風のたより

電子計算機とは一極集中の現象が大であるが、その合間を縫って風の一頁を

8月や(2)結. 国葬に寄せて・・・木口小平は・・・

2022-09-04 16:51:43 | 世評
暦の上では処暑も過ぎ秋の気配。重陽の節句は今週。今年は雨にしても、多く降る場所、全く降らない場所の差が大きい。万遍無くという言葉は忘却の彼方

稲盛和夫が亡くなったと。京セラの創業者であり、経営の神さまとも経営の仏さまとも言われていた。それほど信奉者が多かった。会社とは自己の利潤を追求する。商いとは自己の利潤を追求し、かつ相手にも利益をもたらさなければ、継続できない。そこが難しい。往々にして自己の利潤の追求だけになりがちであるが、相手に対しての利益は度合いに苦しむ

稲盛和夫に「六つの精進」があると。その一つに「善行、利他行を積む」があると。善きことをせよ、誠実であれ、謙虚であれ、そして他者の利益を優先せよと。株式会社の経営者にしてはある意味矛盾する行いであろうな

「六つの精進」の一つ目は「誰にも負けない努力をする」と。人一倍努力して、仕事を好きになり一生懸命、誰にも負けない努力をしろと、ある意味仏教の修行とは精神の鍛錬であろうが、その過程への中で精神が入り込む余地がないほど、肉体を酷使する修行にも似ている。

稲盛和夫は2010年(平成22年)当時の民社党鳩山由紀夫首相に請われて日本航空会長に無報酬で就任したと。その際に全従業員の三分の一にあたる1万6千人の首切りを行ったと

佐高信が2020年9月7日の日刊現代デジタルに京セラを狂セラと皮肉って、私は稲盛を商品の優劣で競争するのではなく、政治家や官僚とのコネを使って商売をする政商だと思っていると。また京都府八幡市の円福寺に「京セラ従業員の墓」というのがある。希望者は死後入れるらしいと

稲盛和夫は65歳の定年を境にした翌年、1997年9月に臨済宗妙心寺派円福寺で修行して「大和」の僧名を授かったと。仏教との関りは、幼少時に郷里の鹿児島で「隠れ念仏」に感銘を受け、少年期に結核に侵された時期に生長の家・谷口雅春の「生命の実相」に影響を受けたと

町工場や中小企業では従業員は社長に似てくると。会社にしても宗教教団にしても組織である。その組織を束ねる親方は何にしても従業員や会員から慕われないと継続出来ない。親方には間違いや誤りもあろう、しかし修正して、下の者からこの男には、この人には付いていこうという心構えが無ければ組織は育たない。そのためには親方は何をやっても徳、人徳が無ければ従う関係は無いだろうな

稲盛和夫は率先して人一倍仕事をし、努力して、実践したため従業員はついてきたのだろう。中には落ちこぼれた者もいただろうが、従業員は手足となり稲盛和夫のためなら何でもやろうと、徳がある者について行こうと、1+1=2でなく、その3倍も10倍もの力が発揮できたのであろうな

2012年に発行された鹿児島大学稲盛アカデミ-研究紀要の神田嘉延によると、稲盛和夫は幼少期に父親に連れられて隠れ念仏講の通過儀礼を受けたと。かくれ念仏とは、徳川時代に薩摩藩によって一向宗が弾圧されたとき、信仰の篤い人たちによってひそかに守りつづけられた宗教的習慣であったと。薩摩藩では、浄土真宗は禁制であった。報恩講を各村々につくり、山の洞窟や大木の地下などに洞をつくり、藩権力から隠れて祈っていた。浄土真宗は、人々の暮らしのなかで、地下組織になっていたのである。念仏講は、報恩感謝の精神を大切にしていた。「なんまん、なんまん、ありがとう」と。隠れ念仏は、真宗の禁制のあった熊本の相良藩(人吉地方)から薩摩藩、琉球まで広い地域で信仰されていたものである。相良藩で約320年間、薩摩藩では260年間にわたって、浄土真宗を信仰することに厳しい弾圧があった。厳しい弾圧のなかでも、薩摩藩や相良藩の民衆は、信仰的信念を守って、隠れ念仏として地下にもぐったため、信仰の場は、山中の洞窟であったり、大木の下の穴であったり、商家の倉であったり、様々な方法で念仏講を行っていたのである。それは、寺院による檀家ではなく、地域ごとに日常の社会的な生活組織と結びついて、広いネットワ-クをもちながら念仏報恩講が組織されたのである。と記述している

高橋和巳は「邪宗門」を描いた。親の遺骨を携えて、多分綾部駅であろうな、降り立った。帯封にあらゆる宗教とは教団の端緒は創成期は邪宗だと。遠藤周作は「沈黙」を描いた。宗教とは何故教団を立ち上げるか。あらゆる宗教にはその始まりは邪宗と言われ、世直しを掲げている。従って支配層、権力者からは弾圧を受けるのが常である。宗教とは(神)の前では平等、あまねく格差なく、平等なんだな。銭湯での裸の付き合いのような感覚であろうな。従って支配層からは弾圧を受けてきた。

神がいるのか、この点についてジャンポール・サルトルはいるか、いないか関係ないと。考えないと。考えなければこの世は人だけ考えれば良い。この世に投企されたと。放り出されたと。だから人があの世のことよりこの世を考えよと

神がいるとしたら誰を神にするか宗派に分かれる。政治とは国家とは、個人が形成する。しかし統治者にとればすべて平等で無い。司馬遼太郎が道路は民のために民が通るために道路を作ると。戦争ではその道路で民をなぎ倒して武器である戦車が通ると。本来平等とは、宗教が全てに対して、政治・統治とは全ては無理で一部の幸せしか出来ない。それは相反したものだな

若い頃懇意にしていた近所の歯医者がキリスト協会に数回通ったが、神の前ではすべての人は平等だと。恐ろしい教えなんですねと言っていたことを思い出した。また高橋和巳の憂鬱なる党派だったかな、邪宗門だったか、文中で仲間と焚火をしていて、中に焼き芋が入っていた。もう食べ頃かなと食ったら硬いの、カテイの、ドメスティックと叫んでいた。妙なことを覚えている

