風のたより

電子計算機とは一極集中の現象が大であるが、その合間を縫って風の一頁を

仮説.黒船の襲来、輸出と消費税

2024-04-17 10:30:49 | 世評
とある宴席でタヌキの歌を歌うと。小生はてっきり、しょう しょう しょじょうじのと歌い出すのかと思ったら
春が来・・・タ  春が来・・・タ
どこに来・・・タ
山に来・・・タ  里に来・・・タ
野にも来・・・タ
たわいもない歌だが、タを抜いてある 通称タ抜きの歌だと
これは歌だから声を出して歌わねばならぬ
そして、タを声に出さない、黙する
しかし タ が重要なんだな

イギリスの格言に、「3月はライオンのようにやってきて、子羊のように去っていく」と
春めくと言う言葉もある。春はあけぼの。やうやう白くなりゆく、春眠暁を覚えず
春とは何となく希望を抱かせる季節でもある

山田洋次の「遥かなる山の呼び声」だったかな。舞台は北海道中標津。亡夫が残した牧場を一人で経営する女(倍賞千恵子)の下に官憲に追われている男(高倉健)がやって来た。シェ-ンを彷彿させる作品であった
高倉健扮する男が、倍賞千恵子扮する女に、牧場の仕事は一人で辛くないですかと聞く
女は一呼吸おいて、本当は辛いです と
しかし毎年冬が明けて春になると、野原一面草花が咲くと、それを見るとついつい続けてしまうと
氷が溶けると春になると、物理的には水になるんだが、春になると

先日、官憲に追われている男が亡くなった。最後は本名で死にたいと
しかし、現代でも、この情報化されたデジタル化された社会で半世紀にも及んで逃げていたと。昔のドラマ「逃亡者」を彷彿させる。明治期に秩父事件があった。秩父と言えば金子兜太。その秩父で武装蜂起後逃げ延びて変名を使って生き延びた者がいた。映画にもなった。草の乱。生き延びた北海道で死ぬ間際に子に自らを語ったと。変名や偽名は雅号や筆名とは違うんだな。巷では秩父事件と言われている。草の乱上映にあたって地元が協力したと。自主上映とは秩父事件について地元は誇りに思っているんだろうな。だから井上伝蔵も当時地元民に匿われて逃げ延びられた。金子兜太も言ったように、故郷や地元の歴史を知らずして、ふるさとを語れないな

刑法などの法律は、ある意味相対的である。その時は刑法上罪になったとしても、時代が変われば罪に問われない。それは時間の経過よりも、思考・思想が変わることにも寄る。時として倫理観も変わることもある。仏教では無常・諸行無常と言うが、それとは違うんだな。無常であるならば「常住」もあるんだろうな。物事の本質ではなく、時の権力者、為政者によって変わる。人の世ではどこの世界でも為政者次第と言うことが往々にしてある

人は喜怒哀楽の感情で生きているが、言葉で相手の表情を探る。先日電車に乗って宣伝広告を見ていたら、「言葉で語るな 金利で語れ」と
思わず笑っちゃった。宣伝主は新生銀行だった。「金利を」でなく「金利で」なんだな。粋な言葉だな。現実の社会では無理だが、いかにも本当らしく真実らしさがにじみ出ている。参っちゃう。宣伝とはいかにも本当らしく見せることかも知れない。まるっきり効能が嘘ではいけないが、嘘でなく虚偽でなく、最初から物理的に不可能なことを言うのはいいんじゃないかな。新生銀行も中々やるな、粋な人物がいるなという印象であった

宣伝とは、広辞苑によれば、宣とはのべること、しめすこと、広く告げ知らせること、と。宣伝とは、延べ伝えること、主義主張や商品の効能などを多くの人に説明して理解を共鳴させひろめること、と。そうだな、どんなに有能なものでも人に知られなければ、何も残らない。その点活版印刷とは画期的であった。その前には木版印刷が中国であったが、印刷技術そのものが画期的であった。何せ大量に迅速に広く知らしめることだから。一頃のテレビ媒体では、郵政と言えば民営化が巷に溢れ出た。チャンネルを変えても変態男が郵政民有化、改革と叫んでいた。

昨今では大谷と言えば翔平だ、ベイスボール・野球とは団体競技ではあるが個人それも自国出身の個人プレ-ヤ-をテレビ媒体は追っている。商品の宣伝においても質よりも量だな。昨今では言葉よりも映像・画像が幅を利かしている。何度も何度も飽くなき同じ画像を流している。それに釣られてニュ-ス・報道でも同じ映像を何度も流している。昔は言葉を扱う人にとっては同じ言葉・表現を使うなと。今じゃパソコンやスマ-トホンでも一度使用した言葉を記憶させて流している。役者も芝居と違って宣伝画面では表情が大げさで不自然でただただ笑っているか、口を大口を開けて喰っている。結局は目立つことが肝心だという姿勢である。表情がすぐに出ちゃう。あれは藝よりも何だな商魂だろうな

古来俳句とか短歌は思っていることの半分も言葉に出すことは嫌われる。グッと心の奥底に閉まっている。しかし宣伝とはテレビ宣伝とかネット宣伝は、心の扉を全開だな。奥ゆかしさはなく、ただ単にオワライをまっしぐらだな。昨今の「お笑い」は何が面白いのか自ら笑っている、いや笑いの絵文字と言うかな、お笑いの強制だな。笑いに失礼だな。小生は政治屋のことを利権屋と称しているが良人いや伴侶から差別用語になるよと言われたが、言葉とは他者に伝える手段なんだな

古人は工匠の業は千載を飾る。役者の業は一瞬を飾ると。福田恆存がいた。保守派の文士だったが、最近妙に福田恒存の言った言葉が思い出させる。偽悪とは他者を裏切ることだが、偽善とは自己を裏切ることだと。当たっているんだな。又埴谷雄高が、人には求心的に考える者と遠心的に考える者とがいると。埴谷雄高は求心的な思考であったが、行動は必ずしも求心的では無く、遠心的でもあったな。求心的を地でいったのは高橋和己だったな。いつしか小朝がポンテレの笑点の司会になった春風亭昇太を称して誰しも壁にぶちあたったら歴史、古典落語に戻るが、春風亭昇太は常に新しいことに進むと、だから壁が無いと。良く見ているな

大谷翔平の通訳だった水原一平が賭博・博打で賑わしている。水原一平はメモを取らなかったな、記憶ですぐさま言語を変換・翻訳していた印象があったがな。アメリカの州法では、賭博が合法か違法かは州によって違うと。同じ胴元が、ある州では合法で別の州では違法であると、その違いは八百長とかではなく、何だな。賭け金の上限とか事前に前払いか後払いかの技術的なことのようだ。賭博そのものが違法と決めつけていない。良く分からない。居住地で判断するのか博打場所、賭場で判断するのか分からない。どうして何億もの大金を博打賭金に賭けたのか分からない。そもそも博打そのものが良く分からない

麻雀や将棋や囲碁でまたはゴルフで賭けるのは分かる。博才とか旨い下手は分かる。勝ち負けの判断はすぐ分かる。そのため弱い者にはハンデイを付ける。ハンディによって強い、弱いをある程度均等化出来る。しかし良く時代劇で丁半博打を見かける。矢崎泰久が丁半博打では胴元が丁半の駒を揃えるのが腕だと言っていたが、何となく分かってきた。江戸期の丁半博打は客の丁と半を同数揃えなければ流れると。胴元は勝った客から寺銭を貰うだけだと。いわゆるショバ(場所)代だと。だから胴元が損することはないと。本来では、イカサマは無かったと

座頭市などの映画では丁半博打には八百長が付き物である。原則、胴元はショバ(場所)代を得る為八百長をやることも無い。しかし、虚構では面白くするために八百長をする。八百長すれば胴元が必ず勝つ。客に分からなければ必ず勝つ。麻雀なども手先が器用なら詰込みも出来るが、ばれたらおしまい。しかし、カジノではやったことがないので、胴元が必ず勝つのが分からない。多分胴元が負ける確率が少ないのだろうな。今回の胴元の弁護士は、水原一平は下手だったと。腕は関係するのか

話の特集を創刊した矢崎泰久が雑誌は読者に合わせちゃ駄目だと、作りたい物を作らなければ駄目だと、反権力、反権威、反体制を貫いた矢崎泰久が創刊の時に出資者を募ったがその中に石原慎太郎もいたと、軌道に乗ってきたので石原慎太郎から出資の買戻しを提案したが再三断られたと。その出資の代償として年に1回雑誌に掲載してくれと。やはり石原慎太郎も文士だったと。矢崎泰久の困った顔と妙に納得した顔が目に浮かぶようだな

