人は、考える葦である。天は自ら助けるものを助ける。

戦後の混乱から立ち上がり、文化的平和な国に成長した日本が、近頃反対の方向を向き始めた。偉人の言葉を考え直して見たい。

人は考える葦であるー第4章 再び 考えること  

2018-11-22 22:34:19 | 随筆
 第4章の初めに、考えることについて述べ,更に考えることが希薄になったのではないかと申し上げた。しかし、この度の日産自動車の大規模なミスには、地球を揺るがす位世界の人は驚かされたのではないだろうか。こんな大きな出来事が何年もの間続けられたのは、物言えぬ社内体制にあったという。人間社会が先進国を始めとして民主主義体制になり、文化の発達と共にハイレベルの人間らしい社会が構築してきたと誰でもが考える中、こんな独裁者に匹敵するような行動がまかり通っていたとは信じられない。
 人間社会には、地方の組織でもそこを乗っ取りたいという欲望の人がいて、役職を掴んで組織を牛耳るのだ。そういう人は、何歳の時からそんな考えが芽生えるのだろう。何時から反れた道を選ぶのだろう。戦争で国単位の縄で縛られている時は、そいうことは国のトップに立つ人の采配が国を左右する。戦争のない自由な時代には、自由にそういう欲望を持って他を巻き添えにしようと考える人がいるのだ。日本では、やはり公的予算を私的行動に使用した人が止むなくビッグな役職から追放されたばかりである。
 人はどう生きるべきかとか、恥ずかしい一生にならないようにと考える真面目な人が多いと思うが、沢山の収入を自分の為だけでなく、人の為に散財する人もいる。大事業をした人でなくとも、高齢になって寄付をする篤志家も報道されることがある。その反面、低所得層も依然と問題になっているし、後進国では全体が深刻な状況になっているところもある。こんな中にあってこの度の不祥事は
あまりにも非現実的であった。
 油田国の大富豪が財産を持っているのは世界の周知のことだが、如何に会社再建に寄与したからといって桁違いの報酬を得たら、会社の経営はどうなるのか、社会に問うのが遅すぎた。物が言えない会社組織が未だにあるのは、最近明るみに出た大学やスポーツ団体の不祥事に似ている。又、時々見られる単独で会計に携わる人の不正経理、私物化も、長い期間を経て表に出で驚かされるが、何でそういうことが早く露呈しないのかわからない。
 独裁的考えの人がぬくぬくと生き延びるのは、周りにいる人がイエスマンになり、下部の人々の考えを無視することから始まる。民主主義はそういう理に合わない組織にならないように淀んだ池ではなく清流の流れる泉を目指すのが本分ではなかったか。そうして初めて、人間同士不満を感じない将来の明るい社会が継続できるのではないだろうか。人はもっと思慮深くありたい。「天に恥じない」といったら古いと言われそうだが、清貧という言葉もある程日本人の多くは正しい生活を営んでいると思う。人として誰もが満足する公明正大な社会を当然のように進めて欲しいものである。。

遊びをせんとや生まれけんー番外編

2018-11-18 22:32:57 | 随筆
 選挙の応援演説に来ていた応援の大臣が、相手候補者を反対する演説で、「税金で大学を卒業した人」と言ったことがニュースになった。日本には公立の学校を卒業した人が数限りいるのに、それら全体の出身者をを批判したことになる。
 そもそも学校は公立と私立とあり、どちらも差はあれ補助を受けている筈だ。だから、どちらの出身が候補者としてふさわしいかどうかは全く関係ないことなのに、選挙に勝つための演説内容としては如何なものかと誰もが考えるのではないだろうか。小学校だけを出て総理まで出世した人がいたけれど、この大臣は、もしそういう人が対戦候補になったら、「小学校しか出ていない人」と演説するのだろうか。
 他の選挙でも国内外を問わず、応援演説を対立候補の不利なプロフィールを並べ立てることと勘違いしている人がいる。聞くに堪えないばかりではなく、レベルの低さに辟易してしまうのではないだろうか。選挙民はそんなことを聞きたくて街頭演説を聞きに来るのではない。候補者の政治手腕を判断する内容を期待しているのだ。それを投票の判断材料として当日候補者を決め一票を投ずる。だから、選挙違反を厳しく取り締まり、有利な不正な手段を取っていないかどうかを投票後も確認するのだ。その位厳粛な選挙でありながら、相手候補の不利を増長する方法をこれでもかこれでもかと考えるのは見苦しい行為である。
 選挙制度は民意の反映と言う民主主義に基づいて始まった。一人の選挙でも大勢の選挙でもその重要さは相手の中傷などに穢されるようなものではないと受け止めなければならない。当選後の候補者の政治手腕に期待して投票するのだから、国民の意識を無視することは許されない。若者は新聞を読まないから、〇〇党には有利な票だと言われて、若者はどう考えているのだろうか。そんなところにも国民が冷静に政治家を見る義務は大きい。

 選挙に関係ないけれど失言で忘れられないことがある。3.11の大震災の時、有名な作家が、「罰が当たったのだ」と言ったのである。誰が?と問いたかった。誰のばちでしょうか、沢山の流された人々でしょうか。震災地の人全員が一斉に何か悪いことでもしたのでしょうか
それを聞いた国民はその時どう思ったか。非常識と思った人が多いと思う。 