今回の旧統一教会は、一時的には教祖の文鮮明は脱税とかで逮捕されたが、この国では国家権力とべったりだな。政権権力者とは持ちつ持たれつ、まさに手をつないできた。不思議な現象である。果たして旧統一教会とは宗教教団であろうか、弾圧の歴史を持たず、下手をすると忍びの草のように、ひそかにひっそりと足音も立てずに中央政界や地方政界に渡り歩き、国家権力に浸透してきた。誰も口を噤んで語ってないが、それは一種の政商とも言えるな。いや俺からは政商に見えるんだな。それほど深く静かに浸透してきた。こんなことを言うと車寅次郎からは、結構毛だらけ猫灰だらけ、それを言っちゃお終いよ。山田風太郎からはコレデオシマイと聞こえてくるな

7月8日に安倍晋三が亡くなった。岸っ田文雄は国葬出来るか根拠を調査させ、7月14日の記者会見で国葬と発表した。7月22日の閣議で、安倍晋三の国葬決定を9月27日に日本武道館で行うと決めたと。早や飯早や糞芸の内と言われるが、芸とは修練が付き纏う。ないしは習慣となる。岸っ田文雄は総理大臣になって、遣唐使をもじって、検討使と言われていた。それほど意思決定には慎重を期していたが、安倍晋三の国葬の決定は素早いんだな。選挙運動中の銃弾で亡くなったことにより、旧来のリベラル気質から民主主義を守るためか、総理になって初めての意思決定と意気込んだか。やせ馬の先走りになっちゃったな。曲者の一端が垣間見える。

総理大臣の権限の強さに驚いたな。国会の議論を通さず、総理の考えで国葬を行える。権限は強いと言える。リーダ-シップを通り越した権限であろうな。2020年の自民党総裁選挙は菅義偉が圧倒邸に有利であった。岸っ田文雄は安倍晋三の影に隠れて後継の指名をずっと期待していたが、その期待はいつも裏切られていた。下馬評では岸っ田文雄は参加するだけの候補者であった。テレビで候補者の家庭を写された時に、かみさんから「主人は可哀想です」と。この光景は全国に流れた。配偶者から慰められるようでは、もう駄目だな

岸っ田文雄は総理大臣の権限で人事を決める。または安倍・菅体制から続いた人事によって組織を固めることから、情実によって自らの体制を維持するのを真似たのであろうか。人事とは適所適材と言われるが疑問符がつく。9月1日に島田和久を内閣官房参与(防衛政策)に任命した。島田和久は第二次安倍内閣で首相秘書官を6年以上務めた後に防衛事務次官になった。安倍晋三の信頼篤く、防衛費の対GDP比2%超えの後ろ盾者であった。それ故安倍晋三は事務次官の続投を望んだが、岸っ田文雄は首を縦に振らなかった。事務次官は交代し、後任者は同期の鈴木敦夫が7月1日に着任した。異例な人事と言われたが、それを9月1日から内閣官房参与(防衛政策)にした。岸っ田文雄の意図が分からない

もう一つの人事。岸っ田文雄は旧統一教会の影を無くすため、国葬へと向けて8月10日に内閣改造をした。当初9月初旬と予定されていたが、旧盆前に断行した。これも岸っ田文雄の決断の一つであったろう。大臣を決め、官房副長官、総理大臣補佐官、副大臣と任命していった。そして総務大臣政務官に杉田水脈を任命した。杉田水脈は「性的少数者は子供を作らない。生産性がない」「女性はいくらでもウソをつけますから」とか問題発言の多いいわくつきの者である。岸っ田文雄は自民党の中では宏池会であり、リベラルと言われてきたが、首をひねってしまう

水脈とは万葉集からとったとも言われるが、
秩父の金子兜太に、水脈の果 炎天の墓碑を 置きて去る の句があった

60年安保以降生まれの者たちが政治家になっていく。選挙民に選出されてきた。小生から見ると若いが、壮年であろうな、自民党の中には「保守団結の会」とか「神道政治連盟」とか戦前への懐古でなく、意外と戦後派に多いんだな。安倍晋三の政界への引っ張りもあったんだろうな。自民党の体質が本質が脈々と継がれているようだな

7月12日に安倍元首相の家族葬が、昭恵夫人が喪主を務め増上寺で営まれたと。その際に、遺族の意向も踏まえて陸上自衛隊の特別儀杖隊が参列したと。防衛大臣は亡くなった安倍晋三の弟の岸信夫だった。私的な葬儀に儀杖隊が参列したことは、戦後初めてのことだったと。防衛大臣だけの権限か、岸っ田文雄が関与したのか不明である。人は論理で動くとは言っても、感情をもっている。公人を長くやると公私の境目が分からなくなるのは習慣により、自然な行動になってくるんだろうな。AI(人工知能)ならいざ知らず、人とは感情・感覚・感性・文化に作用されることが極めて多い。それは人の性であろうな

葬儀とは死者を供養し、弔う。宗派によっては悲愴でなく、笑顔であの世に送り出す方式もある。しかれども、葬儀の前提には誰の死であっても死者の前では頭を垂れ弔意を表わし、敬う。それは国家が主催する国葬でも同じである。安倍晋三の生前の評価には熱烈な信者もいたが、同数あるいは一定の反対者がいた。熱烈な支持者に劣るとも言えない強烈な反対者がいた。国葬には敬うことに反対の意思表示をする国民が現れることは想定されていた。国家でやる葬儀には似合わないんだな。何でも一定の反対者はいるが、国葬には大手を振って反対する集団がいる場合を想定される時には、国葬は相応しくない

安倍晋三にとって幸いなのは選挙中の銃弾に寄る死であった。戦後の首相経験者の中で銃弾やあるいは刺殺された者はいなかった。死者は何時の世でも許される要素がある。過去の汚点でさえ銃殺によって美化されがちである。そういう意味で過去の汚点を帳消しされ、かつ神聖化される点もある。それは事件後、民主主義を守る、民主主義を守ると連呼されたことにもある。また保守の会での最高顧問就任にも表れている