博打も国家や権力者がやれば公認となる。しかも胴元はショバ(場所)代や手数料を懐に入れる。八百長などしなくても確実に懐に入る。賭ける金額が多くなればなるほど胴元の懐は豊かになる。謂わば公認賭博場だな。証券取引所がある。株式や債券の売買を扱っている場所だと。政府公認の賭場だな。ポン銀の国債の保有率が50%を超えていると。銀行・保険機関の保有率は、海外の保有率とかは定かでは無い。ましてや日本国民の保有率は分からない。いつしか安倍晋三が話していたが国債は国の借金だが、(胴元の)ポン銀が引き受ければ安心だと。そりゃそうだわ。金を刷る者と借りる者と貸す者が同一だからな。こりゃ八百屋の長さんではないのかな

そもそも日本銀行、通称ポン銀がよく分からない。中央銀行で、通貨及び金融の調節を行うに当たっては、物価の安定を図ることを通じて国民経済の健全な発展に資することをもって、その理念とすると。日本銀行の資本金は、政府及び政府以外の者からの出資による一億円とすると。前項の日本銀行の資本金のうち政府からの出資の額は、五千五百万円を下回ってはならないと。出資の半分以上は日本国となる。そして役職員は公務員ではないが、日本銀行法により公務に従事する職員とみなすと。やはり政府と密接な関係であろうな。お仲間であろうな

2012年(平成24年)安倍晋三が再度総理になった。翌年3月20日に黒田東彦がポン銀の総裁になった。通称アベ・クロ・コンビである。巷ではアベクロではなく、アベノミクスと言っていた。為替レートは1ドル100円前後であったな。それが政府・ポン銀一緒になって円をじゃぶじゃぶ刷り出した。円を大量に放出すると価値は下がるな。それを称して巷では誰が命名したかアベノミクスと称した。輸出産業はぼろ儲けだな。貿易などはドル建て決済だろうな。いままで100円が120円130円と瞬く間に2割3割と儲けが膨らんでいく。企業努力などお構いなしに上昇していく。まるで紙風船だな

消費税(付加価値税)はフランスで1959年に初めて導入されたと。消費税は国民が税をあまねく負担して相互扶助の精神であるので、貧富の格差もなく国民が平等である国家ではお互い理解し得る。税理士の湖東京至によると消費税とは輸出奨励・優遇税であると。納得できるんだな。氏によるとフランスは付加価値税を導入する際、直接税ではガット協定で輸出還付金が認められないため、付加価値税を間接税だと定義したと。そして間接税を還付するのだから、ガット協定に違反しないと主張したと。インボイス制度は直接税である付加価値税を間接税らしく見せるための誤魔化し手段であると

OECD加盟国で付加価値税(消費税)を導入していないのは州ごとに税制が大きく異なり、売上税と物品税が導入されているアメリカ合衆国のみであると。ちなみにOECD加盟国の中で欧州連合に属する国家は標準税率を15%以上にすることが義務付けられていると。日本では1989年(平成元年)4月に導入された。税率は3%、1997年に5%、2014年に8%、2019年10月からは標準税率10%・軽減税率8%と推移した。消費税とは国内取引、対価を得て事業者が事業として行う取引、資産の譲渡・貸付・役務の提供に限定されている。従って輸出は免税(0%)である。この輸出免税は諸外国共通のようだ

従って、従業員への給与支払は雇用契約に基づく労働の対価であるので不課税であると。派遣業者に支払う対価は課税で仕入控除できると。また社会政策的配慮から非課税取引として、土地の譲渡及び貸付、預貯金の利子、社会保険診療の給付や介護保険サービスの提供等、住宅の貸付を非課税としている

最近巷での噂話しはどうも良く分からない。巷での流言飛語まではいかないにしても多数意見には納得できないことが多い。極端には巷での話は、マスコミで大々的に話していることは疑った方が良い。電子計算機あるいはインタ-ネットが垣根無く使えるようになる前には、パソコンとは少数意見をあまねく伝えられるという意見が多かった。しかし昨今ではどうもその少数意見尊重は嘘のような気がする。少数意見どころか益々一極集中が強まったように感じる。政治には金がかかる。あれは嘘なんだな。政治でなく、選挙に金がかかるんだな。選挙も小選挙区制度にすると政党と政党の戦いになるので良い、自民党の派閥解消になるとか。また企業献金を止めて政党助成金制度にすると政治が明瞭になるとか。疑問符が多すぎる

今一つは、大きなことは消費税制度を導入して法人税率を減少すれば日本企業の国際競争力が高まるとか、この国の巷の経済評論家は言っていた。多数意見には眉唾物が多い。確かに法人実効税率は消費税導入以後下がってきた。30%を下がるようになってきた。東京証券取引所に上場している企業については会社四季報によると各企業の売上金額を国内売上と輸出の割合を示しているそうである。日本の上場企業・大企業輸出率は大きいように思う。推察する。村田製作所やTDKやヤマハ発動機やホンダやニコンなどは輸出率は80%超過とか。トヨタ自動車やキャノンも70%超過のようである。ひょっとすると手元に明確な資料がないが、日本企業は輸出で成り立っているような気がする。辛うじて国内消費ではなく輸出によって企業が存在しているような気がする。ここ数年、数十年日本企業の低下が目立っている。それは円の価値(円安)に端的に表れている。円安によって異国に販売することによって日本経済が成り立っているんじゃないかな

消費税の導入によって国際競争力を養うために法人税率を下げた。財務省公表の令和6年度税収予算案によると消費税が23兆8千億円、所得税が17兆9千億円、法人税が17兆円である。消費税が全体69兆6千億円のうち34%である。今では実に税収の1/3を消費税に依存している。しかも税率は時の政府によって匙加減である

国税庁では各税務署による税収を公表している。名古屋国税局の令和3年度消費税の納税は1兆8千億円、還付額は9千億円である。トヨタ自動車を管轄する豊田税務署では法人の消費税は納税額より還付額が多く、38百億円の還付である。国税庁公表の令和4年度消費税納税申告額は20兆円、還付税額は7兆円である。実に納税額の1/3の還付額があった。この還付額は輸出企業、輸出率が多い企業である。今更ながら還付額の大きさに驚く

消費税とは売上は課税、非課税、免税と別れる。そして仕入に係る消費税が、売上より大きければ還付される。非課税売上に係る仕入控除は出来ない。従って医療関係者に係る社会保険診療報酬は非課税であるため、対応する仕入控除は出来ない。それに比べ輸出免税に対応する仕入控除は出来るしカンプされると。確かに輸出企業が仕入業者に消費税を払ったのだから還付という表現になっている。自民党の裏金・闇金も還付と言う表現になっている。輸出企業では国家へ納税した物でなく、仕入先に支払った物の還付である。輸出企業にとっては仕入先への消費税は支払っていない結果になる。輸出だからと

輸出企業にとっては、消費税とは払っていない。いや国家から免除されていると。だから消費税率の上昇は輸出企業にとっては関係ない。ただ法人税率だけ支柱にすれば良い。インバウンドと言う言葉がよく使われている。インバウンドとは訪日外国人旅行または訪日旅行と言うと。異人にとって日本は異国であり異質である。しかも円の価値は安い。一頃は100円が150円である。異人にとって日本とは親切・丁寧であり、しかも自国よりも金銭価値が低い。日本の商人にとっては自国民に売却するよりも、異人相手の方が利益が多くなる。異人さまさまであろうな。商人にとってはだな

異国にとって昔の日本はジャパンは技術力も高かったし競争相手としては怖かった。しかし今では日本企業は怖くないのだな。円安になっても異国にとって異国の産業にとっては脅威に感じられないのだな。何時から国力、小生にしては意外にも国力と言う表現になったが、どうも異国の風向きが変わったようだな。国民・人民の集合体が国家の基盤であるが、国家の下に人民がある印象である。その国家があやふやのとうな感がする。異人とか異国によって日本は日本経済は成り立っている感がする

消費税とは赤字企業・事業者も納税する。輸出企業は納税しない。病院や介護施設は仕入に係る消費税額の支払いの負担が多い。消費者には税負担が多い。いや消費者の税負担は富に関係なく均等になる。税とは本来負担能力に応じて定めるべきであろうな。しかも税率は政府の匙加減である。相互扶助は難しい状況になりつつある

