とある宴席でタヌキの歌を歌うと。小生はてっきり、しょう しょう しょじょうじのと歌い出すのかと思ったら
春が来・・・タ 春が来・・・タ
どこに来・・・タ
山に来・・・タ 里に来・・・タ
野にも来・・・タ
たわいもない歌だが、タを抜いてある 通称タ抜きの歌だと
これは歌だから声を出して歌わねばならぬ
そして、タを声に出さない、黙する
しかし タ が重要なんだな
イギリスの格言に、「3月はライオンのようにやってきて、子羊のように去っていく」と
春めくと言う言葉もある。春はあけぼの。やうやう白くなりゆく、春眠暁を覚えず
春とは何となく希望を抱かせる季節でもある
山田洋次の「遥かなる山の呼び声」だったかな。舞台は北海道中標津。亡夫が残した牧場を一人で経営する女(倍賞千恵子)の下に官憲に追われている男(高倉健)がやって来た。シェ-ンを彷彿させる作品であった
高倉健扮する男が、倍賞千恵子扮する女に、牧場の仕事は一人で辛くないですかと聞く
女は一呼吸おいて、本当は辛いです と
しかし毎年冬が明けて春になると、野原一面草花が咲くと、それを見るとついつい続けてしまうと
氷が溶けると春になると、物理的には水になるんだが、春になると
先日、官憲に追われている男が亡くなった。最後は本名で死にたいと
しかし、現代でも、この情報化されたデジタル化された社会で半世紀にも及んで逃げていたと。昔のドラマ「逃亡者」を彷彿させる。明治期に秩父事件があった。秩父と言えば金子兜太。その秩父で武装蜂起後逃げ延びて変名を使って生き延びた者がいた。映画にもなった。草の乱。生き延びた北海道で死ぬ間際に子に自らを語ったと。変名や偽名は雅号や筆名とは違うんだな。巷では秩父事件と言われている。草の乱上映にあたって地元が協力したと。自主上映とは秩父事件について地元は誇りに思っているんだろうな。だから井上伝蔵も当時地元民に匿われて逃げ延びられた。金子兜太も言ったように、故郷や地元の歴史を知らずして、ふるさとを語れないな
刑法などの法律は、ある意味相対的である。その時は刑法上罪になったとしても、時代が変われば罪に問われない。それは時間の経過よりも、思考・思想が変わることにも寄る。時として倫理観も変わることもある。仏教では無常・諸行無常と言うが、それとは違うんだな。無常であるならば「常住」もあるんだろうな。物事の本質ではなく、時の権力者、為政者によって変わる。人の世ではどこの世界でも為政者次第と言うことが往々にしてある
人は喜怒哀楽の感情で生きているが、言葉で相手の表情を探る。先日電車に乗って宣伝広告を見ていたら、「言葉で語るな 金利で語れ」と
思わず笑っちゃった。宣伝主は新生銀行だった。「金利を」でなく「金利で」なんだな。粋な言葉だな。現実の社会では無理だが、いかにも本当らしく真実らしさがにじみ出ている。参っちゃう。宣伝とはいかにも本当らしく見せることかも知れない。まるっきり効能が嘘ではいけないが、嘘でなく虚偽でなく、最初から物理的に不可能なことを言うのはいいんじゃないかな。新生銀行も中々やるな、粋な人物がいるなという印象であった
宣伝とは、広辞苑によれば、宣とはのべること、しめすこと、広く告げ知らせること、と。宣伝とは、延べ伝えること、主義主張や商品の効能などを多くの人に説明して理解を共鳴させひろめること、と。そうだな、どんなに有能なものでも人に知られなければ、何も残らない。その点活版印刷とは画期的であった。その前には木版印刷が中国であったが、印刷技術そのものが画期的であった。何せ大量に迅速に広く知らしめることだから。一頃のテレビ媒体では、郵政と言えば民営化が巷に溢れ出た。チャンネルを変えても変態男が郵政民有化、改革と叫んでいた。
昨今では大谷と言えば翔平だ、ベイスボール・野球とは団体競技ではあるが個人それも自国出身の個人プレ-ヤ-をテレビ媒体は追っている。商品の宣伝においても質よりも量だな。昨今では言葉よりも映像・画像が幅を利かしている。何度も何度も飽くなき同じ画像を流している。それに釣られてニュ-ス・報道でも同じ映像を何度も流している。昔は言葉を扱う人にとっては同じ言葉・表現を使うなと。今じゃパソコンやスマ-トホンでも一度使用した言葉を記憶させて流している。役者も芝居と違って宣伝画面では表情が大げさで不自然でただただ笑っているか、口を大口を開けて喰っている。結局は目立つことが肝心だという姿勢である。表情がすぐに出ちゃう。あれは藝よりも何だな商魂だろうな
