人は、考える葦である。天は自ら助けるものを助ける。

戦後の混乱から立ち上がり、文化的平和な国に成長した日本が、近頃反対の方向を向き始めた。偉人の言葉を考え直して見たい。

人は考える葦であるー第五章 アラカルト  稚拙

2019-05-17 20:25:55 | 随筆
 私のテーマにぴったりの情報が入りました。この度の議員さんの失言です。政治家の失言は大臣を筆頭に事欠かない状態で、改めて某党から公表された発言についての心得も甘いと評されています。

 この度の失言は、同じ野党議員から、こんな議員がいたのかと失笑を買った稚拙な発言です。稚拙は英語ではPoor,Childish と訳されます。こんな発言を東大出身の若い議員さんが何故したのか。学のある人と思われている人が、なぜしたのか。それは、もともと、思慮深い人ではなかったからです。学歴の高い人即ち思慮深い人とは限りません。むしろ思慮深い人は、軽率に思いつきで発言しません。

 北方領土問題に関係する役職に就いていたために、議員さんは北方領土を訪問することができました。しかし本人は、そのことに関して、たくさん知識を持っていると自負なさっていたのでしょう。ふだん自論を交換している時と同じ気持ちで話し合いの中に入ったものと思われます。そして、誰もが想像もつかない戦争による返還と突然相手に切り出しました。自分はそう思っていたとしても、だれも夢にもそんな発想がなかった場所で唐突に言い出し、しかもいつもの癖で(よく噛みついていたと公開された)次々とたたみかけてしまったのです。ここが、思慮の浅い所で、戦争という言葉は子供の戦争ごっことは違う重要なことばであることを失念していたのと、まわりの人たちが、自分の考えや普段の態度を知らない他人であったことを自覚しなかったのが原因と言えるのではないでしょうか。

 この瞬間的なできごとは、国際的な場所だったことや、微妙な返還問題の渦の中にあるいわば、もっと神経を引き締めてする話し合いの場なのに、その重要さを顧みず、自分のいつもの討論癖で問題提起をしたものと思われます。この癖はでも、今に始まったことではないのではないでしょうか。議論好きのおぼっちゃまで育ち、まわりの人の意見をじっくり聞く、聞いた後で自分の考えを理解してもらう言葉を選ぶという冷静さが不足していたのではないでしょうか。それまで出会ってきた人の中でそれを忠告した人はいなかったのでしょうか。自論が正しいと思いこむと、それにこだわり、たたみかけたり、噛みついたりするようになると正しい議論は成立しません。そういうところは、アメリカの教育は徹底していると聞いたことがありますが、最近はそれにもクエッション・マークがつきそうですが。

 ご本人は、議員を止めるほどのことではないと思っていらっしゃるようですが、舌禍はそう甘いものでないことを、諸先輩がどんなに沢山名誉を失ったかを反省して欲しいと思います。稚拙な誤りも、世界を股に駆け巡るのですから、自論ももっと理解されやすく誤解されないように熟慮しなければならないのではないでしょうか。かくいう私もまだまだ稚拙かもしれません。

人は考える葦である 第五章ーアラカルト  令和元年

2019-05-02 17:26:40 | 随筆
 こんなにも華々しい改元があったでしょうか!

 私は、昭和一桁の天皇と同じ学年を過ごしてきたので、二度目の改元を経験しましたが、今回は天皇の譲位を希望されての生前改元だったために、長い歴史上異なる状況になりました。
 昭和天皇が健康を害され、日に日に重篤化して行った昭和63年、水面下では、着々と改元の準備がなされていたのでした。私も丁度その時55歳で職を辞する心づもりで事務手続きを始めていました。所が、年明けて天皇が崩御されるや、目にもとまらぬ速さで諸手続きが進んでいたのでした。ですから、あの時の皇族方が喪服で参列なさっていた映像が放映され、30年前がまざまざと蘇ってきたのでした。ですから、今度のように外国の観光客もお祭り騒ぎに驚くほど喜び一色になるのは、天皇制の事情よる違いということになります。ちなみに、新天皇は59歳で天皇になられましたが、上皇は55歳でした。

 上皇は、天皇になってから憲法の象徴について深く考えられ、沢山の足跡を残されました。そこには上皇妃の並々ならぬ努力も忘れることはできません。皇太子妃を選ぶ時、上皇は、自分が特殊な環境での人格故に、国民の環境をよりよく理解させてくれる人を希望されたと伺いました。その気持ちを完全に成し遂げるために最大のパワーとなったのが、上皇妃だったと思います。美智子様は、特に災害地を訪れた時に、何のためらいもなく被災者の心に寄り添い、親身になって見舞われました。それらは、上皇の気持ちに大いに役立ったと思います。海外に於いても、その国の人の共感を得る深い人類愛が日本国の印象に良い効果をもたらしていると感じました。ご成婚前後の沢山の逆風に負けない大きな力で60年お勤めを果たされました。

 昭和天皇の御遺言とはいえ、戦後70余年まで旧戦地に赴いたのは、日本国の象徴とはいっても偉大な
業績だったと思います。国の手の及ばぬところをくまなくお出で頂き、戦前日本国が及ぼした沢山の迷惑に詫びつつ慰霊をなさったのではないでしょうか。

 一方私は、3月で退職し、ボランティアの道に入りました。地元地域社会の活動は、若林区と泉区とで
老人のお世話、事業のお手伝いなどを致しました。そこで出会う方は、ボランティアをする側、される側と実に多くの方々から学びの機会を頂きました。日本語教師としては、外国の方からそのお人柄は勿論、お料理、コンサートのチャンスを頂いたことを忘れることはできません。ボランティアも30年過ぎましたが健康な限り続けたいと願っています。

 30年の間に社会的には、仙台市が、4月から11番目の政令都市となったこと、海外ではベルリンの壁が崩壊したり、天安門事件が起きたり、米ソ冷戦の終結などがありました。しかし、その後も海外では戦争が絶えず、自衛隊の活動にも心を痛めたことがありました。ですから、日本が戦争に関わらずに終わったことは、島国の中にいる日本人は当たり前のように思っているけれども、上皇の仰ることは本当に本当に重いことであるとこれからも続けるべきことであると思うべきではないでしょうか。