大正時代に、野口雨情は
赤い靴 はいてた 女の子
異人さんに つれられて 行っちゃった
横浜の 埠頭(はとば)から 船に乗って
異人さんに つれられて 行っちゃった
と歌った
何か悲しみが漂う歌である。野口雨情が何を考えていたか分からない

幕末、長州では攘夷が唱えられた。毛唐(ケトウ)とは差別用語であると、イテキ(夷狄)
とは蔑称語であった。しかし明治になると鹿鳴館時代である。世は変わる。人心も変わる。国士と言う言葉も聞かれなくなった。いや国士、憂国の士、国粋主義者もいなくなったか。要するに左翼も少なくなったが、右翼もいなくなったな。しかし尖閣諸島の国有化では瞬く間に寄付金が集まったとか

幕末の頃、鎖国であったので、黒船が浦賀に来た時には武士だけでなく皆沸き立った。異人が上陸するようになったら、異国の文明開化や産業革命を目指した。異国に追いつき追い越せが国是となった。しかし現代では販売は自国民より、異国異人主体である。食の自給自足も出来なく、食は輸入次第だが、加工品は異国・異人相手になりつつあるな。ある意味危惧である

4月12日朝日新聞耕論でエコノミストの崔真淑が日経平均株価の4万円越えや不動産投資信託の上昇は海外マネ-の恩恵の影響である。消費指数はむしろ低下している、消費が弱いことが、生活が豊かになったと感じる人が少ないのではないかと。普段経済評論家とは小難しいことが多く良く分からなかったが、素直にストレ-トに書いてスッと頭に入ってくる。日刊新聞に記載するに至った程、危惧を抱くのは小生だけではないなとホッとした


大学の自治

2023-08-16 11:37:41 | 世評
八月や 六日 九日 十五日
ハチガツヤ ムイカココノカ ジュウゴニチ

おどま 盆ぎり盆ぎり~~~
盆から 先きゃおらんと・・・

八月は敗戦記念日とお盆が重なってくる。お盆とは盂蘭盆会とか。盂蘭盆会とは仏教では旧暦だった頃、7月15日を中心に7月13日送り火から16日迎え火までを言ったと。新暦になっても東京などは旧暦と同様7月13日から16日までと、旧盆、具体的には月遅れ盆として8月13日から16日までの地域に分かれる

東京などは旧暦の7月15日(新暦では8月30日)ではなく、新暦になっても7月15日を運用している。全国的には月遅れの8月15日にいわゆる旧盆として(旧暦では6月29日になると)、たまたま月遅れ盆が敗戦記念日と重なっただけである

盆とは先祖を、祖先を供養するのだが、先祖だけでなく、正月と盆ぐらいは亡くなった人を偲ぶ、思いを馳せる、弔うことであろう。ましてや先の15年戦争では軍人だけでなく多くの民間人も亡くなった。頭を垂れて亡き人に思いを馳せるのは良いことだろう

盆とは、月遅れ盆とは、民間会社では休業の所が多い。民間とは上下あるいは横の関係があるので、全国的に一斉休業となっている地域が多い。江戸時代からの藪入りの風習がいまだ延々と続いている。風俗風習とは中々消えないものだ。

8月12日の朝日新聞朝刊によると、これまで日本風力開発の脇坂正幸社長の弁護人は、前外務政務官の秋本真利衆議院議員への利益提供や風力発電事業に絡む賄賂ではないと説明してきた。しかし弁護人は11日になり、脇坂社長が国会質問への謝礼という特捜部の見解を受け入れ、秋本氏への賄賂と認める方針に転換したと明らかにした。その理由は「取引先まで捜索されたことや会社の経営への影響を考慮した」と述べたと

報道によると社長の弁護人と記載され、辯護士とは記載されていない。弁護人とは辯護士だろうな。いや辯護士を含むのであろうな。誰だったかな、辯護士とは何とか何とか言うのが辛いものとか語ったがな

昔は、弁の旧字体は辯であった。旧字体でもいまだに使用している文字もある。簡略された文字もある。曰く「縣」を「県」に。「眞」を「真」に。「釋を「釈」に。「淺」を「浅」に。浅川マキの浅川は淺川だったかな。倉本聰の「歸國」は旧字体であった。彼らに、帰還した彼らにあっては、帰国では無く、歸國でなければならない。しかし、点呼がいただけない。イチ、ニから始まって、シやシチなんだな。シはヨン、シチはナナじゃなければ、軍人いや軍隊の点呼じゃないな

昔、ヒサオという男がいた。漢字だと「壽夫」とはっきりと旧字体で書くんだな。良く書けるなと感心したら本名だからと

車寅次郎が言っていたが、桜の旧字体は櫻。ニカイのオンナがキにかかると

士業とはある意味専門家であろうな。いや独占的な職業である。しかし、依頼者がいる。民間人だから依頼者に頼まれて職を全うする。しかし依頼者の利益や損失に関わるのでは、専門家かなと疑問を呈する。中立的な第三者委員会には辯護士が委員になる場合が多い。しかし依頼者によって方針や主義主張が変わっては中立ではないだろうな。中立とは中に立つことであろうな

また裁判、法廷では検察が立件して辯護士が被告に寄り添い、判事が判決を下す。検察と辯護士の業務とは正反対である。最近では公職である検察官が民間の辯護士になるのが見受けられる。どうも小生から見ると違和感があるんだな

司法書士などは登記申請書類に依頼者から委任状を提出する。委任状とは本来依頼者が作成して受任者に渡す。しかし昨今では受任者が委任状を作成する。ここまでは良しとしよう。しかし受任者が作成した委任状に委任者から捨印をもらうんだな。自分で作成したが委任者から捨印をもらう。要求する。士業の退廃を感じざるを得ない

依頼者からの要求は依頼者である限り従うのは当然であるとも。ある予備校の経営者かな、親たちはいわゆる有名校、一流校を目指していると。それに対して教育とはとか唱え、本来の教育を語ることは、依頼者から批判されると。それも一理あるんだな。一理だけでなく、依頼者の要求に沿えないと継続できないと。難しいものだ

今の世は漫画ばやり。昔も漫画はあった。曰くサザエさん。白土三平のは劇画と呼ばれていた。忍者武芸帳やカムイ伝は面白かった。面白かったが、いわゆる忍びの世界を描いていた。忍びとは良く言ったものだ。昔、「忍」という名の男がいた。若い頃は自分の名が嫌だったと。小生の旧制中学、新制高校では戦前の流れであろうな、校訓が「忍」であった。ガロの雑誌もあったな。

漫画もさることながら画像、動画・映像の世になった。ラヂオよりもテレビ、一歩進んで電子機器の発達によって、携帯電話がスマ-トホンになって、映像化にますます拍車がかかった。電話よりも写真機なんだな。言葉から漫画へ、漫画からアニメーション、通称アニメと言うと。宮崎駿の「もののけ姫」「千と千尋の神隠し」が奔りであろうし、興行的にも大成功をおさめた。興行的に成功すると世も注目され数々の映画賞を受賞するに至った

工匠の業 千載を照らす
俳優の業 一瞬を照らす

役者とは一瞬、一瞬に賭けていた。カメラも同じだった。待ちの土門拳はじっと待って、ただ一瞬のための出番を待った。昨今ではテレビなどは同じ映像を何回も何回も出す。商品の宣伝と同じだな。報道番組までも何回も何回も出回す。同じ映像をこっちのテレビ局からアッチのテレビ局までたらい回している

アニメや漫画は役者の首を絞めるかも知れない。現にアメリカの映画界ではAIによって一回写して使い回わしていると。映像だけでなく一瞬を大事にしなくちゃならないな

1965年に加藤和彦がザ・フォーク・クルセダ-ズを立ち上げた。そして軽井沢の万平ホテルで没した。翌日の朝日新聞には北山修の追悼文が掲載された。加藤和彦は一流だったと。音楽だけでなく、趣味も生き方も一流だったと、北山修が精神科医であるだけに無念であると、ソロ中心に偏ることは無く、バンド志向であったと

昨今の藝は、いや概して集団志向であるな。音楽だけでなく、歌にしてもテレビ宣伝にしても集団志向だな。個人の印象が薄くなっている。ただスポ-ツや競技では若者が一人卓越している。将棋はスポ-ツ分野では無いが、報道では競技・スポ-ツに近い。あるいは将棋や囲碁も勝負である限り、スポ-ツに近い、一種の体力勝負とも言える。勝負であるので勝ち負けが明確である。藤井聡太が10代でプロ入りしたが、大の大人がコロコロ負けるんだな。意地は無いんだろうか。負けて悔しさはあるんだろうが淡々としている。参っちゃうな