古来俳句とか短歌は思っていることの半分も言葉に出すことは嫌われる。グッと心の奥底に閉まっている。しかし宣伝とはテレビ宣伝とかネット宣伝は、心の扉を全開だな。奥ゆかしさはなく、ただ単にオワライをまっしぐらだな。昨今の「お笑い」は何が面白いのか自ら笑っている、いや笑いの絵文字と言うかな、お笑いの強制だな。笑いに失礼だな。小生は政治屋のことを利権屋と称しているが良人いや伴侶から差別用語になるよと言われたが、言葉とは他者に伝える手段なんだな
古人は工匠の業は千載を飾る。役者の業は一瞬を飾ると。福田恆存がいた。保守派の文士だったが、最近妙に福田恒存の言った言葉が思い出させる。偽悪とは他者を裏切ることだが、偽善とは自己を裏切ることだと。当たっているんだな。又埴谷雄高が、人には求心的に考える者と遠心的に考える者とがいると。埴谷雄高は求心的な思考であったが、行動は必ずしも求心的では無く、遠心的でもあったな。求心的を地でいったのは高橋和己だったな。いつしか小朝がポンテレの笑点の司会になった春風亭昇太を称して誰しも壁にぶちあたったら歴史、古典落語に戻るが、春風亭昇太は常に新しいことに進むと、だから壁が無いと。良く見ているな
大谷翔平の通訳だった水原一平が賭博・博打で賑わしている。水原一平はメモを取らなかったな、記憶ですぐさま言語を変換・翻訳していた印象があったがな。アメリカの州法では、賭博が合法か違法かは州によって違うと。同じ胴元が、ある州では合法で別の州では違法であると、その違いは八百長とかではなく、何だな。賭け金の上限とか事前に前払いか後払いかの技術的なことのようだ。賭博そのものが違法と決めつけていない。良く分からない。居住地で判断するのか博打場所、賭場で判断するのか分からない。どうして何億もの大金を博打賭金に賭けたのか分からない。そもそも博打そのものが良く分からない
麻雀や将棋や囲碁でまたはゴルフで賭けるのは分かる。博才とか旨い下手は分かる。勝ち負けの判断はすぐ分かる。そのため弱い者にはハンデイを付ける。ハンディによって強い、弱いをある程度均等化出来る。しかし良く時代劇で丁半博打を見かける。矢崎泰久が丁半博打では胴元が丁半の駒を揃えるのが腕だと言っていたが、何となく分かってきた。江戸期の丁半博打は客の丁と半を同数揃えなければ流れると。胴元は勝った客から寺銭を貰うだけだと。いわゆるショバ(場所)代だと。だから胴元が損することはないと。本来では、イカサマは無かったと
座頭市などの映画では丁半博打には八百長が付き物である。原則、胴元はショバ(場所)代を得る為八百長をやることも無い。しかし、虚構では面白くするために八百長をする。八百長すれば胴元が必ず勝つ。客に分からなければ必ず勝つ。麻雀なども手先が器用なら詰込みも出来るが、ばれたらおしまい。しかし、カジノではやったことがないので、胴元が必ず勝つのが分からない。多分胴元が負ける確率が少ないのだろうな。今回の胴元の弁護士は、水原一平は下手だったと。腕は関係するのか
話の特集を創刊した矢崎泰久が雑誌は読者に合わせちゃ駄目だと、作りたい物を作らなければ駄目だと、反権力、反権威、反体制を貫いた矢崎泰久が創刊の時に出資者を募ったがその中に石原慎太郎もいたと、軌道に乗ってきたので石原慎太郎から出資の買戻しを提案したが再三断られたと。その出資の代償として年に1回雑誌に掲載してくれと。やはり石原慎太郎も文士だったと。矢崎泰久の困った顔と妙に納得した顔が目に浮かぶようだな
博打も国家や権力者がやれば公認となる。しかも胴元はショバ(場所)代や手数料を懐に入れる。八百長などしなくても確実に懐に入る。賭ける金額が多くなればなるほど胴元の懐は豊かになる。謂わば公認賭博場だな。証券取引所がある。株式や債券の売買を扱っている場所だと。政府公認の賭場だな。ポン銀の国債の保有率が50%を超えていると。銀行・保険機関の保有率は、海外の保有率とかは定かでは無い。ましてや日本国民の保有率は分からない。いつしか安倍晋三が話していたが国債は国の借金だが、(胴元の)ポン銀が引き受ければ安心だと。そりゃそうだわ。金を刷る者と借りる者と貸す者が同一だからな。こりゃ八百屋の長さんではないのかな
そもそも日本銀行、通称ポン銀がよく分からない。中央銀行で、通貨及び金融の調節を行うに当たっては、物価の安定を図ることを通じて国民経済の健全な発展に資することをもって、その理念とすると。日本銀行の資本金は、政府及び政府以外の者からの出資による一億円とすると。前項の日本銀行の資本金のうち政府からの出資の額は、五千五百万円を下回ってはならないと。出資の半分以上は日本国となる。そして役職員は公務員ではないが、日本銀行法により公務に従事する職員とみなすと。やはり政府と密接な関係であろうな。お仲間であろうな
