前項に書いた男女平等の中で、人権について申し上げました。憲法で保障しているものなのに、なかなか理解されない事項です。普通の会合で簡単に話題になるものでもありません。しかし、最も身近な基本的なことと言わざるを得ません。
最近いじめやハラスメント、殺人、そこまでいかなくても、冷淡にされた、協力する人がいないなど人間関係がぎくしゃくしてきているということが言われています。つまり、他人のことより自分が一番大切という考えが強くなって来ているようです。勿論自分を大切にするのは基本ですが、四六時中、それが占めていると人間関係が成り立たなくなるのではないでしょうか。それに人は元々、人の為に役立ちたいという本能があります。そしてそれが達成されたとときは、大きな喜びとなって帰ってきます。そこに動物とは違う充実感という喜びがあります。それを利用した制度がボランティアですが、これは、本人の願望で始めるものなので、それぞれ喜びが違います。町内会の決まった行事で一斉にする清掃などを強制されると「何でやらなくちゃないんだ」という不満を抱く人もいるのです。
それは、考え方の違いが原因になっていると思いますが、一人一人の人間関係が希薄なために利害を優先して考えるつながりとなっているからです。親しい人、又は恋人同士などという相手にだったら、いくらでも親切心は生まれるでしょう。恩義のある人の為ならとサービスすることもあるでしょう。社会が一般の公共的な場になると、人の目を盗んでごみを捨てる人も出るのです。誰が片付けるの?誰が掃除するの?と疑問に思う所でそういうことが起きます。観光地では、人気の食べ歩きで道路を汚したり、近所迷惑な行動を取る人で社会問題になっています。それは、自分第一を超えたルールのわからない烏合の衆になっているからではないでしょうか。
昔、「旅の恥はかき捨て」という悪い言葉がありました。知らない土地では、身分が分からない分、勝手なことができるという諺です。それは、人の社会とは言えない不法地帯と同じで、人としてのルールをわきまえていれば、土地が変わっても、外国でも同じ態度を維持することができます。それでこそ、社会の一員として恥ずかしくない生き方になります。それが当たり前の社会が少なくなっているのでしょうか。
親しい仲でなくても相手と接する時は、年齢の差、男女差、服装の差等に拘わらず、一人の人として失礼のない態度で接することが大切ではないでしょうか。相手を見たとたん女か、とか子供かなどと自分が上位であることを意識したり軽蔑の気持ちを持ったりすると、それが態度に現れ、不愉快な気持ちを持たれます。政治家の発言でも、直ちに報道されるのが分かっていても、上から目線が分かる言い方をしてひんしゅくを買っています。本当に偉い人は、意識しなくても、態度に人格の高邁さを醸し出しているものですが、今の名のある人々はどうでしょうか。誰とでも、相手を大切にする言葉で話す人は、その人の持っている品格が滲み出てくるものではないでしょうか。
今は、国のトップが色々な方法でコメントを出したり、記者会見などで話していますが、世界を巡るニュースにのるので、人格や性格がとかく批判の的になっています。又、国会のような、代表的な討論の場でも人間性を疑うような感情的な発言も見られます。正常な討論の場で、言葉として疑問を持たれるような使い方は、聞く方も落胆させられます。相手の意見を理解した上で、感情に走らず的を得た正確な討議をして欲しいと思いますし、それが一人一人を大切にする人間関係の構築ではないかと考えます。思いやりとか
寄り添うとかいい表現がありますが、それはすべて、人同士どこでもあり得ることが平等の実現と思います。国のトップの発言は、その国の考えと解釈されますから、不穏にもなり希望的観測にもなります。利害が優先する国際関係ですが、後進国を援助する大きな寛容性でこの地球を安泰にして欲しいと望まずにはいられません。
読者の皆様には、目を通して頂きありがとうございます。稚拙な文とは思いますが、コメントもよろしくお願い申し上げます。
最近いじめやハラスメント、殺人、そこまでいかなくても、冷淡にされた、協力する人がいないなど人間関係がぎくしゃくしてきているということが言われています。つまり、他人のことより自分が一番大切という考えが強くなって来ているようです。勿論自分を大切にするのは基本ですが、四六時中、それが占めていると人間関係が成り立たなくなるのではないでしょうか。それに人は元々、人の為に役立ちたいという本能があります。そしてそれが達成されたとときは、大きな喜びとなって帰ってきます。そこに動物とは違う充実感という喜びがあります。それを利用した制度がボランティアですが、これは、本人の願望で始めるものなので、それぞれ喜びが違います。町内会の決まった行事で一斉にする清掃などを強制されると「何でやらなくちゃないんだ」という不満を抱く人もいるのです。
それは、考え方の違いが原因になっていると思いますが、一人一人の人間関係が希薄なために利害を優先して考えるつながりとなっているからです。親しい人、又は恋人同士などという相手にだったら、いくらでも親切心は生まれるでしょう。恩義のある人の為ならとサービスすることもあるでしょう。社会が一般の公共的な場になると、人の目を盗んでごみを捨てる人も出るのです。誰が片付けるの?誰が掃除するの?と疑問に思う所でそういうことが起きます。観光地では、人気の食べ歩きで道路を汚したり、近所迷惑な行動を取る人で社会問題になっています。それは、自分第一を超えたルールのわからない烏合の衆になっているからではないでしょうか。
昔、「旅の恥はかき捨て」という悪い言葉がありました。知らない土地では、身分が分からない分、勝手なことができるという諺です。それは、人の社会とは言えない不法地帯と同じで、人としてのルールをわきまえていれば、土地が変わっても、外国でも同じ態度を維持することができます。それでこそ、社会の一員として恥ずかしくない生き方になります。それが当たり前の社会が少なくなっているのでしょうか。
親しい仲でなくても相手と接する時は、年齢の差、男女差、服装の差等に拘わらず、一人の人として失礼のない態度で接することが大切ではないでしょうか。相手を見たとたん女か、とか子供かなどと自分が上位であることを意識したり軽蔑の気持ちを持ったりすると、それが態度に現れ、不愉快な気持ちを持たれます。政治家の発言でも、直ちに報道されるのが分かっていても、上から目線が分かる言い方をしてひんしゅくを買っています。本当に偉い人は、意識しなくても、態度に人格の高邁さを醸し出しているものですが、今の名のある人々はどうでしょうか。誰とでも、相手を大切にする言葉で話す人は、その人の持っている品格が滲み出てくるものではないでしょうか。
今は、国のトップが色々な方法でコメントを出したり、記者会見などで話していますが、世界を巡るニュースにのるので、人格や性格がとかく批判の的になっています。又、国会のような、代表的な討論の場でも人間性を疑うような感情的な発言も見られます。正常な討論の場で、言葉として疑問を持たれるような使い方は、聞く方も落胆させられます。相手の意見を理解した上で、感情に走らず的を得た正確な討議をして欲しいと思いますし、それが一人一人を大切にする人間関係の構築ではないかと考えます。思いやりとか
寄り添うとかいい表現がありますが、それはすべて、人同士どこでもあり得ることが平等の実現と思います。国のトップの発言は、その国の考えと解釈されますから、不穏にもなり希望的観測にもなります。利害が優先する国際関係ですが、後進国を援助する大きな寛容性でこの地球を安泰にして欲しいと望まずにはいられません。
読者の皆様には、目を通して頂きありがとうございます。稚拙な文とは思いますが、コメントもよろしくお願い申し上げます。