個人競技では無いが、団体競技でも報道機関は個人を追う。個人を断片的に扱う。当然視聴率は上がってスポンサ-は喜ぶと見ている。大谷翔平、前人未到を行くが報道機関、ゴミ箱は大谷翔平個人を追う。野球球団はトレ-ドを考えると、どこでもいいんだろうな。朝からテレビでは大谷君オオタニクンと叫んでいる

小生は朝日新聞を購読している。毎週土曜日に日曜版かな、発行される。各人が記載しているが山田洋次が3週間ごとぐらいに「夢をつくる」を連載している。自らの生い立ちから家族や生き方等について素直に記述している。山田洋次はひねくれてなく素直さが良い。相手もすんなり受け入れちゃう。その中で4月8日の記載が妙に頭に残っている

大学を出て松竹に入社した。映画監督はどうやって映画をつくるのか。助監督の仕事とはどういうことか。1954年助監督として松竹撮影所に入ったときからの疑問であったと。10人監督がいればみんな作り方が違うと。しかも熱心な監督がつくった映画が面白いかと言えばそうでもなく、いい加減な監督の作品が変に楽しかったりすると

ある時、新人助監督たちがうちそろって撮影所長に面談し、会社は何を基準に助監督を監督に昇進させるのか、つまり一本撮らせるのですか、と質問したことがあったと。所長は白髪頭をかきながら、「弱ったな。まあ、しいて言えば顔つきかな」と答えて、僕たちを大いに憤慨させたと

情景が手に取るようだ。現場が目に浮かんでくる。言葉によって情景が分かるんだな。下手な画像や役者よりも、言葉によってその現場が分かるな。問い詰めた若者、答えに窮した老人、いや壮年か。上手いな。

言葉で言い表すことが出来ない、あるいは言葉が徒労に終わることもあるな。あるいは真実を言うことは往々にして相手を傷つけることもある。難しいな。分からないことが多々ある

五木寛之が年を取って、年を重ねて、若い頃あれほど通った凮月堂のフウを「風」と思っていたと。そう言う事もあるな。事実と真実は違うと、とある新聞記者が言ったが、事実は一つであろうが、分からないことも多々ある

山田洋次は御年91歳、五木寛之は90歳。お互い満洲や朝鮮半島からの引揚げ。生命力とは持って生まれたものかも知れない

勝負なら勝ち負けは明確に分かる。記録競技なら記録によってはっきりする。しかし藝術の分野は基準が無い。基準はあるだろうが明確に無い。レコ-ド大賞のように売上高だと比較が出来る。しかし良し悪しだと必ずしも売上が多い方が良い作品では無い。良い作品でも売れない無冠の場合もあるだろうな

個人と集団、分からないことが多い。先日8日に日本大学で大麻事件があって、首脳部が記者会見した。ニチダイだと。英語表示ではニチダイなんだな。ポンダイじゃないと、日本テレビもポンテレでなく、ニッテレと言っている。ポンの方が響きが良いがの

日大のHPを見たが、理事会、評議員、学長とある。沿革によると総長制を創設したが、平成25年に総長制から学長制に移行している。また戦後、理事長制を創設している。良く分からないが、学長とは大学の、理事長とは系列も含めた日大全体の総括経営者であり、責任者だろうな

林真理子理事長は小説家だと。小生は林真理子の作品に接していないので、どういう人物か分からない。林真理子理事長は2日にマスコミの取材に対して、「違法な薬物が見つかったとかそういうことは一切ございません」と疑惑を全否定していた。しかしアメフト部の3年生部員が5日に覚醒剤と大麻を所持していた疑いで逮捕された。大学側は7月6日にアメフト部寮で植物片や錠剤を発見したが、警視庁に届け出たのは18日で、12日間の空白期間があったと

8日の記者会見では、林真理子理事長は8月2日に「違法な薬物は見つかっていない」という私の発言により混乱を招いてしまいました。その発言をした時点では違法な薬物かどうか警察において確認を進めていたところで、本学としては確認の結果を受けていないという趣旨の発言であったと。確かに私の発言は言葉足らずで唐突であったと反省していると。

記者会見で、記者から、これまで言葉を生業にされてきた理事長が「言葉足らずだった」と言うのは、違和感があるが・・・との問いに林真理子理事長は「祈るような気持ちで、その茶葉と思われるものが何とか大麻でないようにと、そればかり考えていましたので」と

記者会見での大学側と警察側の発言は違う。また昨年10月にアメフト部の部員の保護者から指導陣に対し寮の中で大麻を使用していないか調査してほしいと依頼があったとか。11月に部員が「大麻と思われるものを7月ごろ吸った」と自己申告したと。大学は口頭で厳重注意をしたと。今年6月に警視庁からアメフト部の寮で部員が大麻を使用している可能性があるとの連絡があり、大学側が調査したが不審物の発見には至らなかったと

保護者会とは何であろうか。大学生になっても保護者が前面に出てくるんだな。アメフト部だけでなく、文系の部も学生はどうなっているのか。分からない。昨今の大学では横文字の新しい学部がある。日本大学ではスポ-ツ科学部がある。スポ-ツ科学部と運動部・体育会は別だろうが分からない。あるいはスポ-ツ科学部とは現場、体育会に属するのだろうか。保護者会とは大学のか、体育会のか分からない

しかし昨年から大麻問題はくすぶっていた。体育会の寮とは寮長がいて監督も同居しているのか分からない。HPによると、アメリカンフットボ-ル部学生寮は二段ベッド、二人部屋に見える。よく青学の駅伝の原晋監督がマスコミで取り上げられるが、それによると監督夫婦が寮内に学生と一緒に生活しているようである。一緒に生活しているので学生の模様が分かり調子の良し悪し、性格まで分かると

大会社でも社長と副社長では雲泥の差があると。トップは人事と財政を采配できると。監督もスポ-ツのみならず映画監督でも、人選から始まって何から何まで決定できる。その変わり結果、責任がついてくる

体育会では特にそうだろうな。寮内の学生の模様は監督や寮長は把握出来る。また把握できないようでは指導者として失格であろう。まして各部屋は個室ではないだろう。同室の者は手に取るように分る筈であろうな

林真理子理事長は記者会見で、「私もお飾りの理事長であるという報道をなされているようでありますが、そのような評価はとても残念に感じております。(就任1年で)人事とか訴訟とかいろんなことをやってまいりましたが、本当にスポ-ツの方は少し後回しにしていたというのは事実です」と。スポ-ツに対して遠慮があったと

どうして大麻を隠さなかったのか分からないな。大麻は持っているだけで犯罪になる。法律にひっかかる。いままでは噂では隠してきただろうに、どうして大麻が出てきたのか不思議であるな。しかも一人の所持である。分からないことが多い

佐久市に佐久長聖中学・高校がある。名も無き高校であったが、地元に言わせると東大か甲子園だと。私学であるので経営も大事である。昔は脚光を浴びなかったが、今じゃ東大を目指すか、甲子園に出ることだと。一人の学生が文武両道ではなく、学校として勉強かスポ-ツかを分け、どちらかを目指すと

ポンダイも色んな学部があるが、組織は分からないが医学部と芸術学部で持っているのではないかな。それとスポ-ツ、甲子園。8月は高校野球がある。甲子園だな。各地域から49代表校が選抜されたと。昔は商業高校が多かったが、昨今では色々。その中で山形県の日大山形、茨城県の土浦日大、西東京の日大三と三つも日大の名称がついている。多分日大の系列であろうが、3/49とは大したものだ。星野が全国の旅館を制するのではないかと恐れられているが、日大も名の通り日本に多くの学校がある

医学部と芸術学部だけではないな。下手をすると日本のスポ-ツ界に君臨するな。林真理子理事長は分かっていないな。まずはスポ-ツ界から見てみたら

大学では産学共同路線は嫌われてきた。それは産業界とは往々にして利潤の追求を第一に考える。真理よりも学識よりも利潤だったから嫌われた。排除された。しかし昨今では大学も経営、継続であろうな。産業界の利潤追求を抜きに語れなくなった。また大学の自治も恩讐の彼方に追いやられるありさまである。今回の日大の騒動は学生の影が薄い。大学にとっては学生とはお客さんであるし、学生にとっても大学とは処世術の一過程になりつつある

マイナンバ-が話題になっている。立川談志の弟子に志らくがいる。普段は談志の弟子らしく保守的と言うか伝統重視と言うか談志と考え方が似ているんだな。その志らくがテレビで面白い事を言っていた。マイナンバ-は金で釣り出したからまやかし物だと、だから私は手を出さないと、そんなような事を喋っていた。談志同様時としてピシッとしたこともある。藝人とは恐ろしさを秘めている