2012年(平成24年)安倍晋三が再度総理になった。翌年3月20日に黒田東彦がポン銀の総裁になった。通称アベ・クロ・コンビである。巷ではアベクロではなく、アベノミクスと言っていた。為替レートは1ドル100円前後であったな。それが政府・ポン銀一緒になって円をじゃぶじゃぶ刷り出した。円を大量に放出すると価値は下がるな。それを称して巷では誰が命名したかアベノミクスと称した。輸出産業はぼろ儲けだな。貿易などはドル建て決済だろうな。いままで100円が120円130円と瞬く間に2割3割と儲けが膨らんでいく。企業努力などお構いなしに上昇していく。まるで紙風船だな
消費税(付加価値税)はフランスで1959年に初めて導入されたと。消費税は国民が税をあまねく負担して相互扶助の精神であるので、貧富の格差もなく国民が平等である国家ではお互い理解し得る。税理士の湖東京至によると消費税とは輸出奨励・優遇税であると。納得できるんだな。氏によるとフランスは付加価値税を導入する際、直接税ではガット協定で輸出還付金が認められないため、付加価値税を間接税だと定義したと。そして間接税を還付するのだから、ガット協定に違反しないと主張したと。インボイス制度は直接税である付加価値税を間接税らしく見せるための誤魔化し手段であると
OECD加盟国で付加価値税(消費税)を導入していないのは州ごとに税制が大きく異なり、売上税と物品税が導入されているアメリカ合衆国のみであると。ちなみにOECD加盟国の中で欧州連合に属する国家は標準税率を15%以上にすることが義務付けられていると。日本では1989年(平成元年)4月に導入された。税率は3%、1997年に5%、2014年に8%、2019年10月からは標準税率10%・軽減税率8%と推移した。消費税とは国内取引、対価を得て事業者が事業として行う取引、資産の譲渡・貸付・役務の提供に限定されている。従って輸出は免税(0%)である。この輸出免税は諸外国共通のようだ
従って、従業員への給与支払は雇用契約に基づく労働の対価であるので不課税であると。派遣業者に支払う対価は課税で仕入控除できると。また社会政策的配慮から非課税取引として、土地の譲渡及び貸付、預貯金の利子、社会保険診療の給付や介護保険サービスの提供等、住宅の貸付を非課税としている
最近巷での噂話しはどうも良く分からない。巷での流言飛語まではいかないにしても多数意見には納得できないことが多い。極端には巷での話は、マスコミで大々的に話していることは疑った方が良い。電子計算機あるいはインタ-ネットが垣根無く使えるようになる前には、パソコンとは少数意見をあまねく伝えられるという意見が多かった。しかし昨今ではどうもその少数意見尊重は嘘のような気がする。少数意見どころか益々一極集中が強まったように感じる。政治には金がかかる。あれは嘘なんだな。政治でなく、選挙に金がかかるんだな。選挙も小選挙区制度にすると政党と政党の戦いになるので良い、自民党の派閥解消になるとか。また企業献金を止めて政党助成金制度にすると政治が明瞭になるとか。疑問符が多すぎる
今一つは、大きなことは消費税制度を導入して法人税率を減少すれば日本企業の国際競争力が高まるとか、この国の巷の経済評論家は言っていた。多数意見には眉唾物が多い。確かに法人実効税率は消費税導入以後下がってきた。30%を下がるようになってきた。東京証券取引所に上場している企業については会社四季報によると各企業の売上金額を国内売上と輸出の割合を示しているそうである。日本の上場企業・大企業輸出率は大きいように思う。推察する。村田製作所やTDKやヤマハ発動機やホンダやニコンなどは輸出率は80%超過とか。トヨタ自動車やキャノンも70%超過のようである。ひょっとすると手元に明確な資料がないが、日本企業は輸出で成り立っているような気がする。辛うじて国内消費ではなく輸出によって企業が存在しているような気がする。ここ数年、数十年日本企業の低下が目立っている。それは円の価値(円安)に端的に表れている。円安によって異国に販売することによって日本経済が成り立っているんじゃないかな
