人は、考える葦である。天は自ら助けるものを助ける。

戦後の混乱から立ち上がり、文化的平和な国に成長した日本が、近頃反対の方向を向き始めた。偉人の言葉を考え直して見たい。

人は考える葦である 第四章 考えることー言論の自由

2018-09-26 21:25:34 | 随筆
 最近の午後のテレビで一連の話題を作った「単独記者会見」初めはアメフトの選手、次は体操の選手そして最新は相撲の貴乃花。この形式はパワハラを受けた被害者が、突然社会全体に訴える会見で、不当なことへの解決法として取られた。番組では国民に代わってコメンテーターが意見を述べ、パワハラを解決することに役立った。前者は若い年代で周りも度肝をぬかれたと思うが、貴乃花は指導者側として、受けたと感じるパワハラを訴えた。
 日本は、本当に言論の自由が保障されているとこれらの報道を見て感じる。近隣にその自由のない国があるから尚感じるが、それでもやや危うい法律も作られている。ともかく前の2件は日本の現状の常識的方向に向かったことは、喜ばしいことだったが、今度の指導者側からの訴えは、大人同士のことであり、こういう結果を招く前にお互いの意思の疎通が図られなかったことが、誰の目にも明らかである。暗中模索、疑心暗鬼という雰囲気が強く感じられ、ここにも大人としての思慮深さ不足が感じられる。人は一旦意見が合わないと、まるで敵味方の関係になったかのごとく尾を引く部類が存在するようだが、その考えが差別の地盤となるのである。スポーツの選手は、国際試合の前に練習試合で交流し、良い友人関係になることが多いそうである。かなり昔、スキーの舟木選手がそう言ったのが忘れられないし、オリンピックや世界選手権で、勝敗の後でもお互いの健闘を讃えている場面を見て感動することがある。人種、年齢等を超えて友人となることは、差別の壁を作らない基本である。
 ましてや、同じ言語を持つ人同士が共通の問題を解決することを考えないのは、そういう広い考えの持ち主ではないということである。疑心暗鬼のまま一生を左右する決断をするべきではない。小中校の子供が、がんぜない考えのままいじめに耐えかね自殺を考えるのに近い。有形無形の圧力があった時点で世に問うことも出来た筈だ。それをそのままにして敗北の道を選ぶのは如何なものか。弟子たちが大切に思うのだったら尚、そのために正しい方法で解決する道を選択するべきである。正義は常に勝つとは限らない世の中だけれど、やはりテレビの公開は手っ取り早い解決になる。言論の自由を手助けしてくれる。
 

人は考える葦であるー第4章 考えること 

2018-09-06 22:21:56 | 随筆
 今まで「考えること」について書いて来たけれど、もう一度、考えることを掘り下げるためにスタートに戻って述べて行きたい。
 パート1で、私の書く意図を簡単に述べたが、今も尚、考えの深さが感じられない時代が止まらないように感じる。人の人としての尊厳ともいうべき思考力が理由もわからず衰えて行くのだろうか。それとも科学の発達に伴って、人類は、人間としての役割を終わらせようとしているのだろうか。

 地球が生まれた時から、想像できない年数を経て現在に至り、動物と植物とその存続のための物質によって満たされているけれど、人は、その持つ言葉や才能で、地球に必要でないものまで創造し、便利か独占か意図は解からないが進歩に進歩を重ねて突き進んでいる。そのうちのトップの位置にあるものが戦い或いは競争の道具になっているのではあるまいか。
 昔から、動物は、サバイバルのために戦う以上には争わないが、人はその動物を生きるために殺し、疑い深い同じ人間に対しても戦って来た。現在は沢山の人種、国が出来、言葉もそれぞれ違っていても、進歩は、その異なる民族の人同士が交流する手段を生み、それぞれの異なる文化、自然を楽しむ時代となった。世界大戦という大規模な戦いを経て、戦争の底知れぬ損失と愚かさを知ってから、人は本当の人の基本的な理念の元に、多種民族で平和を満喫することが可能になったのではなかったか。
 お互いにお互いの利益、平和を完全に共有することは不可能で、そこに国同士のボタンの掛け違いはあるけれど、人の持っているベストを尽くして少しずつ可能にする努力はできる筈だ。しかし
戦争はどこかで起こり、どこかで平和を享受できずに命を落とす人々が出ていたことを、部外者である国の人々は、どう見ていたのだろうか。そして現代の今、正常な思考では理解できない戦いが世界の一部で続いている。