1972年(昭和47年)2月に連合赤軍の残党によって軽井沢町の河合楽器保養所に立て籠もった浅間山荘事件があった。テレビで生中継され高い視聴率で、真冬の寒い時期に占拠した者たちと警察との攻防に、テレビの前に釘付けになった。連合赤軍側は猟銃などの銃器を持っていて。管理人の妻を人質にした。死者3名。何人もの重軽傷者を出した。連合赤軍側は最後のあがきであろうな、やりたい放題の有様であった。対する警察は警視庁長官に後藤田正晴、広報幕僚長に佐々淳行を擁し、まず人質の無事救出を目的とし、犯人に向けて発砲しないことを前提にしたと。そして犯人全員の生け捕り逮捕を目標にしたと。犯人からは情け容赦もなく撃ってくる。こちらは死者も出したが、ただ防御するだけであった。後から分かったが、犯人を殺すと英雄視、神格化されかねないと。あの頃は知恵者、識者はいたな。犯人たちは全員自爆者も出さず、生き残って逮捕されたため、警備当局の潔さ手際の良さが余計に目立った。公務とはつらいものであるな

その昔、公僕という言葉があった。亡くなった赤木俊夫の口癖は「僕の契約相手は国民です」と。公務員とは読んで字のごとく公に努める人員である。公に義務を持った者とも言える。日本国憲法第15条では「すべて公務員は、全体の奉仕者であって、一部の奉仕者ではない」と規定されている。憲法とは公人を縛っているんだな

内閣府は文化の日(明治節)に文化勲章を授与すると。我が国の文化の発達に関して顕著な功績のあった者に授与すると。文化の定義は難しいが、スポ-ツも含まれるようである。対象者は民間人。公人はいない。公務員は別に瑞宝章を設けている。また国民栄誉賞は1977年(昭和52年)から設けられた。これも民間人を対象にしている。また文化勲章受章者には金銭を支給できないため、1951年(昭和26年)から文部科学大臣が文化功労者を設けた。これも公人でなく民間人を対象にしている

文化勲章とか国民栄誉賞は国家が授与するんだな。授け、与える。従って辞退者もいる。受賞者よりも辞退した者の方が記憶に残っている。曰く文化勲章では河井寛次郎、熊谷守一、杉村春子、国民栄誉賞ではイチロー。国家から与えるよと言われたが、辞退する。色々あろうな

対して国葬とは過去、民間人でなく、公人を対象にしている。公人が国家から供養される。弔意を受ける。しかも国費を使って

太平洋戦争(15年戦争)敗戦前の尋常小学校修身教科書では
キグチコヘイ ハ テキ ノ タマ ニ アタリマシタ ガ
シンデモ ラッパ ヲ クチ カラ ハナシマセンデシタ  と

戦前の世代では木口小平は英雄であった。木口小平は日清戦争で歩兵二等兵であったと。1894年(明治27年)7月の成歓の戦いで突撃ラッパを吹いている最中に清国の弾に当たり死亡したが、死んでも口からラッパを離さず、ラッパは口元にあったと

戦前は義務教育で修身の授業があったと。修身とは端的に言うと道徳だろうな。国家が幼時からこのように生きるべき、考え方、行いを教えていた。徳の道だな、これを教えていた。色々な考えでなく、言わば道徳の押し付けでもあり得た。明治維新前でも藩の学校には道徳の授業はあった。明治になり中央集権となり藩主が天皇に変わった。しかも大日本帝国憲法第1条「大日本帝国は万世一系の天皇之を統治す」、第3条「天皇は神聖にして侵すへからず」と。道徳とは一種の宗教とも言えた。本来家庭や社会が教えることを国家が教えていた

公人とは死んでも、死んだ後も国家との関りがある。公務員とは公人とはつらいものがあろうな。7月12日の家族葬では民間人の弔問も多かったと。生前安倍晋三の信奉者であった田崎史郎がテレビであんなに並んでいたら焼香する気にならないと言っていたが、一般の民衆は並んでまでも焼香の列に加わる。信者はいるんだな

いっそのこと、あれほど多くの信者がいるんだったら、国家に頼らなくても、有志で葬儀をやる選択もあろうな。そうすれば戦後初めてのことで、多くの信者に囲まれて本人もあの世へ安心して旅立ちができるだろう。そうすれば反対者は無く、国費云々も言われないだろう

もう国葬と決めたから後には戻れない。国葬の費用は2022年度予算の一般予備費から2億4940万円で、それ以外に警備や外国要人の接遇費用がかかると。巷では数十億円と言われている。

令和4年度一般会計歳出総額は107兆5964億円である。その内一般歳出が67兆3746億円、その中で新型コロナ対策予備費が5兆円である。予備費の割合は一般会計歳出総額の4.6%、一般歳出では7.4%である。従来から指摘されているが、コロナ対策という非常時の費用もあろうが、予備費が5兆円は令和3年度も4年度も同額である。予算とは歳出を国民の前に予め目的をきめて算出することである。予備費とは何に使うか明示していない。国会とは国民の前に何のために何円かかるが、よろしゅうお座いますかと図ることである。予備費がこんなに多いのでは、どんぶり勘定では、国会議員の機能を果たしていないと言える

総務省予算では、一般会計予算4759億円の中で「マイナンバーカ-ド関係経費、国政選挙関係経費等として2079億円である。その内マイナンバーカードの発行、申請、交付体制の整備では、令和4年度末にはほぼ全国民にマイナンバーカ-ドが行き渡ることを目指す方針で、令和3年度予算1001億円、2年度補正予算で1032億円とし、令和4年度予算1027億円、3年度補正予算で268億円を計上した。この中にはポイントの費用も含まれていようが、マイナンバーカ-ドの普及として日夜テレビ宣伝をしている。この宣伝に何人もの「お笑い」を使っている。選挙の啓蒙も「お笑い」、国家とは「お笑い」が好きなのかな。小生から言わせると真面目にやっているかなと聞きたくなる。宣伝とは画像の良し悪しでなく、露出の回数なのだな。談志の弟子がマイナンバーポイントを国家が出すようじゃ、まやかしだなと言っていたが、噺家はいいことも言うんだな

