人は、考える葦である。天は自ら助けるものを助ける。

戦後の混乱から立ち上がり、文化的平和な国に成長した日本が、近頃反対の方向を向き始めた。偉人の言葉を考え直して見たい。

第三章 アイデンティティーに目覚める時

2018-07-27 12:01:07 | 随筆
 平成に入ってできた新興宗教オウム真理教の嘗ての信者が二日に亘り死刑に処せられた。未曾有の犯罪を忘れない人々にとっては当然と思うかも知れないが、或いは入信を悔い、或いは犠牲に遭った方々への贖罪に明け暮れた人の命が一斉にこの世から消えたことは、同じ人として慙愧の念を禁じえない。私たち戦争時代の人間としては、自分の命を考える間もなく戦いに召され、人生の終焉を迎えた青年たちを思い出さざるを得ない。処刑された元信者たちが、無我夢中で信仰し、尊師とあがめる人の言いつけを実行したのは、やはり青春時代であったのだ。獄中の人として必ずしも「最低限の幸福を感じる生活」ではない人生の一部を過ごした挙句、罪滅ぼしの刑を受けなければならなかった。どんなにか若気の至りを後悔したことだろう。オウムが有名になり始めた時、入信する人が若くて高学歴であることを、世間では驚かされたのだった。一人一人それぞれに自分のしっかりしたアイデンティティーがなかったことが非人間的思想に洗脳された原因があるように考えられる。
 もし、日本人の成人年齢の20歳(新成人は18歳になる)で、アイデンティティが確立していたら、このような宗教団体に入信することや世間を騒がせることはしなかったに違いない。宗教というと、誰でも長く続いているしっかりした宗教団体の宗旨が考えられ、それによって人としての道を開く人もいる。決して人に迷惑をかける事は目指さない。だから、入信するにはそれだけの信じるに値する宗旨を理解して判断する能力が備わっていればよかったと思う。
 日本が平和憲法によって戦後の平和を築き上げたにも拘わらず、犯罪は後を絶たないし、殺人も
毎日のように報道される。人が同じ人を殺すというのは、動物の食べることを目的にするのとは遥かに異なることは自明であるから、考える能力のある人間としての余ほどの理由があると予想される。しかしそれは、全く人間的な考えではなく、動物的な感情の赴くままの行為に過ぎないと解釈する方が大方の理由と思われる。最近は驚くことに妻の首を絞めて殺した夫と夫の首を絞めて殺した妻の事件が相次いで報道された。そしてその遺体の処理が、ほとほと呆れるようなおよそ人の人生の終焉を弔うことから程遠い方法に2度びっくりさせられたのである。
 その二人が殺人を思い付いた時、人としての思考はあったのだろうか。動物の本能ー憎しみしかなかったのではないだろうか。日常の二人の思考はどうだったのだろうか。人としての公共心や博愛心など人らしい生き方が出来ていたのだろうか等、普段の日常の社会生活の営みをしていたのかという疑いが湧いてくる。よく、相手は誰でも良かったという苦々しい理由をさも理由として成り立つかの如くにいう若者が殺人を犯して世間をあっと言わせるが、これは、明らかに普通の人としての日常を送っていないことは明らかなのである。つまり、いくら動物の長である人といえども人の考えが出来ない人間が現に存在するということを知らされるのである。
 思慮深さとかアイデンティティーとは、普通の人として動物に近い本能で生きることを防ぐためにある分野なので、そこまでも至らない、すでに、本能的な考えを主流にしている人も大勢の中にはいることを認めざるを得ない。人は悩みや迷いを解決するために宗教に頼ることもあるかも知れないが、宗教でなくとも沢山の団体や同じ趣味やスローガンの元に集まり様々な活動をする場合がある。進歩的な、共感を生む団体から、その時々に結成される団体もある。しかし、団体を作ろうとリードする人は、集まった大勢の人に左右されることなく運営をする苦労もある。しかし集団の中でも群衆は沢山の危険なことをはらんでいる。私は嘗て、それに関するメモをしていたので、それをご紹介し、しっかりしたアイデンティティ-の基底を強めるための参考になれば幸いである。

  ル・ボンの群衆キーワード 

① 群衆は感染する   米騒動など
② 群衆は過激に走りやすい   差別運動、反〇デモ、暴動
③ 群衆は衝動的である
④ 群衆は暗示に弱い    嘗てのオウム真理教
⑤ 群衆は時々高い徳性を示す   ガンジーの独立運動
⑥ 国民も群衆化する  単純化したメッセージに動く、流言飛語についていく 
⑦ 群衆は反復断言に弱い 同じ言葉を繰り返す、権威に屈する
⑧ 群衆は同一化する  誤答と思っても多くの人に合わせる、デマを信じる
⑨ 群衆は服従する  悪の凡庸に影響される、悪いことでも命令に従う、