消費税の導入によって国際競争力を養うために法人税率を下げた。財務省公表の令和6年度税収予算案によると消費税が23兆8千億円、所得税が17兆9千億円、法人税が17兆円である。消費税が全体69兆6千億円のうち34%である。今では実に税収の1/3を消費税に依存している。しかも税率は時の政府によって匙加減である
国税庁では各税務署による税収を公表している。名古屋国税局の令和3年度消費税の納税は1兆8千億円、還付額は9千億円である。トヨタ自動車を管轄する豊田税務署では法人の消費税は納税額より還付額が多く、38百億円の還付である。国税庁公表の令和4年度消費税納税申告額は20兆円、還付税額は7兆円である。実に納税額の1/3の還付額があった。この還付額は輸出企業、輸出率が多い企業である。今更ながら還付額の大きさに驚く
消費税とは売上は課税、非課税、免税と別れる。そして仕入に係る消費税が、売上より大きければ還付される。非課税売上に係る仕入控除は出来ない。従って医療関係者に係る社会保険診療報酬は非課税であるため、対応する仕入控除は出来ない。それに比べ輸出免税に対応する仕入控除は出来るしカンプされると。確かに輸出企業が仕入業者に消費税を払ったのだから還付という表現になっている。自民党の裏金・闇金も還付と言う表現になっている。輸出企業では国家へ納税した物でなく、仕入先に支払った物の還付である。輸出企業にとっては仕入先への消費税は支払っていない結果になる。輸出だからと
輸出企業にとっては、消費税とは払っていない。いや国家から免除されていると。だから消費税率の上昇は輸出企業にとっては関係ない。ただ法人税率だけ支柱にすれば良い。インバウンドと言う言葉がよく使われている。インバウンドとは訪日外国人旅行または訪日旅行と言うと。異人にとって日本は異国であり異質である。しかも円の価値は安い。一頃は100円が150円である。異人にとって日本とは親切・丁寧であり、しかも自国よりも金銭価値が低い。日本の商人にとっては自国民に売却するよりも、異人相手の方が利益が多くなる。異人さまさまであろうな。商人にとってはだな
異国にとって昔の日本はジャパンは技術力も高かったし競争相手としては怖かった。しかし今では日本企業は怖くないのだな。円安になっても異国にとって異国の産業にとっては脅威に感じられないのだな。何時から国力、小生にしては意外にも国力と言う表現になったが、どうも異国の風向きが変わったようだな。国民・人民の集合体が国家の基盤であるが、国家の下に人民がある印象である。その国家があやふやのとうな感がする。異人とか異国によって日本は日本経済は成り立っている感がする
消費税とは赤字企業・事業者も納税する。輸出企業は納税しない。病院や介護施設は仕入に係る消費税額の支払いの負担が多い。消費者には税負担が多い。いや消費者の税負担は富に関係なく均等になる。税とは本来負担能力に応じて定めるべきであろうな。しかも税率は政府の匙加減である。相互扶助は難しい状況になりつつある
大正時代に、野口雨情は
赤い靴 はいてた 女の子
異人さんに つれられて 行っちゃった
横浜の 埠頭(はとば)から 船に乗って
異人さんに つれられて 行っちゃった
と歌った
何か悲しみが漂う歌である。野口雨情が何を考えていたか分からない
幕末、長州では攘夷が唱えられた。毛唐(ケトウ)とは差別用語であると、イテキ(夷狄)
とは蔑称語であった。しかし明治になると鹿鳴館時代である。世は変わる。人心も変わる。国士と言う言葉も聞かれなくなった。いや国士、憂国の士、国粋主義者もいなくなったか。要するに左翼も少なくなったが、右翼もいなくなったな。しかし尖閣諸島の国有化では瞬く間に寄付金が集まったとか
幕末の頃、鎖国であったので、黒船が浦賀に来た時には武士だけでなく皆沸き立った。異人が上陸するようになったら、異国の文明開化や産業革命を目指した。異国に追いつき追い越せが国是となった。しかし現代では販売は自国民より、異国異人主体である。食の自給自足も出来なく、食は輸入次第だが、加工品は異国・異人相手になりつつあるな。ある意味危惧である
4月12日朝日新聞耕論でエコノミストの崔真淑が日経平均株価の4万円越えや不動産投資信託の上昇は海外マネ-の恩恵の影響である。消費指数はむしろ低下している、消費が弱いことが、生活が豊かになったと感じる人が少ないのではないかと。普段経済評論家とは小難しいことが多く良く分からなかったが、素直にストレ-トに書いてスッと頭に入ってくる。日刊新聞に記載するに至った程、危惧を抱くのは小生だけではないなとホッとした