国家の「くにがまえ」の中は、旧字体では「或る」で國だった。今じゃ「くのがまえ」の中は「玉」なんだな。「王」では無い。将棋では「天に二日なく、地に二王なし」との言葉に基づき「王将」は1枚とし、上位者が「王将」を使い、下位者が「玉将」を使うのが慣例となっていると。「国家」の「くにがまえ」の中が何故「玉」になったか知らない

氏名名称、年月日等はWikipediaを参考引用した



八月や(1)序・・・・・

2022-08-23 11:51:53 | 世評
八月や 六日九日 十五日
ハチガツヤ ムイカココノカ ジュウゴニチ

八月は新暦で言えばお盆の時期。盆とは仏教の盂蘭盆会からきたであろうが、先祖の霊を自宅に招き入れると。祖先を敬う、盆踊りもその一環であろうな。八月とは死んでいった者を偲ぶ、生きている者あるいは生き残った者が年に一回ぐらいは祖先を敬う期間であろうな。敗戦と盆が同じ時期であるのは、この国にとっては偶然であろうが感慨深い

八月に原爆が落とされ、原爆とはいつ頃からか核兵器と呼ばれているが、やはり原子爆弾の言葉の方が耳に残る。夏の花を記した原民喜の「原爆小景」、また詩碑が建っている原爆ド-ム、これが核兵器では洒落にもならない。言い換えるならピカドンである。丸木位里・俊も「原爆の図」なんだな

唄で言えば、
ふるさとの街やかれ 身よりの骨うめし焼土に 今は白~い花咲~く・・・
浅田石二作詞、木下航二作曲の「原爆を許すまじ」
歌詞も良い 歌は詩が生きてくるので徳だな

原爆が落とされたのは八月初旬、戦争終結の目的もあったろうが、黄色人種もあったろうな。二進も三進も行かなくて、15日には無条件敗戦。これでオシマイ。国家は負けたがバンザイしたが、人民は国民はやっと国家から解き放された。しかしそのためか五木寛之などは敗戦の日からが本当の戦争が始まったと。民とは悲しいな

盆と正月では無いが、八月の暑い時期に敗戦と盆があるのは良いな。今年の夏は気候が異常である。東北や北陸などは大雨による洪水、以前は九州が多かったが、昨今は至る所に線状降水帯が発生する。今だかって経験したことがないほど雨が降る。片やライン川では渇水だと

仏教では新盆とは故人が亡くなった後、初めて迎えるお盆であると。より正確には四十九日の忌明け後初めてのお盆であると。7月8日に亡くなった安倍晋三、安倍家では、いや岸家かな、新盆がどうなるか知らない

丁度参議院議員選挙中の応援演説中であった。安倍晋三にとって不幸だったのは7月8日、この日は長野選挙区の自民党候補松山三四郎の応援演説の予定だったと。しかし文春砲によって松山三四郎の不倫疑惑、人工妊娠中絶同意書に偽名で署名した事実が掲載されるので急遽奈良県に変更したと

週刊誌と言えば新潮社に斎藤十一がいた。新潮社の天皇とも言われたが、ひとのみち教団(現在のPL教団)の信者であったが、「どのように聖人ぶっていても、一枚めくれば金、女。それが人間。だから、そういう人間を扱った週刊誌を作ろうと。」新聞が書けないものを書いていくのが俗物と言われた週刊誌でもあるな

この件よって対立候補である立憲民主党の杉尾秀哉は楽々当選した。選挙前は拮抗していたが、それ故安倍晋三の応援演説を予定していたが、この件で松山三四郎は落選濃厚となり、杉尾秀哉は命拾いした。安倍晋三も長野に行っていれば、銃撃されることは無かっただろう。運命とは一寸先は闇である

銃撃したのは山上徹也。41歳。選挙演説とは大衆に一般国民に語りかける。票を求めて応援者は語る。説法とは仏の教えを説くことであるが、文章でなく口語であるので何度も何度も同じ言葉を、強弱を交えて演じる。一種、役者や俳優と似ている

山上徹也にとっては願ってもない運命であった。地元の奈良に狙った安倍晋三が来るとは運命とは分からない。演説の数時間前には現地に待機していたと。要人の度合いにもよるが、現場には警備担当者が不審者を点検していたであろう。山上徹也は付近を見回っていたと、多分警備陣には普通の人と映ったのであろう。山上徹也は安倍晋三の演説が始まると、後ろに配置した。後ろには聴衆も少なかったが不審の動きはしなかっただろう。一旦後ろに退いて、帰ると見せかけて安倍晋三に接近して撃った。当人には当たらない。この位置では当人以外にも被害が及ぶと考え、また命中度を高めるため、素早く一歩二歩と前に出て安倍晋三一人を狙って、当たった

黒澤明の七人の侍で仲代達矢は通行人で出演した。黒澤明から歩き方がなってないと、何時間も歩かされ、そのことが仲代達矢には強烈な印象になったと。7月8日の山上徹也にとっては千載一遇の機会で胸に秘めた思いはあったろうが表面には出なかったのであろう。目立たず普通な歩き方をして、すぐさま行動に移したのであろう

長身であった河島英五が、歌っていた
一日二杯の酒を飲み/さかなは特にこだわらず
妻には涙をみせないで/子供に愚痴をきかせずに・・・
目立たぬように はしゃがずように/似合わぬことは無理をせず
人の心を見つめつづける/時代おくれの男になりたい・・・・・
作詞は阿久悠。おのこ だな
山田洋次が「男はつらいよ」を制作した。車寅次郎は渥美清の当たり役。国民的ヒット作であった。松次郎竹次郎こと松竹のドル箱であった。何故「男はつらいよ」の題名にしたか定かでないが、車寅次郎は身内にとってはヤクザ者であり、鼻つまみ者であったろうが、男の辛さ、粋を描いている