 そもそも人間の思考は、神に近い所から、動物に近いところまで広範囲に存在すると思う。歴史上でも長く尊敬される偉人と言われる人は、神に近い崇高な考えの持ち主だったのではないだろうか。そういう人を偉人伝に残し、後世の人の生きる指針として来た。それは、どこの国でも同じだろうと考えられ、文化の先進後進を問わず偉大な人を輩出した可能性は大きい。反対に、そういう人格者とは裏腹に、動物のサバイバルに似た考えの人も存在した時代もあり、特に国の政治を司るトップの人物にそういう人が出ると、国民の幸福は保障されなくなる。世界遺産やその他の遺産として残る先人の足跡は、価値の高いものだが、それらの価値も念頭になく破壊されても戦うことを優先する。自分の利益のために国税を費やそうという考えがおよそ人間とは思われない。戦争は、国家と言う政治家のトップが左右する刹那的な争いである。

 人も動物も、生まれてしばらくの幼少時代は、何のわだかまりもないきれいな目をし、天使のような可愛いい仕草で大人をとりこにする。成長するまでは、思考力も備わっていないから、善悪の区別も知らず大人の庇護のもとに成長する。そして成長するに従って人は色々な情報を取り入れて人格を形成して行く。長い人生の大切な思考力を醸成していく過程で、人としてあるべき生き方を模索しながら動物に近くなるか神に近い人格を持つかが決まって行く。生まれつき悪人である人はいないという性善説があるが、人は想像できない悪事も平気でできる例を過去に持っている。
 その中の最も大きい悪が、国を挙げての戦いである。他国との協調に自信がないのか軍備に沢山の費用を掛けようとする。それが、各国の競争にエスカレートするから国民の不幸もエスカレートする。自然災害で、最低の生活を一瞬の間に失うことが多いのに、どうして軍備にうつつをぬかすのだろうか。それが、国民を守ることだと考えているのだろうか。さらに、国の間違った権力を国民に替わって抑制する憲法を、戦争可能に変えようとする動きも出てきて、世界の軍備競争に参加しようとする。災害で、命だけ助かった人への国からの補償は十分だろうか。被災者は、元の正常な生活水準を回復できただろうか。こういうことは、いくら偉い国家の指導者でもイの一番ファーストに考慮するべきである。国の隅が不幸な人々で占められていたらそれこそ恥である。自然災害は待ったなしに起きている。

 頭の思考の動物に近い考えか、神に近い考えかいつも自省するとよい。人は、力を尽くせば神の力が働く。これは、普通の人でも経験していることではないだろうか。神通力という言葉もあった。日本は、ボランティアの歴史が短いので、その位置が低く見られる傾向がある。予算を節約する手段に丁度よいといった姑息な考えでボランティアを頼む場合もある。しかし、ボランティアはただ働きの使用人と見られては困る。それこそ人間の尊厳を見せる心意気でやっている人が多い。過日、行方不明になった幼児を、沢山の捜索員を尻目に短時間でさがしてしまった79歳の男性は、純粋にその使命に携わっている人格者であると思う。そしてそこに神の加護がある。命の危険も考えられるほどの日数を経て救助できたのも国民の感動を誘った。ここは、誰もが他人同士の小さな地域で、ファイティングポーズを持つ人は誰ひとりいない、小さな命を救おうという大きな目的で動いていた男児ファーストの集まりだったのだ。

 世界の国々の軍備は、各国のファイティングポーズである。その考えは、人として必要な考えだろうか。国民全員の望む考えだろうか。お互いに話し合いが進み、歩み寄って来ているように見えても一方で身勝手な利益のための行動をさせている国もある。他国の迷惑を考えずに国益を図る考えは、人間の持つ恥じない考えといえるだろうか。国のトップといえども、動物に近いかどうか判断できる。ただ、裸の王様のように、周りの側近が盲目的にイエスマンになっていると、中庸な正しい考えになるかどうか疑問である。日本の戦争時代を思い出すと、その大きな見本として恐ろしい気分が蘇って来るのである。