「京の旅」ー追想

2018-07-07 15:58:55 | 随筆
 8月6日 帰途

 京都に来て四日目、いよいよ京都を去る日です。京都の印象として持っていた夏の暑さは、ついぞ感じないで過ごせました。毎日が快適指数気温のだったことに心から感謝したい気持でした。見学しながら考えたことは、日本は神社仏閣が各地に建てられ、参詣する人も沢山いるので信心深い国民だと言われている一方、”困った時の神頼み”とか”他力本願”だとも言われるようです。参拝する時はご利益を信じてお参りするのでしょうか。旅のついでにお参りするという考えや、元朝詣り、安全祈願、学業成就等の目的の場合もあります。それが叶わなかった場合は、諦めたり、神も仏もないと恨んだりしてはいないでしょうか。日本には、仏教が入ってくる前に神教があり、現在も事初めー例えば、山開き、海開き、建築の初め、結婚式等で祈祷をして頂き、未来の幸運を祈る習慣が続いています。これも信心と祈りに違いありません。でも、祈っても最後は自分の自助努力にかかってくることを受け止めなければならないのではないかと思います。不幸に遭った時も、神仏を恨まず状況を受け止めるようにするべきなのではないかと気づかせられました。
 最後に、老舗で有名な聖護院八橋本店でお土産を買い、「おおきに」に名残を惜しんで名神高速道に入りました。名古屋を過ぎると東名高速に入り北上します。その途中、琵琶湖がかすかに望むことができ広々とした湖に思いを馳せながら後にしました。静岡の浜名湖で休憩をとり、三保の松原へ向かいました。東名高速の静岡から降りて久能街道を海岸沿いに走りましたが、イチゴ栽培の石垣がずっと続いているのを見ることができました。左手の方に東照宮のある日本平久能山を見ながら夕方旅館松原荘に着きました。

 8月7日

 朝、食事の前に羽衣の松を見に行きました。羽衣を掛けたという松は、松らしい威厳は感じましたが、やはりコンクリートの柱で支えられており、歴史の証人という印象でした。近くの茶屋のそばに、フランス語で書いた羽衣の碑があり、フランスにも羽衣のメルヘンを理解した人がいたのだろうかと思いました。旅館をチェックアウトして清水灯台へ行きました。そこからは、富士山の姿がくっきりと見え、葛飾北斎の版画を思い出させる素晴らしい光景でした。
 次に、東洋一と言われる東海大付属水族館へ行きました。入ってすぐ、2階までに及ぶ大水槽が私たちをびっくりさせました。中では海流に乗って様々な大きさの沢山の魚が泳いでいました。小さい案内板に沿って歩いて行くと、水槽の陰で働いている裏方さんの姿も見えました。あの想像もつかないような大きな水槽を作った人や、それを維持している人々ですが、その姿からは、働く喜びも感じ取られ、感射の気持ちが湧いてきました。
 このあと次郎長の菩提所梅陰禅寺へ行きました。ここは清水市の大きな観光源ではないかと感じました。大そてつで有名な龍華寺では、一面に生えているように見えたそてつが、雌雄の2株だけと聞き、これも長年の歴史が感じられ、植物の寿命に感心しました。
 最後に登呂を見学しました。竪穴住居や倉庫がいくつも復元され1つの集落を作っているのを見ると、日本の歴史の曙を目の当たりにする思いがしました。今とは全く異なる単純な昔の生活が、しみじみと仮想上に再現していくようでした。
 登呂の近くから東名高速に入り日本坂トンネルを通りました。大きな火災事故のあったところという思いを秘めながら通り過ぎました。ところが、出口に近付くにつれ渋滞が始まっていました。
何車線もあるのにぎっしりと詰まり、首都高速に入っても渋滞は続き、高速道と言う名がいかにも空しくいらいらするばかりでした。下の一般道が空いているのを見ると尚その矛盾を感じました。
 首都高にいる間に日が暮れ、ネオンが輝き出しました。首都高速5号線に出てやっと普通に走り浦和に出た時は8時半になっていました。勿論ホテルでも食事を準備して待っていて下さいましたが、二男は疲れのためかどうか取らずに寝てしまいました。
 
