人は、考える葦である。天は自ら助けるものを助ける。

戦後の混乱から立ち上がり、文化的平和な国に成長した日本が、近頃反対の方向を向き始めた。偉人の言葉を考え直して見たい。

京の旅ー追想

2018-06-29 21:25:08 | 随筆
8月5日ー1

 二日目も妙心寺内の見学から始めました。最初は、一般観光コースの法堂(はっとう)で、八方にらみの竜と鐘を説明を伺いながら見ました。次に、本坊の中にある新築したばかりの微妙殿の中に入らせて頂きました。古い庫裏から替わった新しい厨房と大集会場、そこには、妙心寺派のすべての寺を展示している所がありました。遠くはアメリカにまでお寺があるのには驚かされました。新築にあたり各寺から寄付された金額が上位から順に書いてありましたが、瑞巌寺はもとより塩釜や宮城県内のお寺の名前が三つも上位を占めていました。古い庫裏は、大きなかまどが並んでいて、上にフードがついていました。さっき見た法堂は、僧たちの修行の場ですが、冬はどんなにか寒さが厳しいのではないかと思いを馳せたのでした。
 次の見学地は、妙心寺近辺の洛西方面でした。初めは金閣寺で、あの写真でしか見たことのない
金のお寺にとうとう来れたと感慨深く見あげました。栄華の名残がきれいに池に映えて目の前に開けました。池の周りを歩きながら、遠景、アップと写真に収めました。丁度手入れの時期かどうか、枝下ろしや池の中の藻を取る人々が出ていました。
 次は、石庭で有名な竜安寺へ行きました。ここも妙心寺派の禅寺だそうです。絵葉書で見ていた印象ではとても広々とした所だと思っていましたが、実際に入ってびっくり、普通のお寺ぐらいの佇まいでした。塀は中国風の古ぼけたところが歴史の古さを物語っているのでしょうか。これこそ正真正銘の昔の京都そのもので、その時代の人々が過ごした日々の面影でした。普通のお寺の廊下も三々五々観光客が座って瞑想に耽ったり、きれいな箒の目の模様を眺めたりする文化遺産なのです。我が家の庭の管理に悩んでいる俗人の私は、このように砂と石にしたら手間が省けるかなどと雑念が過ぎるのですが、実は、プロの念入りな管理が人々の羨望を持続させているのだろうと考えさせられました。
 昼近くなったので、嵯峨野のうどんやさん権太呂を探しました。狭い田舎道をやっとのことで探し当てたら、休業中の看板が出ていました。仙台ではとても考えられない野原の真ん中で、ちょっと小高い所にありましたが、まわりがあまりにも閑散とした感じを受けたので、長い休業かとさえ思われました。しかしそこから戻って嵯峨野付近の店を見たところ、皆休業日で、その日が、嵯峨野の定休日に当たっていたのだとわかりました。
 仙台のようなところでも、こんな道の細い田舎が観光地になっている所は見当たりません。嵯峨野と言う名そのものが全国的に知られている観光地で、昔の人が住んだままを残し続ける、それも、観光客に媚びることなくさりげなく残し続けているのです。そうでなければ、嵯峨野の嵯峨野らしさがなくなるのかも知れません。
 次は戻って大覚寺へ行きました。大覚寺は、宸殿、御影堂などの建物を次々に廻り、最後に大沢の池に出ました。観光客を受け入れているためか傷みが進んでいる感じがする木造の佇まいで、その中にも歴史上の貴重な遺品が陳列されていました。池には白鳥もいて、秋には、十五夜に観月の船が出るそうですが、昔の面影がそのまま残っている広い自然の池でした。 
 そこから化野(あだしの)の念仏寺へ行きました。ここも特に車の往き来があるわけでもない何気ない所に駐車場があって、そこから半信半疑で歩きながらやっと見つけるという具合なのです。普段は観光バスに乗り、ガイドさんの誘導になれて自主性に欠けているせいがあるかも知れません。化野というと地名から不気味な印象が感じられますが、果たして、無縁仏の石が一面に並んで香が立ち込めていました。ここでは、八月の二十三、四日に供養の燈明が全墓石の前に立つということです。昔、死者を風葬にした場所で、八千体の石塔石仏があるそうです。