春が来・・・タ 春が来・・・タ
どこに来・・・タ
山に来・・・タ 里に来・・・タ
野にも来・・・タ
たわいもない歌だが、タを抜いてある 通称タ抜きの歌だと
これは歌だから声を出して歌わねばならぬ
そして、タを声に出さない、黙する
しかし タ が重要なんだな
イギリスの格言に、「3月はライオンのようにやってきて、子羊のように去っていく」と
春めくと言う言葉もある。春はあけぼの。やうやう白くなりゆく、春眠暁を覚えず
春とは何となく希望を抱かせる季節でもある
山田洋次の「遥かなる山の呼び声」だったかな。舞台は北海道中標津。亡夫が残した牧場を一人で経営する女(倍賞千恵子)の下に官憲に追われている男(高倉健)がやって来た。シェ-ンを彷彿させる作品であった
高倉健扮する男が、倍賞千恵子扮する女に、牧場の仕事は一人で辛くないですかと聞く
女は一呼吸おいて、本当は辛いです と
しかし毎年冬が明けて春になると、野原一面草花が咲くと、それを見るとついつい続けてしまうと
氷が溶けると春になると、物理的には水になるんだが、春になると
先日、官憲に追われている男が亡くなった。最後は本名で死にたいと
しかし、現代でも、この情報化されたデジタル化された社会で半世紀にも及んで逃げていたと。昔のドラマ「逃亡者」を彷彿させる。明治期に秩父事件があった。秩父と言えば金子兜太。その秩父で武装蜂起後逃げ延びて変名を使って生き延びた者がいた。映画にもなった。草の乱。生き延びた北海道で死ぬ間際に子に自らを語ったと。変名や偽名は雅号や筆名とは違うんだな。巷では秩父事件と言われている。草の乱上映にあたって地元が協力したと。自主上映とは秩父事件について地元は誇りに思っているんだろうな。だから井上伝蔵も当時地元民に匿われて逃げ延びられた。金子兜太も言ったように、故郷や地元の歴史を知らずして、ふるさとを語れないな
刑法などの法律は、ある意味相対的である。その時は刑法上罪になったとしても、時代が変われば罪に問われない。それは時間の経過よりも、思考・思想が変わることにも寄る。時として倫理観も変わることもある。仏教では無常・諸行無常と言うが、それとは違うんだな。無常であるならば「常住」もあるんだろうな。物事の本質ではなく、時の権力者、為政者によって変わる。人の世ではどこの世界でも為政者次第と言うことが往々にしてある
人は喜怒哀楽の感情で生きているが、言葉で相手の表情を探る。先日電車に乗って宣伝広告を見ていたら、「言葉で語るな 金利で語れ」と
思わず笑っちゃった。宣伝主は新生銀行だった。「金利を」でなく「金利で」なんだな。粋な言葉だな。現実の社会では無理だが、いかにも本当らしく真実らしさがにじみ出ている。参っちゃう。宣伝とはいかにも本当らしく見せることかも知れない。まるっきり効能が嘘ではいけないが、嘘でなく虚偽でなく、最初から物理的に不可能なことを言うのはいいんじゃないかな。新生銀行も中々やるな、粋な人物がいるなという印象であった
宣伝とは、広辞苑によれば、宣とはのべること、しめすこと、広く告げ知らせること、と。宣伝とは、延べ伝えること、主義主張や商品の効能などを多くの人に説明して理解を共鳴させひろめること、と。そうだな、どんなに有能なものでも人に知られなければ、何も残らない。その点活版印刷とは画期的であった。その前には木版印刷が中国であったが、印刷技術そのものが画期的であった。何せ大量に迅速に広く知らしめることだから。一頃のテレビ媒体では、郵政と言えば民営化が巷に溢れ出た。チャンネルを変えても変態男が郵政民有化、改革と叫んでいた。
昨今では大谷と言えば翔平だ、ベイスボール・野球とは団体競技ではあるが個人それも自国出身の個人プレ-ヤ-をテレビ媒体は追っている。商品の宣伝においても質よりも量だな。昨今では言葉よりも映像・画像が幅を利かしている。何度も何度も飽くなき同じ画像を流している。それに釣られてニュ-ス・報道でも同じ映像を何度も流している。昔は言葉を扱う人にとっては同じ言葉・表現を使うなと。今じゃパソコンやスマ-トホンでも一度使用した言葉を記憶させて流している。役者も芝居と違って宣伝画面では表情が大げさで不自然でただただ笑っているか、口を大口を開けて喰っている。結局は目立つことが肝心だという姿勢である。表情がすぐに出ちゃう。あれは藝よりも何だな商魂だろうな