遊びをせんとや生まれけんー2

2018-11-14 22:38:27 | 随筆
 part - 2

新しい家庭を持ち愛情あふれる生活の中で、新しい命が授かり、親となるコースがスタートします。何でも初体験だから、色々参考にするものの不安と喜びに満ちた幸せな生活の連続となれば、良い人生の継続が保障されます。もしここで不運にも産後うつとか、夫の戸惑いなどで正常な道が開けない時は、どこにでも救いの場所、人が今は存在しています。子供の成長に関する行事の案内も来ます。もし、ここで少しでも悩むことがあったら周りの人が頼りになるので、進んで参加するべきです。親類や友人、(検診の友人も)近所の方大勢の人が見守ってくれると信じて欲しい。又、このことによって、更に夫婦の絆が深まれば迷うことはなくなります。子育ては喜びの1つであり、親の自覚も確実になるすばらしい経験です。それを感じながら毎日の生活が続くと子供をどう育てたいのかという、未来のビジョンも考えるようになります。人として最高の青春時代の最高の喜びの時代ではないでしょうか。しかしすべての人がこの喜びに浸れるとは限らず、いたいけな子供の犠牲も事件として知らされることもあります。生まれた子供の人生の始まりを大切に育むべき時に、人生の何たるかを知らないまま命を落とす悲運にならないように、社会でも見守ってもらいたいものです。この世に生を享けた尊い命の一生を全うさせる基礎づくりをすることが、初めの親の義務でもあります。

 「尊い命」という観念が人間社会では大切なことなのに疎かになっているのではないでしょうか。他の動植物を、戦わずして利用することができる唯一の動物です。人類社会を構成する一員です。時には、同じ人をいじめたり傷つけたり殺したりします。この行為は、人として恥ずべき行為と自覚しなければならないのですが、その道具を作っているところもあるので、使うのも恥ずべきことと思わなくなるのでしょうか。その規模のマックスが国の軍備です。ある過去に国需産業として戦争をした時代がありました。そこで数えきれない沢山の命が失われましたがその人の人生を悔やんでくれた人は、どの位いたでしょう。そのために精神に異常を来たした兵士がいて、その中の一人が、何年後かに犯罪を犯すという痛ましい事件が起きました。何年かを経て兵士の犯行で多くの人が命を落としたのです。事故事件での犠牲者は大きく報道されますが、戦争の犠牲者は数限りなく一人一人の尊厳は全く無視されるだけです。
 生まれた時の感激、お祝いの心がずーっとその人を温かく包む世になると、周りの人とのいざこざもなくそしてそれが人生を楽しむ基盤となると思われます。お互いに大切にし合うのが大勢の人の共同生活です。常にだれかと戦いたいと考える人がいなくなることが望まれます。

遊びをせんとや生まれけんー1

2018-11-11 22:36:15 | 随筆
 標題は、平安時代の人の言った言葉で、聞いたことがない人もいるかもしれませんが、これを現代の事情に合わせて考えてみたいと思います。
 これを直訳すると、人は遊びをしようと生まれた、遊びをするために生まれたということです。でも、遊んでばかりで生きることはできません。つまり、誰でも何のために生まれたのかと考えた時に、こんな筈じゃなかったと嘆くような境遇にいるかもしれませんし、楽しく過ごしても災難に遭い、初めて楽しかったことに気づくこともあります。それで、この標題のように遊びに興じたかーつまり老後を過ごしながら「幸せな一生だった」と言えるか「満足できる一生だった」と言えるにはどうすればいいかを考えて参ります。人それぞれですから可、不可どうお感じになられてもご自由に読んで頂ければ幸いです。
 
 part 1 

人の暮らしは、家族から始まります。結婚して家庭を持つことが、一生のスタートだと思います。よきパートナーに恵まれるかどうか、ここで一生の道が決まります。
 パートナー選びは、大変ドラマチックでありながら、必ずしも一生幸せに過ごせる相手に遭うとは限りません。それは、結婚の時期は青春の真っ最中で、あれこれ考えあぐねていると独身が長くなりかねません。又、一気に恋に落ち、アバタも笑くぼになって結婚すると、あとでお互いの欠点が目につき、どうしても我慢できなくなる場合や、じっと耐えて子供の為に一生を過ごす、又は、良い縁となって幸せな家庭となる等千差万別の形が見られます。
 理想的な形は、お互いフィフティフィフティの関係が保てる場合です。つまりお互い思いやりのある行動を取り、お互いがそれを理解し感謝しあえる関係です。中には、どちらかが大きな包容力を持ち、片方のわがままを容認する場合も平穏な関係になります。いわゆる前者は価値観が同じな場合で、後者はお互いずれていても、我慢して波風を立てないようにする鷹揚なタイプの場合です。しかしもしそれが、一方が独裁者のタイプで、一方が全くの従属のみだったらバランスは取れませんから幸せとは言えません。お互いの会話が最も大切になるのではないでしょうか。何でも言い合える雰囲気、お互いの気持ちがストレートに通り、誤解が生じない関係が理想的です。誤解があっても、いらいらせずに、理解するまで話し合うことを億劫がらずできるようになるのが最も基礎的な大事なことではないでしょうか。
 結婚前の良い関係がずっと長続きしお互いを大切に考えることは、難しいけれど簡単に実行できる人と出来ない人で一生が決まっていくでしょう。常に自分以外の人に優越感を持っている人は、逆転することをきらい相手を見下すことで満足します。どんなことの差でも、人の評価で差別感を持つのは良い人間関係の邪魔になります。見下された相手は、相手を尊敬することはできません。そこから平穏な日常は崩れ行く恐れがあります。
 又、普段は目立たない人でも、深酒のあとや気持ちの不安定から暴力に走るくせのある人もいます。それも、決して正常な家庭生活は続きません。高学歴の人でも、浮気の為にパートナーを殺めると言う想像に絶する事件も起きます。家庭崩壊は起きやすく、理想的な家庭の継続は難しいだけに、実現している家庭の子育ては多分申し分なく成功していることと察せられます。