「京の旅」 追想

2018-06-26 22:01:36 | 随筆
8月4日ー2

 次の見学地三十三間堂に行った時は、さっきのスコールがすっかり晴れあがっていました。三十三間堂前には、広々とした駐車場があり、駐車場探しの苦労をしないで済みました。このような空き地は、訪問者にとってとても嬉しく、どこでもこのような配慮が欲しいと思いますが、もともと
古い都市のために時代を超えて駐車場完備を求めるのは現代人の身勝手な考えかも知れません。
 ここ三十三間堂は、中央に大きい千手観音像を置き、その左右に千体の観音立像を整然と並べてあります。その合間に観音像の構造や千体のいきさつなどを説明しています。これは、修理とか出張(地方の博物館へ)等でいつも千体揃っているとは限らないようです。平安末期には仏像の数が多いほど救われるという信仰のもとに作られたということです。本堂の端から端まで通し矢の競技があったそうで、今に続いている歴史的な行事の1つに数えられています。
 回廊をまわると、後ろ側には又二十八部衆像が並んでいました。風神像や雷神像などです。それを見て進むと中央に「中野学校出身者戦没供養の祭壇」が、ひっそりと作られてありました。どうしてそこに作られてあるのかわかりませんでしたが、中野学校と言えば戦争中に活躍した将校を育成した学校であることは、子供の私も知ってました。自分の意思とは相反しても軍の厳しい命令の下、敵と戦わなければならなかった若い青年たちを供養していたのでした。生存者からのお供物清酒を見たら、ぐっと涙がこみ上げてきました。こらえてもこらえても涙は止まりませんでした。人に知られないようにそこを離れ、涙も拭かずに歩きました。ゆっくりゆっくり歩きました。
 あとで考えてみるとあの涙は、戦争で死んだ人々の怨念の涙ではなかったかと思いました。終戦記念日を待たずに、私は尊い命を失った人々に代わって悔し涙に暮れたのだと。彼等が私を介して悔悟の涙を流させたのだろうと思い至ったのです。私は幸い戦争の犠牲にもならず、隣まで焼失した戦火からも逃れ、自分の人生を生きながらえております。だから私は、戦争で不本意にも自分の人生を断たれた人のために、いくらでも涙を流したいと思いました。先祖の鎮まるところ京都に来て、このような供養ができたのは、思いもかけないことでしたけれど、又仏のお導きでもあったかも知れません。
 このあと清水寺へ行きました。有名な「清水の舞台」は、今は観光写真にあるほどの風情は感じられませんが、さっきの俄か雨のおかげで涼しく、すがすがしい思いをすることができました。二年坂の一番近いところに駐車でき、歩いている間も雨に遭わず、老母にとっては都合のよいことばかりでした。音羽の滝では、水を飲む人の行列で、ひしゃくを取るまで大変でした。この水は、近所の人がやかんや容器を持ってきて家庭用に汲んでいくそうで、観光客には、長生きの御利益の水として人気が高いそうです。外国人も気軽に飲んでいました。ここからの本堂シーンが清水の舞台の絵葉書と同じになるのでカメラに収めました。帰り道の坂の両側は土産物の店が沢山並んでいましたので、京都の有名な土産物を買い求めました。
 第1日目の日程は、これですべて終了しました。しかし何と充実した1日だったことでしょうか。好きなところを選んで歩く楽しさ、気楽さはほんとうに幸せ一杯の京都でした。