古来俳句とか短歌は思っていることの半分も言葉に出すことは嫌われる。グッと心の奥底に閉まっている。しかし宣伝とはテレビ宣伝とかネット宣伝は、心の扉を全開だな。奥ゆかしさはなく、ただ単にオワライをまっしぐらだな。昨今の「お笑い」は何が面白いのか自ら笑っている、いや笑いの絵文字と言うかな、お笑いの強制だな。笑いに失礼だな。小生は政治屋のことを利権屋と称しているが良人いや伴侶から差別用語になるよと言われたが、言葉とは他者に伝える手段なんだな
古人は工匠の業は千載を飾る。役者の業は一瞬を飾ると。福田恆存がいた。保守派の文士だったが、最近妙に福田恒存の言った言葉が思い出させる。偽悪とは他者を裏切ることだが、偽善とは自己を裏切ることだと。当たっているんだな。又埴谷雄高が、人には求心的に考える者と遠心的に考える者とがいると。埴谷雄高は求心的な思考であったが、行動は必ずしも求心的では無く、遠心的でもあったな。求心的を地でいったのは高橋和己だったな。いつしか小朝がポンテレの笑点の司会になった春風亭昇太を称して誰しも壁にぶちあたったら歴史、古典落語に戻るが、春風亭昇太は常に新しいことに進むと、だから壁が無いと。良く見ているな
大谷翔平の通訳だった水原一平が賭博・博打で賑わしている。水原一平はメモを取らなかったな、記憶ですぐさま言語を変換・翻訳していた印象があったがな。アメリカの州法では、賭博が合法か違法かは州によって違うと。同じ胴元が、ある州では合法で別の州では違法であると、その違いは八百長とかではなく、何だな。賭け金の上限とか事前に前払いか後払いかの技術的なことのようだ。賭博そのものが違法と決めつけていない。良く分からない。居住地で判断するのか博打場所、賭場で判断するのか分からない。どうして何億もの大金を博打賭金に賭けたのか分からない。そもそも博打そのものが良く分からない
麻雀や将棋や囲碁でまたはゴルフで賭けるのは分かる。博才とか旨い下手は分かる。勝ち負けの判断はすぐ分かる。そのため弱い者にはハンデイを付ける。ハンディによって強い、弱いをある程度均等化出来る。しかし良く時代劇で丁半博打を見かける。矢崎泰久が丁半博打では胴元が丁半の駒を揃えるのが腕だと言っていたが、何となく分かってきた。江戸期の丁半博打は客の丁と半を同数揃えなければ流れると。胴元は勝った客から寺銭を貰うだけだと。いわゆるショバ(場所)代だと。だから胴元が損することはないと。本来では、イカサマは無かったと
座頭市などの映画では丁半博打には八百長が付き物である。原則、胴元はショバ(場所)代を得る為八百長をやることも無い。しかし、虚構では面白くするために八百長をする。八百長すれば胴元が必ず勝つ。客に分からなければ必ず勝つ。麻雀なども手先が器用なら詰込みも出来るが、ばれたらおしまい。しかし、カジノではやったことがないので、胴元が必ず勝つのが分からない。多分胴元が負ける確率が少ないのだろうな。今回の胴元の弁護士は、水原一平は下手だったと。腕は関係するのか
話の特集を創刊した矢崎泰久が雑誌は読者に合わせちゃ駄目だと、作りたい物を作らなければ駄目だと、反権力、反権威、反体制を貫いた矢崎泰久が創刊の時に出資者を募ったがその中に石原慎太郎もいたと、軌道に乗ってきたので石原慎太郎から出資の買戻しを提案したが再三断られたと。その出資の代償として年に1回雑誌に掲載してくれと。やはり石原慎太郎も文士だったと。矢崎泰久の困った顔と妙に納得した顔が目に浮かぶようだな
博打も国家や権力者がやれば公認となる。しかも胴元はショバ(場所)代や手数料を懐に入れる。八百長などしなくても確実に懐に入る。賭ける金額が多くなればなるほど胴元の懐は豊かになる。謂わば公認賭博場だな。証券取引所がある。株式や債券の売買を扱っている場所だと。政府公認の賭場だな。ポン銀の国債の保有率が50%を超えていると。銀行・保険機関の保有率は、海外の保有率とかは定かでは無い。ましてや日本国民の保有率は分からない。いつしか安倍晋三が話していたが国債は国の借金だが、(胴元の)ポン銀が引き受ければ安心だと。そりゃそうだわ。金を刷る者と借りる者と貸す者が同一だからな。こりゃ八百屋の長さんではないのかな
そもそも日本銀行、通称ポン銀がよく分からない。中央銀行で、通貨及び金融の調節を行うに当たっては、物価の安定を図ることを通じて国民経済の健全な発展に資することをもって、その理念とすると。日本銀行の資本金は、政府及び政府以外の者からの出資による一億円とすると。前項の日本銀行の資本金のうち政府からの出資の額は、五千五百万円を下回ってはならないと。出資の半分以上は日本国となる。そして役職員は公務員ではないが、日本銀行法により公務に従事する職員とみなすと。やはり政府と密接な関係であろうな。お仲間であろうな