マイナンバ-だと。個人番号、総背番号、横文字なんだな。確かに一つの書で全部を網羅出来れば国家にとって便利が良い。全て国民を把握できる。しかし何だな他人の情報が出たりすると、入力ミスか制度本来が悪いか分からない。分からないまま突進すると。猪突猛進すると。国家は独占だからな。法律を作って執行する。欠陥の原因を究明出来ないようだな。分からない。原因も分からないようだ

朝日新聞の日曜版に沢木耕太郎が連載している。「暦のしずく」。沢木耕太郎とは大学を出たら、不意ッと海外に飛び立った。あの時期渡航した者は意外と多かった。境港の足立倫行も渡航した。沢木耕太郎は、小説家は難しいが、トップ屋の梶山季之のようには書けるんじゃないかと。テロルの決算で世に出た。その沢木耕太郎が「暦のしずく」小説を記載した。いつしか司馬遼太郎は小説はしんどい、と随筆を描き出した。沢木耕太郎は小説を書き出した。その動機は人間国宝が出てきたと。藝によって国家から罰せられた者を調べたら一人だけいたと。面白いな。松本清張の「小説帝銀事件」を彷彿させるな。いつしか沢木耕太郎は取材方法を表してみたいと語っていたがその後は知らない


おどんが 打死だちゅて
誰が泣いて くりゅきゃ
裏の松山 蝉が鳴く~~~

つくつく法師が鳴き出した
もう秋の気配だな

今度の台風は猛烈だった。被害にあった物を、者を悔やむ



忖度からPCへ

2022-12-04 16:06:32 | 世評
はや師走。芭蕉は奥の細道で、月日は百代の過客にして、行きかう年もまた旅人也と記している

ひと頃、にわかファンという言葉があった。2019年のラグビーワールドカップ杯であった。世を挙げてのサッカ-だとか、猫も杓子もサッカ-だとか。ネットやテレビは言うに及ばず、新聞までがサッカ-サッカ-である

サッカ-とは蹴球だとか、球を蹴るんだな。足で頭で手抜きで蹴るんだな。バスケットボールは籠球とか、ラグビ-は闘球とか、明治期に西欧から文明化とともに、西欧文化がこの国に入ってきた。いわゆる文明開化だな。わが国には無かったものが移入された。従来の日本には無かった言葉が入ってきた。まず日本語に無かった言葉、外来語が日本語された。当時の知識人、インテリゲンジャは面白かっただろうな。まず造語を作りこの国に定着させる

俳人なども季語を一つでも歳時記に載せたら本望だとか。ベイスボ-ルも野球と命名したのは、誰だったかな。季語では無いが、正岡子規が野球を普及させたようだな。それほど明治期の文人たちは日本語を作った。今じゃ外来語は日本語化せずそのまま使うようだな。あるいは日本語化するよりも外来語の発音通りにするのが親しみが湧くとか言う輩もいるかな

とあるフランス文学者がフランスに留学したが、フランス小噺が理解できなかったと、10年では分からず20年フランスにいて初めて理解できたと。言葉とはその国の風景、人の世、風土そのものだな。そこに何年も居続けないと、その地方、国土、風土を理解できない。外交官も日本語に訳すが、その意味合いは微妙に理解できない場合が多い。意思表示ぐらいは顔を見れば分かるが、その言葉の裏までは分からない。日本語、自国語でもそう言う場面がある。ましてや外国語である

ラヂオの時代は言語、言葉であった。テレビが出た当初は頭の悪い奴がテレビ業界に行ったとか、あるいは落語協会ではテレビに出るようじゃと揶揄された。段々と言葉よりも画像に移っていった。画像はスポ-ツや料理に適している。今じゃテレビは食い物かスポ-ツだな。お笑いは食い物が主体であるので、デブが多いな。今じゃデブとは差別用語であると、食いタレとも言われている。役者はまだ役作りで、風貌が問われるので、痩せている者もいるが、所謂お笑い芸人やアナウンサー、一頃女子アナと言われていたが、カメラの前で大口を開けるのが、大口を開けて一人前のようだな

画像と言えば、インスタグラムでは画像が主体だな。テレビのスポ-ツ番組も相撲もそうだが、サッカ-のワールドカップ杯のスペイン戦もビデオ判定だった。審判でなく映像や画像で勝敗を判定する。まあ客観的と言おうか決め手にはなるかな

先日の瀬戸際大臣、いや山際大志郎経済再生担当大臣が2016年にネパ-ルに渡航したことについて「明確に覚えていないが、報道を見る限り出席したと考えるのが自然だと思う」と述べたと。映像、合成してない映像では記録に残ってるので記憶が無くても記録を尊重せざるを得ない。デジタル社会になると、記憶よりも記録を基にする世になっていくのだな。そしてデジタルとは記録を失うことはないんだな。ただその記録を出すかどうかだろうな

1960年代だったかな、黄金の七人シリ-ズがあった。新・黄金の七人7×7は面白かった。時代もあろうかな。サッカ-の全盛期だった。舞台はロンドンの刑務所、サッカ-英国杯の決勝戦に刑務所から抜け出して紙幣の印刷所へ忍び込んで紙幣を印刷してしまう。警備員も看守もサッカ-観戦でテレビの前に釘付けで偽札でなく本物の紙幣を刷っちゃう。まさにアベ晋三と共にだが黒田何某を超える紙幣を刷るんだな。丁度昔の出版界では増版増版で札束を刷ってるようだな

サッカ-とかラグビ-は西欧中心である。西欧では観客が多いのだろう。人が集まるので商売になる。オリンピックと同じだな。オリンピックは四年ごとだが、スポ-ツは商売になる。スポ-ツビジネスと言う言葉もあると。プロ、職業とする者もいる。プロは球団本位だが、国家対抗にするとより観客も増えて商売になるようだ。一種の武器のない戦争であろうな

ラグビ-に松尾雄治がいた。とある飲み屋で見かけたが口が達者なんだな。何とか何とかとポジションだったか口達者が多いと。ラグビ-はプロが無いのと聞いたら、プロがあることはあると。サッカ-人気はプロのせいかどうかは分からないが、国家対抗にすると観衆は増加するんだろうな

忖度と言う言葉がある。ソンタクと打って忖度に漢字変換する。その昔は「空気が読めない」KYと言われていた。その場の空気を読めない人とは否定的な使い方であった。相手の気持ちを読めない、相手の都合を無視する、人の話を聞かない、独善的など否定の言葉であった。忖度とは2017年の森友・加計学園問題に端を発し、ユーキャン新語流行語大賞で年間大賞に選ばれた。報道機関を通して広まった言葉であった。

空気が読めるとは、同輩に多く使うんじゃないかな。従って空気が読める、場を読めると言うことは肯定的に使われる。それに比べ忖度とは上司に推し量ることだろうな。総理は言えないから部下である手下である者が喋ると。菅義偉が総理の時に日本放送協会NHKに呼ばれて学術会議の認定拒否の理由を説明出来ることと説明出来ないことがあると

あの時は部下が居なかったから自分が言ってしまった。権力者には言えないこともあると。じゃ口に発しなければ良いのに、押し黙っていれば良いのに。説明できないこともあると。NHKのアナウンサーは部下で無いな。普段手下に囲まれていれば手下が代弁するが、一人では、また一人で自分の思いを語ることに慣れていなかっただろうな

歌舞伎役者に香川照之がいた。石油元売り最大手のENEOSホールディングスの代表取締役会長に杉森務がいた。いい中年だな、いや老年に近いかな。クラブでホステスに暴行を働いたと。世に出たのは週刊誌である。新聞よりも今じゃ週刊誌がいや昔からそうかな、政治家の醜聞も週刊誌が発生源であることが多いな

どうも組織が腐ってきたかな。周りに人はいたんだろう。被害者からの声があがり年月が経ってポツリポツリと世に出ている。周りに止める者はいなかったか。それなど忖度そのものだな。階級社会では下の者は声を上げることすら出来ない。ただ従うだけだな。突発的な行動ではなく、いつもの行動であろうな

