人は、考える葦である。天は自ら助けるものを助ける。

戦後の混乱から立ち上がり、文化的平和な国に成長した日本が、近頃反対の方向を向き始めた。偉人の言葉を考え直して見たい。

人は考える葦である  第6章  戦後の洪水

2019-10-15 21:28:52 | 随筆
 私の生まれたところは、広瀬川と愛宕山(愛宕神社が建っている)の間の風致地区でした。広瀬川まで広い野原と道路があり、川岸に家も建っていました。川は、川上の南側が崖のところで蛇行し平地の所で東へ流れて行きます。向かいも高い崖で下水道の大きな排水口がありました。

 第2次大戦が終わって国民が復興に進んでいた頃、立て続けに台風が来ました。アメリカの統治下だったので、台風は、アイオン、キャサリン、キティ等という名で呼ばれました。広瀬川の濁流は、蛇行しているところから蛇行をせずまっすぐに平地を流れました。広かった河原、野原もろとも家々が川中となったのです。向かいは高い崖の上に町がありますから、心配ありません。家族は一生懸命家財道具を二階へ運びながら下を流れる川に怯えていました。風呂桶や木材、樹木などが流されて来ました。何回目かの時、川岸の家が流されました。次の朝、昨日とは全く違った風景を見て血の気が引いたのを思い出します。近くの愛宕橋は、橋げたが見えなくなるくらい濁流が洗ってとても恐ろしかったのですがその頃は避難とか気象情報などということは何もありませんでした。次の日から畳を上げ、床板をはがして泥をかき出す作業をやりました。今回と比べれば、個人個人の作業で済んでいました。

 近くに飛び込み台付きの立派な市営プールがあり、兄達は泳いでいたようですが、私は一度も入ったことはありませんでした。これも、洪水以来、営業はしなかったような気がします。その後私の家は、堤防を作るために転居を余儀なくされました。その堤防も何回か改造され、今は今回の台風に耐える立派な堤防になりました。広瀬川は、市街の中の川として城下町のシンボルとなっていますが、今回のように沢山の町の方々が未曾有の損害を受けられたことに心からお見舞い申し上げます。今まで通り、自然の美を醸し出す河川、人の生活を潤す河川に戻ることを祈ってやみません。

 私の中高生時代の思い出で、ラジオしか広報手段のない頃のことですから、他の都市がどうだったか等は思い出せません。只、昔のこのような風景は少なかったような気がしています。戦後で、新しい街並みが出来つつあったころですから、今度のこの大規模な洪水に遭われた街の復興対策は、市民の方々の心のケアと共に、最新テクノロジーを駆使して進むことを心から願うのみです。

1 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
災害多発将来を心配 (msato)
2019-10-22 13:17:18
愛宕にお住まいだったとはお聞きしてましたが、たいへん
なご経験をされていたのですね。
 水害は怖いです、津波などと同じくらい危険です。最近の大きな被害の台風などはその原因に今迄騒がれた地球温暖化現象が影響していると思われ今後温暖化がますます進展すれば、かってなかったような大災害に見舞われるのではと恐怖を感じるのは私だけでしょうか。
 原子力発電の代替として石炭石油などに頼った結果大気中にCO2が放出され温暖化を加速させていると思います。原子力発電所の事故は絶対に起こしてならないと思いますが、100%の絶対安全を追求する為、その代償として温暖化がいまだかってない豪雨や超ド級の台風を発生させるとしたら、万全な対策を講じる事が可能な選択も可かなと思います。
 災害は嫌ですね私の持論を申しあげましてすみません。
返信する

コメントを投稿