2012年(平成24年)安倍晋三が再度総理になった。翌年3月20日に黒田東彦がポン銀の総裁になった。通称アベ・クロ・コンビである。巷ではアベクロではなく、アベノミクスと言っていた。為替レートは1ドル100円前後であったな。それが政府・ポン銀一緒になって円をじゃぶじゃぶ刷り出した。円を大量に放出すると価値は下がるな。それを称して巷では誰が命名したかアベノミクスと称した。輸出産業はぼろ儲けだな。貿易などはドル建て決済だろうな。いままで100円が120円130円と瞬く間に2割3割と儲けが膨らんでいく。企業努力などお構いなしに上昇していく。まるで紙風船だな
消費税(付加価値税)はフランスで1959年に初めて導入されたと。消費税は国民が税をあまねく負担して相互扶助の精神であるので、貧富の格差もなく国民が平等である国家ではお互い理解し得る。税理士の湖東京至によると消費税とは輸出奨励・優遇税であると。納得できるんだな。氏によるとフランスは付加価値税を導入する際、直接税ではガット協定で輸出還付金が認められないため、付加価値税を間接税だと定義したと。そして間接税を還付するのだから、ガット協定に違反しないと主張したと。インボイス制度は直接税である付加価値税を間接税らしく見せるための誤魔化し手段であると
OECD加盟国で付加価値税(消費税)を導入していないのは州ごとに税制が大きく異なり、売上税と物品税が導入されているアメリカ合衆国のみであると。ちなみにOECD加盟国の中で欧州連合に属する国家は標準税率を15%以上にすることが義務付けられていると。日本では1989年(平成元年)4月に導入された。税率は3%、1997年に5%、2014年に8%、2019年10月からは標準税率10%・軽減税率8%と推移した。消費税とは国内取引、対価を得て事業者が事業として行う取引、資産の譲渡・貸付・役務の提供に限定されている。従って輸出は免税(0%)である。この輸出免税は諸外国共通のようだ
従って、従業員への給与支払は雇用契約に基づく労働の対価であるので不課税であると。派遣業者に支払う対価は課税で仕入控除できると。また社会政策的配慮から非課税取引として、土地の譲渡及び貸付、預貯金の利子、社会保険診療の給付や介護保険サービスの提供等、住宅の貸付を非課税としている
最近巷での噂話しはどうも良く分からない。巷での流言飛語まではいかないにしても多数意見には納得できないことが多い。極端には巷での話は、マスコミで大々的に話していることは疑った方が良い。電子計算機あるいはインタ-ネットが垣根無く使えるようになる前には、パソコンとは少数意見をあまねく伝えられるという意見が多かった。しかし昨今ではどうもその少数意見尊重は嘘のような気がする。少数意見どころか益々一極集中が強まったように感じる。政治には金がかかる。あれは嘘なんだな。政治でなく、選挙に金がかかるんだな。選挙も小選挙区制度にすると政党と政党の戦いになるので良い、自民党の派閥解消になるとか。また企業献金を止めて政党助成金制度にすると政治が明瞭になるとか。疑問符が多すぎる
今一つは、大きなことは消費税制度を導入して法人税率を減少すれば日本企業の国際競争力が高まるとか、この国の巷の経済評論家は言っていた。多数意見には眉唾物が多い。確かに法人実効税率は消費税導入以後下がってきた。30%を下がるようになってきた。東京証券取引所に上場している企業については会社四季報によると各企業の売上金額を国内売上と輸出の割合を示しているそうである。日本の上場企業・大企業輸出率は大きいように思う。推察する。村田製作所やTDKやヤマハ発動機やホンダやニコンなどは輸出率は80%超過とか。トヨタ自動車やキャノンも70%超過のようである。ひょっとすると手元に明確な資料がないが、日本企業は輸出で成り立っているような気がする。辛うじて国内消費ではなく輸出によって企業が存在しているような気がする。ここ数年、数十年日本企業の低下が目立っている。それは円の価値(円安)に端的に表れている。円安によって異国に販売することによって日本経済が成り立っているんじゃないかな