お隣の中国ではデモンストレ-ションで白紙の紙を掲げていると。白旗でな無いな。白色だな。この国でも選挙の時に白紙は無効票の中に数えられる。可笑しなことだな。笑っちゃう。最高裁裁判官の国民審査がある。裁判官の氏名が記載され、投票者は罷免すべきだと思う裁判官の上に×印を記入すると。×以外の記号を投票用紙に記入した場合は無効となると。存続を望む裁判官には〇も記入できない。田舎じゃそのまま記入せず提出してくれと。白紙で提出せよと。議員の投票では白紙は無効となるが、最高裁裁判官の国民審査はそのまま提出しても有効となるんだな

土台議員が決めてるから自分達に都合の良いように決めていく。小生は八百屋の長さんと呼んでいるがの

沢木耕太郎がいる。テロルの決算は新鮮だった。沢木耕太郎と藤原新也は年が離れているように思ったが、藤原新也は1944年生まれ、沢木耕太郎は1947年生まれ、足立倫行は1948年生まれ、それほど違いは無いんだな。ただ戦前生まれと戦後生まれの違いだな。あの頃は海外へ飛び立った。ああいう生き方もあったんだな。沢木耕太郎は小説は書けないがルポルタージュ、トップ屋と言われた梶山季之のようなのは書けるじゃないかと思ったと。若い頃だが沢木耕太郎はルポのやり方接し方を書いてみたいと言っていたが。朝日新聞の日曜版と言おうか土曜に配達される新聞に「暦のしずく」を連載している

題材は過去の芸人を調べていくと国家権力によって死刑にされた芸人はいたかと。面白いんだな。国家が人間国宝などと奨励するのは数あまたいたが、長い日本の芸能史において、ただひとりだけ芸によって死刑に処せられることになった芸人は、その名を馬場文耕という講釈師だったと。題材が流石に目の付け所が違うな

書くと言うことは何なんだろうな。考えていくと、小生にとって書くと言うことは、自分の考えを整理することと記録に残すことだろうな

ウインドウズ11は2021年10月5日から発売されたと。小生はその当時2020年11月に購入したウインドウズ10を搭載したNECパソコンを使っていた。そして2022年6月に11へバージョンアップした。メーカ-のNECのHPでやり方を参照して成功した

ソフトウェアのエプソンはバ-ジョンアップにより、スキャナ-は読み取れなかったら再起動すれば読み取れた。エプソンプリンタ-は問題なく印刷出来た

富士フィルムビジネスイノベ-ション㈱(旧社名.富士ゼロックス)の保存ソフトドキュワ-クスは画像が欠ける現象が生じたが、F5を押すと画像は現れる。しかし原因は根本的な解決方法は現れていない

ウインドウズ11にバ-ジョンアップして負担が掛ったか、2022年10月にスカイプをやっていて、小生の声が相手に伝わらない。またウインドウズ11でのアップデ-トは更新できていた。その内jpgファイルのコピーやワードに貼り付けは出来るが開けない。メーカ-のNECに聞いたが解決出来ない。初期化するしかないかなと、初期化して解決するかどうか分からないと。しかも初期化するとウインドウズ10に戻ると。ウインドウズの問題かハードの問題か分からない

今の電気機器は少数の意見を聞くよりは、少数の故障点を懇切丁寧に解明するよりは、多数の客を相手にする。修繕より大量な比較的安い商品を売った方が利潤が出るし、メーカ-の方針だろうな

そんなこんなで、2022年11月にウインドウズ11を搭載した富士通パソコンを購入した。NECは2年で壊れたことになる

パソコンの買換えは自己流に自分に合うように構成する。初期設定でインタ-ネットへのルータ-、Wi-Fiのパスワ-ドを記入して、インタ-ネットを開通した。前はマイクロソフト社のウインドウズの認証番号を入れたが、今じゃオフィスはメーカ-によって出荷の時に導入してあるので、自分のプロダクトキ-は分からないままである

ノ-トンに繋いで遠隔操作により、インスト-ルした。メールのアドレスとパスワ-ドを記入して繋ぐ。エプソンのスキャナ-とプリンタ-のドライバ-をインスト-ルした

今のマイクロソフト社はOneDriveに誘導する。データが5GBではすぐ一杯になってします。データをユーザ-に紐づけさせた。ドキュワ-クスのダライバ-をインスト-ル。ソニ-のDSC-RX100をインスト-ル

富士通パソコンは昔30年40年昔に使っていた。その当時の登録番号が残っている。登録番号なぞは覚えていない。登録出来なかったので、遠隔操作でやってもらった

電子証明書を読み取れるICカードリ-ダを昔から使っていたが、NECではインスト-ル出来た。SCR331DI-NTTcomのドライバ-をインスト-ルしたが、ドラ-バ-をこのデバイスに読み込めません。Windowsセキュリティの「メモリの整合性」設定をオフにしてみて下さい。オフにするとセキュリティの問題が出るがまたインにすれば良いと思ったのでオフにしたら読み込めて電子証明書も読めた

しかし、一旦オフにするとオンにならない。SCR331DI-NTTcomのソフトウェアも削除出来ない。マイクロソフトオンラインサポ-トにチャットで接すると遠隔操作でやってくれると。しかも無料で。しかも遠隔操作はマイクロソフト社では二人でやると。セキュリティの問題からSCR331DI-NTTcomのソフトウェアを削除してもらった

パソコンは難しい。前のNECパソコンでバ-ジョンアップしたウインドウズ11と今度
ウインドウズ11を搭載した富士通パソコンでの同じウインドウズ11でも違うように思う。

SCR331DI-NTTcomしかり、エプソンのプリンタ-でプリンタ-とパソコンとの間の読み取りが出来ない場合がある。エプソンに問い合わせたがウインドウズ、マイクロソフト社の問題だと。一応エプソンに聞いてウインドウズ11の中を動かすとパソコンのドライバ-がプリンターに伝わる。しかしまた伝わらない現象も出ることがあるかも知れないと

パソコンでは基本ソフトはマイクロソフト社が提供している。そのウインドウズは良く分かっていないようだ。それは企業秘密であるので、全部は公開していない。今は騙し騙し使っているが、どうなんだろうな

GAFAと言う言葉がある。Google,Amazon、Facebook,Appleの4社であると。この4社にMicrosoftを加えた5社をGAFMAと呼ぶと。デジタル化を社会は進めている。しかし基本ソフトはマイクロソフト社次第であろうな。ワードやエクセルやエッジなどは自社の製品であるので、互換性は保たれている。今後ウインドウズも変わっていくだろうが、食料の自給自足は出来ていないが、IT化も他社頼みでは食料の二の舞になり兼ねないを危惧している


山田洋次の世界・・・忍

2022-10-01 19:02:32 | 世評
國葬儀が終わったと。テレビ画像からだが、イギリスと日本の國葬儀が時を経ずに行われた。海の向こうのこととは言え、イギリスでは国王や女王がいたんだな。昔は大英帝国と言われていたと今更ながら感じた。そしてその帝国が続いている。しかも王室は国民に気を遣っているようだ。国民からの支持率を気にしている。女王の葬儀にも、国葬にも国民から献花を受けている。王様と言えば裸の王様でなく、意外にも国民に寄り添っている雰囲気であった

日本の國葬儀はどうかな。国家が主催する葬儀であった。さすがに国葬だと思われる光景であった。まず遺骨が自宅から出発する際には、自宅前で自衛官が儀仗を実施したと。遺骨を乗せた車が防衛省を経由して会場である日本武道館へ向かった。まさに軍隊、自衛隊に守られた葬儀であった。色んな葬儀があるが、曲軒と言われた山本周五郎は葬儀には参加しなかったと

東京新聞8月29日の報道によると、7月12日の増上寺で行われた家族葬でも陸上自衛隊の儀仗隊が参列したと。岸家・安倍家とは今更ながら軍隊に軍人に守られているし、軍隊が好きな一族だな。
儀仗隊が参列したのは、戦後の首相経験者の家族葬では初めてだったと。政府がかかわった首相経験者の公的な葬儀は、1967年の吉田茂氏の国葬以降、2020年の中曾根康弘氏の内閣・自民党合同葬まで11回あるが、すべて儀仗隊が参列したと。政府が関与しない私的な葬儀での儀仗隊参列は「確認できる範囲において、安倍氏以外にはない」と(同省陸上幕僚監部)。
一方、防衛省の前身の防衛庁長官を対象にした家族葬への参列は3例あったと

株式会社の社長が亡くなった社葬では、部下や従業員が葬儀を取り仕切り、会社を挙げて会社のために葬儀を行う。それは民間であるので可能である。しかし公務員が、公僕が上司の家族葬で隊を挙げて参列するのはいかがなものかな。ましてや軍隊である。軍隊が個人のあるいは個人的な家族に軍を差し向けることは大いに疑問である

