人は、考える葦である。天は自ら助けるものを助ける。

戦後の混乱から立ち上がり、文化的平和な国に成長した日本が、近頃反対の方向を向き始めた。偉人の言葉を考え直して見たい。

人は考える葦であるー第1章  思慮深さ

2018-02-22 21:42:43 | 随筆
 人類が未だ多くなかった時代にあったお互いの争いが、未だに続くのはどういうことだろうかと申し上げたが、「考える葦」の「考える」は、言語や文化スポーツとあらゆるジャンルでの考えるではなく、人と人の人間関係で、動物とは違う高度な繋がりを保つための「思慮深さ」である。
 動物界でも、人間には及ばないながらも種族の保存上の繋がりはあるものの、生活の殆どは生存競争でありサバイバルの恐怖の中で生きている。人は、大勢の人の社会を作り上げ、よりよい暮らしへの規則を決めてお互いの暮らしやすい環境を作ってきている。長年の間には、イデオロギーや主義主張の相違を互いに調整することで争いを避けて生きる道を選びつつ発展してきた。
 世界の多くの国の歴史を互いに理解しながら、経済協力や芸術の交流、医学を始めとする科学の発展に国境を越えて協力し合い、世界の垣根がない時代を送りつつある。ところが、最近このよい時代に暗雲が立ち込めてきたと感じない人はいないのではないかと思う。この平和な国際交流を十分に享受している人々はたくさんいるのは確かであるが、文化の進歩が遅れている国や天候の異常で国民の生存もおぼつかない国も多いことは看過できないことである。
 先進国では、過度と思えるほどの物の生産、食料の無駄がある一方、地球の異常現象のため被害を受けているところがあり、国民の一人一人が望まない国家間のせめぎあいは、地球の存続にはマイナスの要因として歓迎されない筈である。それが当たり前に考えられる常識として理解されることなのに難しいのは、思慮深さの欠如に他ならない。
 地球上の国々が、夫々自国の利益、国民の幸福を考えて政治をするのは当然だが、科学、芸術、医学、スポーツでは世界が1つになって協力し、人類の発展を期しているわけで、政治面で反目するのは理不尽と言わざるを得ない。人は長い年月をかけて進歩してきているので、考え方も、誰でもが理解でき、お互いの立場を理解する広い考えが育まれなければならないと思う。自国の利益を優先に考え、世界一の国をお互いが競い合っていたら、信頼関係のうすい疑心暗鬼の方向に向いて行くのは目に見えている。経済が強く、国民の生活水準が高い国でも格差は見られるし、後進国は勿論、政治の無能が国民を苦しめている所が見られるのは世界のバランスからいっても不条理と言わざるを得ない。国の政治が、他国との競争にばかり焦点を当てていれば、国民の倫理観もそちらの方向に強くなり、世界の国々の協力的な助け合い、平等な幸福の享受にも排他的考えが多くなるのではないだろうか。
 それで、国民一人一人が本当に人間らしく、お互いを思いやる関係を築く社会を構成するために
今疎かになって来ている「思慮深さ」とはどういうことかを考えて行きたいと思う。

人は考える葦である part 3

2018-02-21 22:15:49 | 随筆
 考える力といっても、他の動物とは比較できない位の複雑な多くの力を人は持っている。そのために長い年月をかけて現在の無限の文化や進歩をもたらしたのだ。更に人類は神という絶対的な存在を知り、信じて生きる糧としてきた。これが、他の動物との差を大きくしている要因で、人の人たる所以であり尊厳を意味づけている。
 つまり人の考える範囲は神に近い崇高なものから、動物的本能に近い感情的なものまで無限な可能性を秘めている。故に複雑極まりない多くの問題が生じているのである。歴史を遡って考えると、初めは自国の狭い範囲での小さい戦いから始まり、時代が進むと外国との戦い、侵略戦争と進み第1次第2次という大戦を経て戦争のない時代が来たかと思えば、地方での戦いが続いたのである。
 一方で言語の違いを超越して各国の科学、芸術、スポーツの文化交流や観光等では発展の途を遂げていたにも関わらず、このような内乱やテロ戦争が絶えないのは何故だろうか。人類の動物と異なる高度な感性はどうしたのか。人の思考の範囲が崇高なものから本能に近いものまで無限な広がりがあると言ったその本能に近いものがテロや戦争の発想と言えないだろうか。
 人はそれぞれ生まれた国で生まれた国の感性で生きているが、人と戦いたいという欲望はどこから生まれるのだろうか。昔の侵略戦争の時代は遠に過ぎている。日本は観光ブームで外国の人が沢山訪れている。そこで平和な暮らしが当たり前に続くことを自然に享受している。だから、そこには、他国の軍備がどうとか、防衛のための核開発とかは考えの範囲にはない。しかし、国境線に近いところの緊張した雰囲気は、一般の人々の計り知れないものであることも察せられるのである。
 この広い地球を人類は他の動物、植物を利用して生存し続けるが、未だに開発の遅れている後進国、先住民族等から宇宙に目を馳せ宇宙をも席巻しようとする国まで大地の地球はその生命を永遠に続けることができるのだろうか、そういうことを考える必要はないのだろうか、科学に疎い者の単純な紀憂に過ぎないであろうか。 

人は考える葦である

2018-02-03 17:34:37 | 随筆
 part 2

  人の考える力は何歳ごろから芽生えるのだろうか。幼児期は人としての身体の健全な成長が主となるが、知能の高い人間は幼いなりに思考力は育つと思う。
 それに影響を与えるのは主として母親、次に父親である。愛情いっぱいの環境と、満足することの少ない環境では自ずと異なる本能の洞察力で吸収するに違い
 ない。ことばを覚えながら、親のしつけからも影響を受けるようになる。親の性格がDNAの次にに子供の性格を作る。子供の行為を冷静に受け止め、人格
 形成の過程であることに留意し感情的に叱ることを避ける。スキンシップで愛を感じさせたり、不快な事を取り除くなど、心地よい気分にさせればよこしま 
 な性格にはならない。理由のわからないまま(子供は往々にしてこれが多い)叱られたり体罰を受けたりしたら、恐怖心や憎しみが芽生え素直な童心は早くも
 歪み始めるかもしれない。
  更に生長が進むにつれて、家族以外の大勢の知らない人々、広い景色、賑やかな町を知る。興味関心が拡がると同時に、不安、喜び、危険等にも遭遇しそ
 の度に親を通して学んでいく。大人になる過程で学びながら育つ期間を、丁寧に教えて行くと考えれば良い。親の思い通りにならないといらいらすれば、子
 供は敏感に感じ取り、正常な思考力の生長の妨げになりかねない。
  言葉も飛躍的に覚え、感情、感覚も豊富になるが、いろいろ吸収するだけでなく自我に目覚めて行く。小さいながらもプライドが育ち親にも反抗するよう
 になる。そんな時、単に子供だからと短絡的に叱ると、傷ついて正常な価値観を学べなくなる。子供と言っても、一人の人格を持つということを親は忘れて
 はならないのである。