 註 この文を送信すると、文型がすっかり崩れるのですが何故でしょうか。読んで下さる方には
   読みにくくなり、申し訳ありませんがお許しください。

京の旅ー追想

2018-06-23 21:22:44 | 旅行
 8月4日ー1

  3日目は、老師様のお取り計らいで春光院様が、ご自分の塔頭を案内するために迎えに来て下 さいました。初め織田信長、武田信玄のお墓のあるお寺と石庭を見せて頂き、そのあとご自分の
 春光院へ行きました。春光院には、スペインの鐘(キリスト教の迫害に関係ある)や国宝の中国 の襖絵、いわれのある茶室等貴重なものが沢山ありました。ご説明を伺いながら、春光院は、こ れら国宝級の財産を管理するお寺なのだろうか、普通のお寺の葬式、法事などする檀家はいるの だろうかという疑問が湧いてきました。いやそもそもこの妙心寺は、京都の街の1つの一画を占 めており、この中に40余の寺院を包括しているように感じました。北は一条通りから南は下立
 売通りまで、観覧可能な寺と境内を見て回るのに3時間は必要なそうです。そしてこのようなお 寺の集洛が、妙心寺派の他にも各宗派毎に夫々街の一画を占めているということです。街が寺の
 たたずまいと言っても過言ではないのでしょう。
  会館に戻り道順を教えられ京都御所へ向かいました。それでも途中道行く人に聞きながら正面 の入口に着きました。駐車場で案内されたように歩いて行くと、又入口があって警官詰所があり
 警官が2,3人ものものしい感じで警護していました。警官に許可証を見せて11時指定の2, 3分前に入ることができました。11時に一人の説明案内人がついてくれました。外国人も多く
 この人達も前もって申し込むのだろうか、優先的なのかと思いました。車寄せ、新車寄せなど古 い名がついています。門も同じような作りでも少しづつ特徴のある宜秋門、建礼門、建春門があ
 りました。紫宸殿は、さすがに御所のシンボルとでもいった堂々とした風格がありました。
御池庭は、日本庭園の最たるものともいえる位の美しさでした。こんもりとした木々が水の面に
 映え、両端に橋がありました。玉石を歩いて行くと美しい鯉の群れが近づき風情をいや増してく れました。そのあと御学問所、清涼殿、御常御殿などを外から見てまわりました。これで終わり かと時計を見たら50分程しかたっていませんでした。でも次の団体さんがもう後ろに来ていた のには、びっくりしました。
  京都は、有名な寺でもそこまで行くのに迷うほど道や周りの様子がさりげなく、通行人も特に
 そこを目指しているわけではないので、目の前に着くまで果たしてこの道で良いのかと心もとな い思いです。ところがいざ目指す場所に着いてみると、どこから、いつのまに、これだけの人が 集まったのかと思うほど大勢の観光客で賑わっているのです。おまけに中国や東南アジアからと
 思われる外国人もかなり多いのです。
  銀閣寺は、静かな佇まいでひっそりとしています。銀沙灘、月見台、銀閣と一望できて客の流 れも派手ではありません。古建築の重さを感じさせ、心の落ち着きを得ることが出来ます。平安 神宮には、車の祈祷をして貰えるかどうか行ってみました。受付で、すぐしますと言われて通行 止めを開け、中に招じ入れて頂きました。ところが雨が降り出したので、更に本殿前まで車を入 れることが出来ました。
  長い廊下を通り、おそるおそる本殿前に行きました。ややすると神主さんが現れ、祭壇前に側 面に並ばせられました。祈祷が始まってまもなくすごい音がするのでふと外を見ると、スコール のような雨が神社の玉石をたたきつけていました。神主さんの拝礼と共に頭を上下していたので 気がつきませんでしたが、この俄か雨で大極殿に雨宿りしていた参拝客が、ずらりと並んでこち らの祈祷を見物していたのでした。祈祷の後、神主さんは雨にも拘わらずドア1つ1つ開けてお 祓いをして下さいました。
  帰り道、夫に「ずい分丁寧な祈祷だったね」と言ったら、祈祷料は3000円だけど、細かいのが なくて1万円出したら、そのまま記帳されたそうでした。何台もまとめてするのではない平安神社 ならではの相場だったのかも知れません。残念ながら、車に着ける神社名の入ったステッカーは なく、装着する希望は叶いませんでした。

「京の旅」ー追想

2018-06-22 12:28:05 | 旅行
 私は、昭和56年、「京都の旅」を自筆で自費出版致しました。この度、はからずもこの本を読んだ感想を送ってくれた高校の親友の遺稿を見つけ、ブログで読んで頂きたいと思いつきました。以前も京都に住んでいたことのある高校の同級生から、住んでいた頃の様子を思い浮かべられたと言って頂いたことを思い出しました。
 大分前のことで、首都高速の渋滞など今はどんな様子なのか知る由もないことですが、京都のすばらしい歴史遺産に感激しながら歩いたその頃と、今も変わらない観光名所の様子を偲びながら書いていきたいと思っています。
 
 序 松島の瑞巌寺第128世老師、加藤隆芳様の知己を得て京都への旅をお世話頂きました。初めて  の京都訪問でしたが、ほんとうに充実した旅をすることができました。紀行文は経験ありませ  んでしたが、日本人だったら誰でも憧れる京都を訪れたいと兼ねてから思っていましたし、そ  れを記録に残さなければという気持ちも湧いてきました。旅の印象、考え方などをお読み頂け  れば幸いです。

 8月2日
自家用車を使いフェリーで仙台港を出発しました。昼食後団体の見学が終わり、操舵室の出  入りが自由になったので行ってみました。年配の船員さんに、「折角だからキャプテンと一緒  に写真をお撮りなさい」といわれました。キャプテンと言われて一瞬どぎまぎしていました   が、船長さんがニコニコしながら私に帽子を取って被せ、写真を撮ってくださいました。全く  思いがけない光栄なことでした。又自動操縦だからとハンドルまで持たせて下さいました。
  「こんな素晴らしい海を毎日見て暮したら、心も広くなるでしょうね」とずっと前を見ている
  航海士さんに話しかけたら、「その代わり口下手になります」とおっしゃっていました。前に
  1度外国航路で危険な目に遭ったそうで、幸せに旅をする大勢の客の陰に、厳しい任務を果た  している人のいることを改めて認識させられたのでした。
   日没には美しい夕焼けと二日月が同時に見られ、夜は夜で、初体験の満天の星を見ることが
  できました。天の川も、星座表と同じ川の形に真砂の星が集まっていました。これ程はっきり  と、遠い宇宙が手に取るように身近に見られたのは、幸運の極みでした。あの沢山の星の中、  地球と同じような星があるのだろうかとも思わせられました。