国葬に数多くの公務員を招待したと。国葬である限り参列するのは公務であろうな。公務なら会場の日本武道館までの交通費は公費からの出費であろうな。そこまではいいんだな。その先、出張だから出張手当とか、警備に携わる警察官等に残業手当とか時間外手当を通例の給与に上乗せして支給するのは疑問である。国葬なら国家が国家のためにやる行事なら國葬儀であるならば、公務員なら国家に奉仕せよと言いたい

また公的な議員、国会議員とか都道府県や市町村議員を選出するための選挙では公務員が実務をやることになっている。投票とか開票事務はすべて公務員が携わる。しかし公務員、公人であるなら、民の代表を選出する選挙ぐらい奉仕せよと言いたい。進んで時間外手当などの除外をするべきであると思うな

昨今の勤務にかかる費用では、人件費割合は最も多いであろう。せめて選挙事務とかは労働基準法にいう時間外手当の埒外にしたら良いかな。公務員とは全体の奉仕者であるとか。国葬とか選挙など公の行事では、正規の公務員は通例の給与以外の時間外手当を支給しないことに出来ないかな

小生は通例、政治家のことを利権屋とも言う。じゃ利権屋と政治家との違いは何かと聞かれると、利権屋とは国(家)のために(行きつくところは自分のため)、政治家とは(国)民のために働く(自己でなく他人のため、山本玄峰の言葉を借りれば陰徳を積んだこと)人種であると考えている。国葬とは国家のための葬儀である。国家が主催する葬儀である。国家と国民とは一時違いであるが、意味合いは大きく異なってくる

司馬遼太郎が、かって道路は人が通るための道だと。人が目的地や先に行くための通路だな。満州では敵国を攻撃する戦車が、人が通る道を、人を押しのけて通ったと。国家のためが国民のためになったこともあり得る。国民の集合体が国家であるが、国家の為と国民・民の為とは往々にして違うことが多いな

先日の国葬に話を戻すと、献花の順番は、皇族が先なんだな。葬儀委員長とか喪主や遺族よりもまず皇族が先に献花をした。国葬なんだな。戦前の国葬令を引きずっているな。しかも国葬だから無宗教、司祭者がいない。安倍晋三にしてみれば、死後せめて靖国神社でやりたかったんじゃないかな

式場では儀仗隊長と言うのかな、姿勢が良い。動きがピリリとしている。背が伸びているんだな。他の参列者が、年を取ると背が丸くなってくるのが多い。その中にあって、隊員もそうだが隊長の動きは一人であるので、余計に目立ったな

遺影の写真は誰が撮ったか、いいんだな。多分プロが撮ったんだろうな。いつになく良い顔だった。安倍晋三のあんなに良い顔は見たことないな。あれでは過去の汚点も帳消しに匹敵するな。ただネクタイの色は黄色。安倍晋三は黄色が好きだったか知らないが、黄色は難しいな。黄色が目立ち過ぎた。顔が良いだけに黄色が一歩も二歩も先にいってしまった

弔辞に関しては岸っ田文雄はあんなものだな。安倍晋三にはコケにされていたから、ここぞという時には外され、いじめられていたので、あんなもんだな。引き継いだ菅義偉。総理の時には原稿を読み違え、一行飛ばして読んでもいたが、さすが親分の葬儀だな。安倍晋三と菅義偉の関係、親分子分あるいは仲間同士であるか、感情がこもっていた。しかも題材が軍人と言われた山縣有朋であった。いかにも軍が好きだったな。山縣有朋は別荘を多く所有していたが、目白の椿山荘は別名椿御殿であり、早稲田の創設者である大隈重信を見下ろしているとも言われている

菅義偉も官邸では誰と会っていたか、頻繁に他者と酒抜きでパンケ-キとかで会っていたとか。半(分)自民党と言われた田原総一朗からは、あんなに話ができなかったとは、と言われたが、菅義偉は仲間内ではきちんと話が出来るんだな。安倍晋三も仲間内では優しいし、笑い顔も多かったとか。しかしそういう人種は政治には向かないな。やはり政治とは仲間内を超えて万人に語りかけるのではないと、民には通じないな。安倍晋三・菅義偉は政治家には不向き、不適任であろうな。今村昌平が分からなかったら、分かるまで徹底的に夜を徹しても語ると言っていたが、そういう人でないと政治に関わるべきでないな

政治屋の眼は近くを見るんだな。自分の周りに目を向ける。岸っ田文雄も自民党の党内事情により国葬を決定した。菅義偉も党内状況によって総裁選挙の再度の立候補を見送った。政治屋や利権屋はすべて自分の立っている場から判断する。国民は二の次だな。かといって国民からの支持率が下がるとあたふたする。利権屋はまず自らの足元を固めるが、民からの反響も注視しなくちゃならない。辛い商売であるので長くは持たない筈だがな

葬儀での一般の人の献花の人数も多かった。官邸発表では2万5889人とか。どういう数え方をしたのか、芳名帳でもあったのかな。しかし、安倍晋三は、自民党は選挙に強かった。特定な信者が、ある程度の信者がいたんだろうな。小選挙区制度では国民からの20%の支持者がいれば、選挙に投票する有権者が20%もいれば、当選する。旧統一教会の影響力が大きかったかな。分からないが、選挙では不思議と勝っていた

話が横道にそれたが、まくらが長かったが、先日9月17日にNHK(日本放送協会)テレビで「続 遥かなる山の呼び声」が放送された。山田洋次作、遥かなる山の呼び声は以前に映画化された。テレビでも役者を変えて2018年にやった。映画でもテレビでも山田洋次が原作・監督であった。映画では高倉健・倍賞千恵子、テレビでは阿部寛・常盤貴子で内容も若干異なる。二番煎じは難しい。一作が良ければ良いほど、次作では劣る。テレビより話の展開も役者も映画の方が遥かに良かった

山田洋次は映画が良かったのに、何故テレビで話の内容を変えて、制作したのかなと疑問に思っていた。そうしたら続編の「続 遥かなる山の呼び声」が9月17日にテレビ放映された。どうかなと思って見ていたら、テレビの前作よりも話の展開を経て、いいんだな。阿部寛・常盤貴子とも前作よりも見違えるほど良い。阿部寛の妹役、真飛聖も出て話が続編らしく新たな展開になっている

展開は男が警察官に護送される場面で終わっている。前作の映画では女が酪農の仕事は辛い、しかし春になると雪が解けて一面に花が咲き誇ると、その光景を見るとまた牧場を続けて見ようと思うが、前作では牧場を手離し街に出て男を待つ。続編では牧場を手離す誘いがあったが、この広大な牧場は子どもの音楽的や芸術的な成長に必要だと男の出所を待つ

山田洋次に「男はつらいよ」のヒット作がある。「続 遥かなる山の呼び声」では、こと恋愛に関しては、忍ぶ男を描いている。女から見れば、「忍ぶ」が分からず、感情を押し殺している様は馬鹿にも等しいだろう。あるいは相手のことを軽蔑し、自分勝手に映るだろう。しかし、男はじっと耐え忍ぶ、相手に迷惑がかかるからとじっと感情を押し殺している。恋愛では必ず他者がいる。一人では愛が無く、哀になっちゃう。たとえ片思いでも他者を相手にする。だから映像では両者の感情表現を理解できる、前作の「幸福の黄色いハンカチ」では男から映像を撮ったが、女は画面では現れなかったが、じっと男を待つ姿を想像させる

「男はつらいよ」の車寅次郎も堅気の衆には迷惑をかけない。俺たちは、どぶ川のあぶくのようなものだと。車寅次郎なりに耐えている。15年戦争敗戦の玉音放送では「堪え難きを堪え、忍び難きを忍び」の言葉が独り歩きをしたが、山本玄峰が鈴木貫太郎に送った書簡にあったと。この言葉は禅宗の達磨の「忍び難きをよく忍び、行じ難きをよく行じて、修行をせよ」から引用したと

山本玄峰とは三島市の龍沢寺の住職。眼が悪かったと言われていたが、よく分からなかったと。弟子には中川宋淵、鈴木貫太郎、吉田茂、田中清玄、井上日召、岩波茂雄がいたと

日本映画に「無法松の一生」があった。戦前、戦後を通して4回制作されたと。戦後はGHQによってフィルムはズタズタにされたが、カンヌだったかな、持って行った時に、高橋治が西洋人は情愛の表現は肉体を通すが、肉体無しの精神だけの情愛表現は西欧では分かるかなと言っていたが、忍ぶ恋とは日本映画の伝統であるかも知れない