事件後、山上徹也の供述がポツリポツリと警察から漏れてきた。凶器は手製の銃であったと。火炎瓶や爆弾では人を殺せないと、抹殺出来ないと。自分で研究して銃を作ったと。春には完成して試し撃ちもやったと

山上徹也は事件の重大さに比べて、素直なんだな。昔の変人とか変態は一癖も二癖もあったが、今の変わり者は意外と素直さをもっている。供述も黙秘など使わず素直に心情を話す。2002年から2005年まで海上自衛隊に在籍していたと。任期制自衛官だったと。そして自殺未遂を起こした。叔父がその動機を自衛隊に聞くと、自分が死んでその保険金で生活に苦しむ兄弟を助けたいと

昔の人間は一癖も二癖もあった。土台選挙の出口調査も今の人は自分の意見を素直にしゃべるんだな。だから開票した途端に当確者が決まる。アンケ-トもほぼ蓋然性が保たれると。嘘をつくのは国家の統計局ぐらいであるかな。統計の数字が虚構では先に進まない。曲者や山本周五郎のような曲軒はいなくなったな

帝政ロシアの頃、暗殺事件は数多くあった。暗殺する者は一人一殺を心掛け、標的にした者のみを狙い、周囲にいた民衆には当たらないようにしたと。山上徹也も心して大衆には影響を与えないようにしたが、民衆を傷つけなかったのは、せめてもの慰めであったろう。手製の銃は一度に六発の弾丸が出る構造になっていたと。一度目は六発出てどこに飛んだか分からない。二発目の内二つの弾丸が安倍晋三に当たったと。二発の弾丸は、一つは体内にあったが、もう一つは見つからないとか。六発の内四発はどこに飛んだか分からない

いずれ裁判で明らかになるであろうが、山上徹也は7月25日鑑定留置のため奈良県警察奈良西署から奈良地方検察庁に移送された。鑑定留置は11月29日まで約4か月間だと。奈良西署から移送される写真ではベストを着ていたかな。防弾チョッキであろうかな。口封じは十分考えられるので、くれぐれも裁判結審まで刺殺されぬよう警察当局に願いたい。岸っ田内閣は安倍晋三の国葬決定を7月22日の閣議で9月27日に日本武道館で行うと決めた。その国葬決定後の雑音を避ける意味もあって、7月25日から4ヶ月ほどの鑑定留置を決定したか。少なくても国葬までは山上徹也からはマスコミ等の外部には発信出来ないこともあるな

暗殺の武器では刃物が多い。黒澤明監督の「七人の侍」を参考にしてメキシコを舞台に「荒野の七人」を作った。その七人の中でブリット(ジェ-ムズ・コバ-ン)がナイフ投げの達人であった。演技上の役者であったが、普通の人では銃のように遠くから刃物では人を殺せない。刃物では相手にぶつかっていかないと達成できない。1960年10月12日日比谷公会堂にて浅沼稲次郎は山口二矢に刃物で刺殺された

オウム真理教の時には1995年(平成7年)4月23日衆人環視のもと教団南青山総本部前で正大師の村井秀夫が刃物で刺殺された。犯人はすぐ逮捕されたが、動機やなぜ殺せたかは不明である。裁判もやったが良く分からない。犯人の供述も変わることもあろうが背後関係が不明のままであった

警視庁公安部では良く分からない事が多い。1994年6月27日オウム真理教は松本サリン事件を起こした。死者7名、負傷者は約600名であった。当初はなぜ事件が起きたか、化学物質であるかどうかも警察は分からず第一通報者であった河野義行を事件の容疑者にした。それを受けマスコミも例の通り追随した。翌1995年3月20日地下鉄サリン事件が発生した後ようやくオウム真理教の犯行であったことが分かった。公安の調査不足であり、警察の杜撰な捜査であった。河野義行は被害者の妻の看病に追われたが、妻は2008年8月5日に死亡した

いつしか小生は長野のホテルでテレビを見ていたら河野義行は婿でその後鹿児島県警の手伝いで講演などして公安委員会委員かな鹿児島で過ごしているとか。警察に容疑者とされ、マスコミに翻弄されたが警察のお手伝いをしているとは。小生には真似は出来ないな。度量が広いと言うか人格者であろうな。人には色々あるな。原爆死没者慰霊碑には、「安らかに眠って下さい。過ちは繰り返しませぬから」と書かれている。これも度量が大きいと言える

金大中事件もあった。1973年8月8日金大中は九段下のホテルグランドパレスにいたが襲われ、5日後ソウルで解放された。日本で白昼堂々と拉致が行われ、警察や公安は知ってか知らずか物事が進展していった。その後金大中は韓国の大統領になってもこの件は不問にした。北朝鮮による拉致も良く分からない。警察が分かってか分からないのか犯人があがらないのだな。世の中には分からない、理解できないことが多いな

刺殺手段が刃物では難しいとみると、飛び道具の銃になる。鉄砲だと遠くから撃てるが当たる確率は修練になる。日本では銃器の所持は事前に公安委員会に許可されないと難しい。山上徹也は「こてつ」と称されたぐらいであるので、小柄で警備陣を突破する腕力は無かったであろう。あれやこれやで火炎瓶や爆弾では殺傷までいかないので、手製の銃の製作に至ったであろう。

銃だと1995年3月30日國松孝次警察庁長官狙撃事件があった。この犯人のように逃げることは考えない。これも迷宮入り。分からんことが多い

山上徹也は思いが確実に遂げれば良いと考えるにあたって、直近から当たる銃を考案したのであろう。銃の製作には作って試して試行錯誤の繰り返しであったろう。まさに執念であり、実行には目的に向かっての冷静さを備えていた

山上徹也の標的は旧統一教会であった。当初警察はある宗教団体と称していた。現代ビジネスがいち早く統一教会と称していたが、安倍晋三と統一教会の関係が深いと。そのため安倍晋三を狙ったと。山上徹也は長い間統一教会に関わってきたので、創始者の文鮮明が亡くなって分裂騒ぎも知っているし統一教会に関することは把握している