消費税の導入によって国際競争力を養うために法人税率を下げた。財務省公表の令和6年度税収予算案によると消費税が23兆8千億円、所得税が17兆9千億円、法人税が17兆円である。消費税が全体69兆6千億円のうち34%である。今では実に税収の1/3を消費税に依存している。しかも税率は時の政府によって匙加減である
国税庁では各税務署による税収を公表している。名古屋国税局の令和3年度消費税の納税は1兆8千億円、還付額は9千億円である。トヨタ自動車を管轄する豊田税務署では法人の消費税は納税額より還付額が多く、38百億円の還付である。国税庁公表の令和4年度消費税納税申告額は20兆円、還付税額は7兆円である。実に納税額の1/3の還付額があった。この還付額は輸出企業、輸出率が多い企業である。今更ながら還付額の大きさに驚く
消費税とは売上は課税、非課税、免税と別れる。そして仕入に係る消費税が、売上より大きければ還付される。非課税売上に係る仕入控除は出来ない。従って医療関係者に係る社会保険診療報酬は非課税であるため、対応する仕入控除は出来ない。それに比べ輸出免税に対応する仕入控除は出来るしカンプされると。確かに輸出企業が仕入業者に消費税を払ったのだから還付という表現になっている。自民党の裏金・闇金も還付と言う表現になっている。輸出企業では国家へ納税した物でなく、仕入先に支払った物の還付である。輸出企業にとっては仕入先への消費税は支払っていない結果になる。輸出だからと
輸出企業にとっては、消費税とは払っていない。いや国家から免除されていると。だから消費税率の上昇は輸出企業にとっては関係ない。ただ法人税率だけ支柱にすれば良い。インバウンドと言う言葉がよく使われている。インバウンドとは訪日外国人旅行または訪日旅行と言うと。異人にとって日本は異国であり異質である。しかも円の価値は安い。一頃は100円が150円である。異人にとって日本とは親切・丁寧であり、しかも自国よりも金銭価値が低い。日本の商人にとっては自国民に売却するよりも、異人相手の方が利益が多くなる。異人さまさまであろうな。商人にとってはだな
異国にとって昔の日本はジャパンは技術力も高かったし競争相手としては怖かった。しかし今では日本企業は怖くないのだな。円安になっても異国にとって異国の産業にとっては脅威に感じられないのだな。何時から国力、小生にしては意外にも国力と言う表現になったが、どうも異国の風向きが変わったようだな。国民・人民の集合体が国家の基盤であるが、国家の下に人民がある印象である。その国家があやふやのとうな感がする。異人とか異国によって日本は日本経済は成り立っている感がする
消費税とは赤字企業・事業者も納税する。輸出企業は納税しない。病院や介護施設は仕入に係る消費税額の支払いの負担が多い。消費者には税負担が多い。いや消費者の税負担は富に関係なく均等になる。税とは本来負担能力に応じて定めるべきであろうな。しかも税率は政府の匙加減である。相互扶助は難しい状況になりつつある
大正時代に、野口雨情は
赤い靴 はいてた 女の子
異人さんに つれられて 行っちゃった
横浜の 埠頭(はとば)から 船に乗って
異人さんに つれられて 行っちゃった
と歌った
何か悲しみが漂う歌である。野口雨情が何を考えていたか分からない
幕末、長州では攘夷が唱えられた。毛唐(ケトウ)とは差別用語であると、イテキ(夷狄)
とは蔑称語であった。しかし明治になると鹿鳴館時代である。世は変わる。人心も変わる。国士と言う言葉も聞かれなくなった。いや国士、憂国の士、国粋主義者もいなくなったか。要するに左翼も少なくなったが、右翼もいなくなったな。しかし尖閣諸島の国有化では瞬く間に寄付金が集まったとか
幕末の頃、鎖国であったので、黒船が浦賀に来た時には武士だけでなく皆沸き立った。異人が上陸するようになったら、異国の文明開化や産業革命を目指した。異国に追いつき追い越せが国是となった。しかし現代では販売は自国民より、異国異人主体である。食の自給自足も出来なく、食は輸入次第だが、加工品は異国・異人相手になりつつあるな。ある意味危惧である
4月12日朝日新聞耕論でエコノミストの崔真淑が日経平均株価の4万円越えや不動産投資信託の上昇は海外マネ-の恩恵の影響である。消費指数はむしろ低下している、消費が弱いことが、生活が豊かになったと感じる人が少ないのではないかと。普段経済評論家とは小難しいことが多く良く分からなかったが、素直にストレ-トに書いてスッと頭に入ってくる。日刊新聞に記載するに至った程、危惧を抱くのは小生だけではないなとホッとした