繋がります。この雰囲気が、人生のスタートでの「遊び心」の始まりになるのではないでしょうか。
 もし、喧嘩が起きた時は、落ち着いてお互いの行動を見なおさせ、話し合うことで解決させるよう指導者が冷静に対処すれば、暴力の防止につながり、冷静な行動が子供のそのあとの行動に良い効果をもたらすと考えられます。どちらに加担すると言うのでなく、両方納得する解決をしてやると、しこりは残らないし、お互いを思いやる習慣も生まれる可能性があります。
 学校が進み、部活の厳しい訓練の中、激しく叱責して指導をするのは、生徒にとって自尊心を傷つけられる原因となり、効果は期待できません。少しの向上を褒め、ミスは自ら反省する方向に向けてやれば、次回の向上心につながると予想され、気分良く練習を積み重ねると、友人との共同にも喜びを感じるでしょう。次の練習にも意欲が湧いてくるかも知れないのです。子供が無心に遊び喜んでいたように、部活などの厳しい訓練も、和気あいあいと進められれば、落ちこぼれがちの子にも、できないという劣等感より、友といる楽しさが味わえるようになるのではないでしょうか。
 大声で指導する時も、怒気を含んでいるか、励ましてくれているかは、指導される生徒には区別できることでしょう。楽しさを増すためには、愛情のある声か怒りの声は判別できると思います。遊びをせんとや・・・は、生きることに楽しさや、喜びを感じることを求めているのです。家庭にあっても学校にあっても社会に出ても、心地よい生活が望ましい。また自分からそれを作り上げ、日常の生活に取り入れることをすれば、一生も実りあるものになるかも知れません。もし苦しさ、悲しさが降りかかった時は、何とか自分の努力で抜け出すことを考え、決して負けないことを決心する。そのためにどんな助けが必要かを考え、自分だけで解決できない時は周りの人に協力してもらっても抜け出すことを考えるべきです。一人で苦しむことは良い結果に繋がりません。