警察当局はオウム真理教の摘発の後は統一教会と定めていたが、民事事件はあったが、刑事事件化は無かったと。マスコミでは統一教会の話題はタブ-であったと。マスコミ界とは大きな所を除き、個人で関わっている者が多い。統一教会の話題をすることは失職になり、下手をすると業界からの追放にもなりかねないと。そのため2009年信者2名が懲役刑となったことからそれ以降統一教会は政治家との関係を強くし、警察の摘発かから逃れた

宗教集団とは武者小路実篤に思いを馳せる。1918年(大正7年)に宮崎県の戦国時代の山城「石城」跡に「新しき村」を開村した。1938年(昭和13年)のダム建設により水没すると埼玉県毛呂山町に移住した。名称は一般財団法人であるが、宗教集団の原型だろうな。HPによると令和4年5月27日に埼玉県に対して公益法人とするため公益認定の申請をしたと

ヤマギシ会も農事組合法人であるが、一種の宗教集団であろう。原始共産制と言おうか出家と言おうか共同生活であろう。またジャンポール・サルトルが評価したのがイスラエルのキブツであった。キリスト教でも修道院がある。教団に入る時には全財産を寄進して共同生活をする。

宗教とは人の救済であり、楽園を求むのであろう。そのためには金も必要である。信者にとれば教団に身も心も進んで捧げる。そして現世を過ごすことは考えられる。いわゆる出家でなくとも収入の何割かは寄進することはどの教団でも同じであろう。しかし、旧統一教会はやりすぎであったな。マスコミは頭の死によって重しが取れたように次から次へと旧統一教会と政治家の関係を暴いていく。それほど自民党といや政治家と旧統一教会の関係は深い闇のなかである

東京は府中に大國魂神社がある。ここで毎年5月のゴールデンウィ-ク期間中に深夜の暗闇に祭が行われていた。あれは最初から暗闇でやるから良い。今回の自民党安倍派と旧統一教会との関係は真っ昼間に闇から闇に葬るから困っちゃうんだな。政治と宗教との関わりで言えば、宗教法人自らが政界に出る場合と、既存の政治家に依存するかどちらかである。宗教法人が自ら政界に進出する場合は、創価学会と公明党、幸福の科学と幸福実現党、古くはオウム真理教などは自らが政界に進出した。しかし創価学会を除いては芳しくない。唯一創価学会だけはあらゆる方面に進出している

オウム真理教は富士山が美しく見える上九一色村に教団を移した。出家したので住民登録もしただろう。当時の上九一色村の人口は1,500人前後であったろう。オウム真理教の出家者が何人か知らないが、国政よりも地方から攻めていったら、村議会も村長も合法的に奪取出来たであろう

自らは進出せず自らの影響力を政界に浸透させたのは多くの宗教教団がやる手であるが、最も効率的なのは旧統一教会である。旧統一教会の場合は宗教団体で1968年に日本で国際勝共連合を創設した。宗教法人としてではなく、その関連団体を通して政治家に浸透していった。反共産主義として岸信介あるいは右翼の笹川良一を通して政界に進出していった。東西の冷戦が終わると平和や家庭をキーワ-ドに浸透していった。そしてその資金源は、自らの商売と日本の信者からの寄進、献金である。日本の信者を標的にして活動資金を捻出した。そのため先祖の因縁を取り除くため壷の販売や、あるいは姓名判断や家系図鑑定に関するいわゆる霊感商法を広めた。その財力は充分政治家に影響力を与えている

旧統一教会の主張は、日本会議 神道政治連盟と似ているんだな。反共産主義、皇室と伝統文化の尊重、国土を守る憲法の制定、靖國神社に祀られる英霊に対する国家儀礼の確立、家庭の絆を大切にできる社会の確立、道徳心のある教育の確立、男は男らしく・女は女らしく同性婚や夫婦別姓は家庭を乱すなど、自民党の旧来の主張とも相容れる。然れども韓国だけでなく世界各国の右派は基本的には国家主義者だな。旧統一教会も反日だが反共産主義を基本に財力で自民党と共有しているのだろう

森友学園問題が起こった時、運営している塚本幼稚園で毎朝愛国心の一環として教育勅語を暗唱させていた。幼い子らが、朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト云々と全員が朗読する。合唱する。その様を見て、鴻池祥肇は涙をながさんばかりに感動した。ましてや安倍晋三や安倍昭恵も稲田朋美も小躍りして称賛し、讃美し、支持した。一時忘却の彼方にあった現象を呼び戻し心から感動したであろうな。彼らにとっては、自民党右派にとっては、「古き良き時代」なんだな

旧統一教会は参加料として、ショバ代として合同結婚式をやる。岸信介や安倍晋三は山口県田布施町の出身である。田布施町とは踊る宗教と言われた天照皇大神宮教の本部がある。創始者は北村サヨ。原始宗教には霊感をもった婆さんが初代教祖になった場合が多いが、北村サヨも霊感をもっていたと。この天照皇大神宮教では面識がない男女の結婚(結魂)をすることがあったと。宗教とは神道は何らか似てくる。オウム真理教でも早川紀代秀や林郁夫などの幹部は阿含宗の信者であったし、旧統一教会や国際勝共連合の日本の初代会長の久保木修己は立正佼成会に入っており庭野日敬会長の秘書を務めていたと。また山上徹也の母も旧統一教会の前はデイリ-新潮によると朝起き会(実践倫理宏正会(一般社団法人))に嵌まっていたと

ちなみにFRIDAYデジタル8月17日の報道によると安倍晋三は崇教真光(手かざし宗教)の平成21年12月の冊子で信者と述べていると。安倍派とは清和政策研究会と言うが地元の天照皇大神宮教の二代目教主は北村サヨの孫娘の清和だと

政治家が宗教教団に接近するのは理念や思想の一致もあろうが、票も大きい。石っ原慎太郎も最初の選挙だったかな、ある宗教教団からの支援をお願いしたと記憶しているが、霊友会だったかな、定かではない

