第4章の初めに、考えることについて述べ,更に考えることが希薄になったのではないかと申し上げた。しかし、この度の日産自動車の大規模なミスには、地球を揺るがす位世界の人は驚かされたのではないだろうか。こんな大きな出来事が何年もの間続けられたのは、物言えぬ社内体制にあったという。人間社会が先進国を始めとして民主主義体制になり、文化の発達と共にハイレベルの人間らしい社会が構築してきたと誰でもが考える中、こんな独裁者に匹敵するような行動がまかり通っていたとは信じられない。
人間社会には、地方の組織でもそこを乗っ取りたいという欲望の人がいて、役職を掴んで組織を牛耳るのだ。そういう人は、何歳の時からそんな考えが芽生えるのだろう。何時から反れた道を選ぶのだろう。戦争で国単位の縄で縛られている時は、そいうことは国のトップに立つ人の采配が国を左右する。戦争のない自由な時代には、自由にそういう欲望を持って他を巻き添えにしようと考える人がいるのだ。日本では、やはり公的予算を私的行動に使用した人が止むなくビッグな役職から追放されたばかりである。
人はどう生きるべきかとか、恥ずかしい一生にならないようにと考える真面目な人が多いと思うが、沢山の収入を自分の為だけでなく、人の為に散財する人もいる。大事業をした人でなくとも、高齢になって寄付をする篤志家も報道されることがある。その反面、低所得層も依然と問題になっているし、後進国では全体が深刻な状況になっているところもある。こんな中にあってこの度の不祥事は
あまりにも非現実的であった。
油田国の大富豪が財産を持っているのは世界の周知のことだが、如何に会社再建に寄与したからといって桁違いの報酬を得たら、会社の経営はどうなるのか、社会に問うのが遅すぎた。物が言えない会社組織が未だにあるのは、最近明るみに出た大学やスポーツ団体の不祥事に似ている。又、時々見られる単独で会計に携わる人の不正経理、私物化も、長い期間を経て表に出で驚かされるが、何でそういうことが早く露呈しないのかわからない。
独裁的考えの人がぬくぬくと生き延びるのは、周りにいる人がイエスマンになり、下部の人々の考えを無視することから始まる。民主主義はそういう理に合わない組織にならないように淀んだ池ではなく清流の流れる泉を目指すのが本分ではなかったか。そうして初めて、人間同士不満を感じない将来の明るい社会が継続できるのではないだろうか。人はもっと思慮深くありたい。「天に恥じない」といったら古いと言われそうだが、清貧という言葉もある程日本人の多くは正しい生活を営んでいると思う。人として誰もが満足する公明正大な社会を当然のように進めて欲しいものである。。
人間社会には、地方の組織でもそこを乗っ取りたいという欲望の人がいて、役職を掴んで組織を牛耳るのだ。そういう人は、何歳の時からそんな考えが芽生えるのだろう。何時から反れた道を選ぶのだろう。戦争で国単位の縄で縛られている時は、そいうことは国のトップに立つ人の采配が国を左右する。戦争のない自由な時代には、自由にそういう欲望を持って他を巻き添えにしようと考える人がいるのだ。日本では、やはり公的予算を私的行動に使用した人が止むなくビッグな役職から追放されたばかりである。
人はどう生きるべきかとか、恥ずかしい一生にならないようにと考える真面目な人が多いと思うが、沢山の収入を自分の為だけでなく、人の為に散財する人もいる。大事業をした人でなくとも、高齢になって寄付をする篤志家も報道されることがある。その反面、低所得層も依然と問題になっているし、後進国では全体が深刻な状況になっているところもある。こんな中にあってこの度の不祥事は
あまりにも非現実的であった。
油田国の大富豪が財産を持っているのは世界の周知のことだが、如何に会社再建に寄与したからといって桁違いの報酬を得たら、会社の経営はどうなるのか、社会に問うのが遅すぎた。物が言えない会社組織が未だにあるのは、最近明るみに出た大学やスポーツ団体の不祥事に似ている。又、時々見られる単独で会計に携わる人の不正経理、私物化も、長い期間を経て表に出で驚かされるが、何でそういうことが早く露呈しないのかわからない。
独裁的考えの人がぬくぬくと生き延びるのは、周りにいる人がイエスマンになり、下部の人々の考えを無視することから始まる。民主主義はそういう理に合わない組織にならないように淀んだ池ではなく清流の流れる泉を目指すのが本分ではなかったか。そうして初めて、人間同士不満を感じない将来の明るい社会が継続できるのではないだろうか。人はもっと思慮深くありたい。「天に恥じない」といったら古いと言われそうだが、清貧という言葉もある程日本人の多くは正しい生活を営んでいると思う。人として誰もが満足する公明正大な社会を当然のように進めて欲しいものである。。