 8月3日
   名古屋港で下船し奈良へ向かいました。奈良は仙台の郊外といった感じで、素朴な田園地帯  が続いていました。東大寺を訪れ、見あげるような大仏様を見学しました。外では鹿がよく馴  れていて、餌を持った子にまつわりついていたのにはびっくりしました。
   奈良を出て一路京都へ向いましたが、地図を頼りに行くので、幹線道路から細い道に入ると  思うように走れなくなりました。市内で迷い、道の狭い商店街を通ったので、宿坊の花園会館
  に着いた時はもう薄暗くなっていました。老師さまからご紹介頂いた春光院様が、受付で待っ  ていて下さいました。
   夜の食事は、全部植物で作られている完全な精進料理でした。今は仏事でも完全な精進料理  にはお目にかかれないのではないでしょうか。元は動物の料理でも、見た目や形を植物で表現  する高度な技術を垣間見て、驚嘆しながら味わったのでした。
   京都に着いても、予想した暑さを感じることなく快適な旅をスタートし、二日目を無事に終  えることができました。
 

第三章 アイデンティティー

2018-06-12 16:53:58 | 随筆
 先般日本政府は、選挙権年齢を20歳から18歳に引き下げた。それは、人として成人と認めた年齢だということになる。つまり思慮分別のできる年齢になって、国や各自治体の政治家を選ぶ権利を持ったのである。裏を返せば、人は18歳で、成人として責任を持った行動を取る義務が生じたのである。責任を持った行動こそ人間社会の一員として生きる基礎であり、それまで家庭や社会で培われてきたものを元に行動することになる。しかし、今までの社会が示しているように、18歳以上の人が必ずしも皆責任ある行動を取っているかどうかは疑問である。
 人はそれぞれ親から受けついでいる個性を持ち、価値観を持ちつつ広範囲の人間社会を構成している。故に、社会規範が満足のいく社会を保てるかどうかは保障できない。むしろ、思わぬ事件が起きてニュースや番組で報道される結果、人間のやることの多様性に驚かされるのである。
 元々、国民としては守るべき法律があり、その基本的なことに従ってお互いの生活をお互いに大切にし合うコミュニティを構成している。法律に頼るほどでもないものでも、マナーとして身につけてきているもので、心地よい関係を保ちながら社会生活を営んでいるのである。残念なことに、その微妙なところで考え方のずれが生じ、トラブルとなる場合も見受けられる。
 それは、ごく普通の人は、何も波風のない日々を過ごすことができるが、突然不幸が降りかかるとか、人のいじめを受けるとか、生活が不安定になるとかの事態に遭った時は、普段の理性が消え感情が先立つ行動に出てしまうものである。そんな時に一時の心の乱れはあっても、冷静に思慮深く立ち直ることができる人をアイデンティティのある人と言えるのではないだろうか。
 人は、感情もあり理性も持っているので、困難に遭った時も人間として正しい信念を崩さない生き方ができれば、自分の身の安全にも役立つのではないかと思う。言うは易く行うは難しではあるが、強い信念で困難に負けないように行動することでその人の人としてのアイデンティティーが確立し周囲からの信用も得られる。これは、決して気持ちを窮屈にするということではなく、臨機応変に対処する落ち着きを持てばできることである。「考える故に我あり」というのも、いざという時冷静に考えれば、自分という価値ある人間がいる証になるが、もし心が乱れたら、自分の本来の姿ではなくなる、という意味で、感情に走る人間の弱さを用心させる諺である。
 人は、自分が生活に満足しているときは、人のために奉仕したり、進んでボランティアをしたりして達成感を感じることができる。物の損得ではない心の満足を得ることができる。そしてそれが次に生きる喜びへと繋がっていく。自分の楽しみだけでなく他人に役立つこともできれば、人らしい生き方になるのではないだろうか。そんな人々の集まりも各所に見受けられ、それを見る人も心が和やかになる。社会の仕組みがそのような和やかな雰囲気になると、人々の心も和やかな関係になって続いていく。高い塀の内側は、番犬の吠える声が聞こえる、そんなコミュニティより、お互いの気の合った会話が信頼を生む個性の集まりが良い。