しかし安倍亡き後の報道、テレビを筆頭にして自民党と旧統一教会の関係が次から次へと出てくる。マスコミとはスポンサ-がいるが、それ故安倍晋三が健全であった時には日の目を出なかったが、亡くなると一気にあふれたな。いつもは大阪を対象にしていたが、四チャンネル、ポンテレ(日本テレビ、読売テレビ)のミヤネ屋が意外とやるんだな。視聴率を取れると見るや、ここぞとばかりに旧統一教会と自民党の関係を暴いていく。やはり商人の町大阪を彷彿させる。多分視聴率を取れるんだろう。報道機関は情報を持っているが、出すか出さないかはトップが決めるし、スポンサ-の意向もある

しかし旧統一教会の政界への浸透は恐ろしくもある。政治家とは票を求めるがお構いなく議員当選に向けていく。政治家とは議員に成ったら次の選挙に勝つことが第一の仕事であると。猿も木から落ちる、落ちたらただの人だな

国士とか国粋主義者がいた。太平洋戦争前、戦前だな。右翼とは国士、国粋主義者、国家主義者ナショナリストだったな。戦後になると国士も国際主義者インタ-ナショナルになってきた。左翼も同じで日本主体でなく、世界的に考えてきた。それには商売、資金調達がナショナリストでは難しくなってきたことに理由があるんだろうな。皇国とかは従来通りであるが、安倍晋三などは日本独自でなく、世界の中の日本を考えていた。倫理では教育勅語や勅語を頭に描いているが商売は別だな。これは右派だった小泉純一郎が新自由主事を唱えだしてから以降の傾向だな

議員とは選挙で選ばれる。立法府とは法律を作ると。この法律の中には選挙に関することも含まれている。選挙制度や選挙区も議員たちが決める。賭博の世界では胴元がいて、実際に賭博の参加者とは建前は区別されている。時代劇ではよく博打の場面が出てくる。「話の特集」を創刊した矢崎泰久によると、丁半博打ではツボ降りが丁方と半方双方を集めるのが難しいと。丁方だけでは、あるいは半方だけでは博打にならないと。両方集まって博打になる。議員の選挙では、自分達が選挙方法を決めている。こりゃあ八百長じゃないかな。田舎の議会では違法なことが起こると、昔は行為に合うように法律を作っちゃえと

一票の格差は憲法違反であると訴訟したが、結局決めるのは議員だな。国会議員(衆議院)は小選挙区制度になって一選挙区で一人の選出になった。検察審査会がある。無作為に選出された有権者による組織である。どのように選出するか知らないが機能しているんだな。議員も籤引で選出したらどうかな。それではあんまりだと言うならば、いっそのこと選挙区など無くすのが良い。それに同じ選挙区で立候補出来ないようにはならないかな。そうすれば地元と議員の癒着は無くなる。政治家とは政治屋であり利権屋であろうな。その昔は周旋屋や口入れ屋と言っていたかな。議員などは長くやれば利権を得てくる。土台10年や20年や30年もやっていれば、人事権を持っていればやりたい放題になりかねない。今の時代は利権があれば座っていても蓄財できる。昔の自民党の総裁選挙などは札束が飛び回っていたと。藤山愛一郎なぞはなんぼ銭があっても足りなかったと。今じゃ銭が銭を生んでくる

自民党に金丸信こと銭丸がいた。銭丸と文鮮明と金正恩は繋がっているんじゃないかな。1990年9月に北朝鮮に社会党議員と一緒に訪問し、金丸信は金日成と差しで対談した。1992年3月アメリカで脱税容疑により文鮮明は日本に入国できなかったが、入国させ3月30日に金丸信は文鮮明と会見した。金丸信が法務省に圧力をかけたのではないかとの疑惑がある。また金の延べ棒の件、オウム真理教の強制捜査で金の延べ棒約10キロが発見されたが、刻印が無く北朝鮮製であったと、アエラ2012年6月19日、週刊朝日2012年6月29日号が報じている。良く分からない

旧統一教会も日本人から金を巻き上げ、それに加え商売も上手いのだろう、いやこれほど政界に食い込んでいると利権も持つのだろう、利権とは金が金を呼んでくる。日本だけでなく世界に進出しているようだ。所詮政治屋とは国民、国家よりは自分の懐であろうな

旧統一教会はさまざまな連携団体を持っていると。選挙の手伝いでも旧統一教会との関係は分からないと。最初は分からないだろう。一人や二人でのボランティアでは受け入れることはあるだろう。しかし旧統一教会は組織でくるだろう。一人二人のボランティアの域ではない筈だ。宗教も組織であり上意下達であろう、階級社会だろうな

議員には政治活動費や政務活動費が与えられると。この中から旧統一教会の関連団体に会費を支払っている。それは政治活動の一環としての支払いだな。極端な場合、スパイ目的以外には共産党に対して旧統一教会は接触を試みないだろうな。議員とは代議員制度になっている。国民が選んで、その代表が議員と言うことになっている

せめて公務員とは嘘を言わずに正直になれ。安倍晋三などは国会の場で桜を見る会前夜祭などは嘘を貫き通した。嘘から誠とは虚構の世界だな。藝術、文化とは虚構の世界を描く。虚構を通して真を探っていく。しかし公務員とは事実を話さねばならない。岸っ田文雄は7月22日の閣議で、安倍晋三の国葬決定を9月27日に日本武道館で行うと決めたと。検討使と言われた岸っ田文雄にしては早いんだな。意外と曲者だな。民主主義を守るためとか、丁寧な説明をとか口では言うが、やることは曲者だな。噓になるかなと思ったらせめて口を噤ぐむ方がまだましだな

冠婚葬祭と言う言葉がある。人の一生を描いていると。日本旧来の伝統的な一生である。伝統であるから外れることもある。制度の婚姻でなく、事実婚もあろう、同性婚もあろう、さまざまであるが、旧来の言葉だな。人が亡くなると残された者が葬式を行う。葬式にも色々あろうが、あくまでも遺族とか残された者が行うんだな。こぢんまりと家族葬もあろう、密葬もあろう、直葬もあろうが残された者がやるんだな。そして順番でいくと、葬式の後に祭りごと、祭事がくる。国葬とは残された岸っ田文雄が決定した。少々早とちりだが、自己の権威を高めるために決めたのであろうな。昔、言語明瞭、意味不明と言われた竹下登総理がいたが、岸っ田文雄も国葬の決定とか今回の組閣を見ていると、この口であり、意外と曲者だな