 8月8日

 東北自動車道は、東名ほど神経を使わずに済む雰囲気でしたが、制限時速を遵守しているパトカーの後ろに車が数珠つなぎになった時は、初めての経験でこういうこともありと笑っていました。登坂車線にパトカーが道を明けたあとは、車の一群は、そろりそろりとスピードを出し、パトカーの視野から離れた辺りから元のスピードで走り始めました。


  追記

  延々一週間の「京の旅」の記録をお読み頂きありがとうございました。三十余年も前のことで
 読んで改めてよみがえった所もありました。記憶がうすれていたところもあり、間違いがあった らと懸念しています。今の事情はこれとどのように変わったかということにも関心がありまし  た。高速道の渋滞もその一つで取り上げました。
  この旅行の後は、共済組合の宿になっている ”花のいえ”に宿泊し、見たかった施設を見ま したが、紀行文は書きませんでした。”花のいえ”は、京都の渡月橋の近くにある豪商屋敷角倉 家を改装して営業しています。この度の豪雨で、5年前に引き続き被災なさっているのではない かと心を傷めております。心からお見舞い申し上げ、筆を置かせて頂きます。読後の感想をお寄 せ頂ければ幸いです。

京の旅ー追想

2018-07-03 17:18:33 | 随筆
8月5日ー2

 次は祇王寺です。ここは、前に権太呂を探した時に通った道で、あまりにも狭いので不安な気持ちで聞きながら行きました。坂を上った所で行き止まりになったので駐車しましたが、他に車は全く来ません。新聞配達の青年が突き当たりの小さな門を入って行ったので、普通の住宅かと思い大きな門をくぐりました。入場料を払って中を見ているうちに、様子が違うと感じてパンフレットを見たら壇林寺と書いてありました。そこを出てさっきの小さな門の方に入り、竹林の中を登って行きやっと目当ての祇王寺に着くことができました。うっそうとした竹林の中に、ほんとうにひっそりと建っているのです。
 普通の家より小さいくらいの大きさですが、その中に平清盛にまつわる薄倖の女性の物語を秘める故に、現代の女性にとっても関心の深いお寺なのかも知れません。平清盛を真ん中に、祇王、祇女、母刃自、仏御前の座像があり、その前に香が焚かれていました。説明のテープが繰り返し話していました。突き当たりの障子に丸窓と竹枠の影がうつり、和風の風流なシーンでした。
清涼寺へ行った時は5時を回り閉門となっていました。くぐり戸が開いていたので中に入り、聖徳太子殿、法然上人像、二重の塔、仁王門等を写真に撮って帰りました。最後に嵐山を望み、渡月橋を渡りました。時代劇の撮影に使われるだけあって、昔を彷彿させる橋を感慨深く渡りました。上流は保津川で、下流は桂川となり、更に下れば祇園先斗町を流れる淀川と合流するそうです。帰り道で東映の映画村の前を通り、時代劇を沢山生む場所を垣間見ることができました。
 これで二日間の京都探索が終わりました。二日間京都を往来して、大きな通りの今出川通り、丸太町通り、烏丸通り等碁盤の目は地図と共に頭に入りましたが、大通りから一歩中に入ると、戦火を免れた昔ながらの京の風情を残す通りは、狭い道でした。歴史のあとをそのまま残したような街並みとなるのです。
 明日は京都とも別れるので、名残を惜しみ夜の街に出かけました。三条通りから四条通にかけて河原町を歩き、鴨川の橋のたもとから先斗町へ入りました。川に沿って一軒ごとにビアガーデンが作られ、涼を求めた客で賑わっていました。道路向かいは、落ち着いた店構えの料理屋さんが軒を連ねていましたが、客の出入りはビアガーデンと対照的に静かでした。
 そこを離れて祇園へ行き、大通りに店が続いている中の大原女屋さんに入り夫婦善哉を注文しました。白あんと小豆あんの二つのおしるこでした。有名な南座の看板とのぼりをみて帰路に着きましたが、タクシーが二条城のそばを通ったので、次の機会には是非訪れたいと思ったのでした。仙台からは少し遠い存在ではありますが、季節ごとに違った風景を演出する京都に何度も来たいと心に願いました。大文字は左大文字右大文字とあり、それも街からはっきり見えるのも驚きの一つでした。京都は、アメリカが意図して攻撃をしなかった大切な遺産なので、歴史的な諸行事も季節を追って行われています。観光客が、簡単に昔を偲べる貴重な建造物が博物館のように豊富に揃っています。その他、食べ物やお菓子の文化も保存され人気の的になっています。昔の首都、宮廷文化の粋を残し、日本人のルーツを偲ばせるすばらしい都市を改めて日本の誇りだと思いました。