「男はつらいよ」にしても「続 遥かなる山の呼び声」にしても男の忍ぶ恋である。あるいは女のじっと待つ恋なんだな。山田洋次の描く世界は忍そのものだな。昔、「忍」という名前の男がいたが、小さい頃は名前が嫌だったと。小生の高校の校章かな、校訓も「忍」であった

ある時、渥美清が東京駅ホ-ムで「いつも寅さん、見てるよ」と酔っ払いから言われたと。その彼が去り際に「渥美清は元気かい」と言うと。「元気ですよ」と答えたら「よろしく言ってくれ」と言ったと。渥美清はこの役をいい加減に演じていると、田所康雄は車寅次郎に追い越されるぞという不安のようなものを感じると。この話は、小生は以前に聞いていた。後年、渥美清は尾崎放哉の役をやりたかったと、早坂暁は台本も書いてあったが渥美清は車寅次郎を貫き通した

9月17日の朝日新聞土曜版、夢をつくる⑦で山田洋次は語っていた。寅さんシリ-ズが始まって7作目か8作目の頃、映画界でそんなに続いた例はないし、みっともないからこの辺で止めようかと渥美清に提案したと。それを受けて上記の「渥美清は元気かい」の話をして、にこやかなに席を立って行ったと

渥美さんは、スト-リ-についてのアイデアやマドンナの人選について口出ししたことは一度もなかったと。大事な問題を直接相手に問いかけず、間接的に語って相手に考えさせる一見回りくどい話を渥美清はよくしたと。上記の「渥美清は元気かい」の話が返事であると。つまり止めずに、もっと続けよう、続けなければいけないと。あの酔っ払いのようなファンのために人間らしい笑いを提供するように努力しようと田所康雄は言いたかったのだと

1996年の8月に渥美清は亡くなった。誰も気づかずに、ひっそりとあの世に逝きたいと。家族だけでひっそりと葬儀をやったと。その後8月13日に大船撮影所でお別れ会をやったと。炎天下3万5千人がお別れに来たと。大船駅から撮影所まで約1キロの道は長蛇の列だったと。最後に山田洋次が代表して遺影の前で「渥美さん、さようなら」と言ったら急に涙があふれてきたと

渥美清が亡くなった後、寅さんシリ-ズの50作目「おかえり寅さん」を制作した。寅さんへの回想であるが、諏訪満男が主人公となり、満男と娘を軸に現実の中に回想場面が入り乱れている。満男は初恋の相手の泉ちゃんがヨーロッパで生活していたが、来日して満男と再会した。満男や泉ちゃんの再開は現実であるが、何せ初恋同士である。その2,3日間の間はまさに懐古の日々であった。泉が飛行機に乗って帰り、満男は家に戻ると、娘から「お帰り」と言われた。娘から見ても夢の中だったのだな。「お帰り」は車寅次郎のお帰りと満男のお帰りを掛けていた

山田洋次の描いた「忍」は男女間の恋愛から発している。しかし、その「忍」は普遍的な奥ゆかしさを感じさせる


 保守が壊れていく・・・懐古.懐石

2022-09-16 15:46:49 | 世評
もう9月、中秋の名月も過ぎた。十五夜は先日9月10日だった。旧暦で言えば8月15日、15日の月だから十五夜だと。じゃ十三夜とは旧暦の9月13日の月だと。じゃ十六夜とは旧暦の8月16日の月だと

これらは常識と言うか一種の「きまり」、言ってみれば「しきたり」なんだな。まあ慣習とか決まり事なんだな。岸っ田文雄は安倍晋三が亡くなって、麻生太郎に相談したと。従来からの慣習に従って、自民党・内閣葬にしようかと相談したら、国葬にしろと言われたとか、これは理屈じゃないんだと

世の中、理屈通り、理論通りにいかないことが多い。そこに眼に見えない神の存在があろうが、神でなく運命と言えるかも知れない。五木寛之の言葉を借りれば、諦念とも言える。まあ理屈じゃないと言われたので国葬にしたとか

その国葬の案内状を発送したと。インタ-ネットが普及して様々な情報が出てくる。内閣府は国葬の案内状は、国会議員の現・元職、地方自治体関係者、現職と元職の三権の長、ここまでは公人、残りの後は民間人として各界の識者とか

まるで「桜を見る会」と同じ選考だな。国葬とは公務員による公務員のための葬儀だな。出席は公務扱いであるので、当然出席のための交通費も公金になるだろうな。民間人は付け足しだな

昔、インタ-ネットがまだない頃、伊勢丹に儀式110番という案内があった。今はあるかどうか分からないが、多分無くなっただろうな。世の中には「しきたり」というのがある。これは云わば、理屈じゃないな。小生などは冠婚葬祭で分からないことがあると、伊勢丹の儀式110番に問い合わせていた。儀式110番の担当者は詳しいんだな。やはり専門家はいるな。古典芸能のように「しきたり」で後から合理的な論理が付いてくるな

その国葬儀の案内状で、返信の期日が白紙で変更になっていると、こりゃ急いでやったな。盗賊で言えば急ぎ働きだな。凡人は急いでやると、ろくなことにならない。まあそれは洒落でいこうか。俺もインタ-ネットで知ったのだが、詳しい者はいるな。市井には名もなき識者はいるな。案内状には、謹啓ではじまり、敬具で終わってると

発信者は内閣総理大臣 岸っ田文雄だと。インタ-ネットでの識者は、案内文では、謹啓で始まれば謹白じゃあないかと、拝啓で始まれば敬具だなと。岸っ田文雄が発した案内状では謹啓で始まり敬具で結んであると。儀式とは常識じゃないんだな、「しきたり」なんだな。内閣府にも識者はいなくなったか

因みに、毛唐が考えたワードで謹啓と打つと、結語は謹白になる。拝啓と打つと敬具となる。誰が案内状を考案したか知らないが「しきたり」が分かっていない。今回の国葬も「桜を見る会」の業者と同じだと。国家には「しきたり」がおざなりになってきた。安倍晋三・菅義偉体制が長い間この国を支配してきたが、この体制はいわゆる「お友達体制」だな。それを岸っ田文雄が引き継いでいるようだ

内閣府と言えば国の骨幹になるな。以前、二軍・民社党が内閣を組閣したときに「国家戦略局」を創設した。個人で無く、国家戦略なんだな。その初代の大臣が菅直人。二軍・民社党らしくなく、もっとも社会じゃなく、社民に名称変更してから、個人より国家に舵を切った。ただこの発想も自民党に取られ、安倍晋三・菅義偉体制に乗っ取られた

安倍晋三とは右翼とも保守とも言われていた。しかし、古来からの「しきたり」には無頓着だったな。「桜を見る会前夜祭」ではホテルの領収書は各人に渡したとか途方もないことを喋る。ココアだったか、コロナの接触のスマ-トホンでのソフトは十何億だったか、アホノマスクも何億だったな、ドブに捨てる。長い間国家の中枢にいると、ろくなことを起こさない。

江藤淳は若かりし頃「奴隷の思想を排す」を記して、時代の寵児になった。「若い日本の会」にも参画した。壮年になると、国民は総理を尊敬しなくちゃ国家とは言えないと語っていたが、中々人民にとっては尊敬に値する総理とはいないんだな

機械とは指令通りに動くことになっている。昔はソフトウェアと言ったが、最近ではアプリと言うんだな。アプリアプリと言うんで何のことかと思ったら、ソフトウェアのことだと。言葉は時代によって動くが、アプリは一度設定すると指令通りに動く。コロナ接触アプリのココアは設定が悪かったか、不具合があれば修正すれば良いのに修正せず途中で投げ出した

アプリでも停電になると、充電器が無くなると動かない。機械は万全でないな。先日、保育園児がバスの中に取り残されて死亡したと。あの時もアプリがアプリがと言っていた。どんなアプリでも人が発案する。アプリに頼らず、人は眼があり、耳があり、口もある。ちゃんと顔に付いている。その辺が何故確認できないか分からない。100人や200人で無い。たった6人の児童も確認できなければ保育も出来ない。アプリに続いて管理管理と言っている。児童を管理は出来ないな。管理せず見守るんだな

「しきたり」とは保守とも言われてきた。どうも、この世は保守が壊れてきたように思われる。懐古や懐石には、「懐」という字が使われる。懐かしいとは「喜怒哀楽」には入ってないが人間特有であろうな。AI(人工知能)には無いだろうな。懐かしさには人それぞれ、過去にも人それぞれだな