矢崎泰久を先ほど書いた。矢崎泰久は話の特集を創刊したが、右翼に殴り込みをかけられた折に編集長を出せと。しょうがないと面前に出たが、とっさに、じんむ、すいぜい、あんねいと口にし、しかも漢字を記載したと。やはり戦前の教育を受けた者は違う、右翼は舌を巻いて逃げたと。また木乃伊取りが木乃伊になる虞があったが、田中角栄に取材したとき、秘書の早坂茂三から車代として封筒を渡された、中身を見てよいかと聞いて見たら百万円入っていたと。車代としては多いと返したら、早坂茂三は返されたのはあなたが初めてだと

その矢崎泰久が2022年5月4日現代ビジネスに話の特集の件を記述してあった。石っ原慎太郎の逝去から3ヶ月が経った、1958年に小田実をリーダ-にして「若い日本の会」を結成した。安保反対のための若者たちの会だった。石っ原慎太郎も名を連ねていた。大江健三郎、永六輔、寺山修司、黛敏郎、谷川俊太郎、浅利慶太など新進気鋭の若者が参加していた。そして国会前のデモで石っ原慎太郎と会ったと。デモに参加したのは最初にして最後だったろうと。その後1965年に和田誠と「話の特集」を創刊した。資本金は矢崎と和田で100万ずつ。あとは一人10万円で80人募った。なかなか集まらなかったが石っ原慎太郎と黛敏郎がポンと出してくれた。1971年石っ原慎太郎は自民党から立って参議院議員となった。矢崎泰久は旗印の反権力、反権威、反体制に傷がつくので株主から降りてもらおうと話したが、石っ原慎太郎は断ったと。黛敏郎と一緒に話の特集を見張ろうと。5年後に増資することになり、矢崎泰久は会社から倍額出して降りてもらおうと提案したが友人だからと怒られたと。そして増資に応じたと。以後年に少なくても2回は石原・黛の二人を執筆者として待遇してくれ、また数ヶ月に一度は三人での会食の場を設けることと、ある意味三人の秘密であったと。矢崎泰久の困った顔が眼に浮かぶようでもある。若いってことは良いな。年を取ると、人間長く生きていくと垢が付いてくるかな。もっとも長く生きるのも芸のうちだかな。まあ矢崎泰久の古き良き話であった

反して、老いてますます磨きがかかることもある。澤地久枝と金子兜太である。澤地久枝は敗戦の時には満州にいた。金子兜太は南洋トラック島で敗戦。互いに戦争体験者である。2015年の安全保障関連法案に反対する。従来からの憲法解釈を変えて、集団的自衛権の行使に反対するために、澤地久枝が金子兜太に揮毫をお願いした。金子兜太は「アベ政治を許さない」と。「安倍」は安心や安寧が倍になるから「アベ」にしたと。こんな政権に漢字はもったいないと。アハアハと。笑うしかないな。「許すな」と共同行動でない。許さないなんだな。私は許さない。主語が民、個人、私なんだな。明確な意思表示だな。頼んだ澤地久枝もアベと書かれて唸ったと

金子兜太は秩父の人。山に囲まれているため空は狭いと。俳人であったが、思想家なんだな。しかも並みの思想かよりも深い。花鳥風月を季語で表現する俳句界にあって異端であった。花鳥諷詠に加えて人間を詠んだ。
水脈の果 炎天の墓碑を 置きて去る
ポン銀では窓奥族と自称していたが、定年まで勤め上げた。そこから羽ばたいた

新語・流行語大賞の2015年の大賞に「アベ政治をゆるさない」が選ばれた。当時の選考委員であった、やくみつるは解釈を変えれば「アベ政治を許してやってもよいよね」ともとれる。それぐらいの遊び心がなくてどうすると言ったとか。それは文化とか虚構の世界だな。私は許さないとは怒りだな。拳だな。山上徹也が恨みは自らがやると言っていたが、私の喜怒哀楽については当事者の感情だな。拳が他人任せでは拳闘ボクシングになっちゃうな

官より政により政治家の力が強くなってきた。政が全体の人事を差配してきた。人事権を武器に官僚を支配してきた。官僚も人事を盾にされると弱い。いや官僚だけでなく組織とはそういうものだった。安倍晋三も人事によって支配してきた。いや人事だけかも知れない。テレビなど見ていると、安倍さんは優しいとが意外と多いんだな。安倍晋三とは身内、仲間、味方には表情が違うようだな。歴代の政権の中で安倍晋三ほど賛否が分かれる男はいない。それは長く政権にいたから、良い悪いがはっきりと分かれてくる。海外では、外づらが良いので、また長く政権にいたので良く言う元首が多いな。弔電の多さにも表れる。国内でも弔問の数は多かった。

今の選挙は候補者を良いと選ぶんだな。駄目を選んで減点方式したらどうかな。安倍晋三は下手をするとマイナスになるかも知れない。しかし現行の小選挙区制度では2割の強力な支持者がしれば、選挙に当選になる。2割だから民意を反映しているかと言うと疑問だな。2割とは投票率は6割その内2割プラスアルファならば当選しちゃう

戦争を経験した者が少なくなってきた。敗戦後77年経った。1970年ベトナム戦争の真っ最中に北山修作詞、杉田二郎作曲で戦争を知らない子供たちを杉田二郎が歌った。戦争を語ったり知っている世代が少なくなってきた。内務省上がり警察出身の後藤田正晴はカミソリ後藤田とも言われた。その後藤田正晴は海外での武力行使を禁止していた。読売新聞社の渡邉恒雄は戦争だけは絶対にいけないとも言っていた。保守派からも戦争体験を引きずっている者が数えるほどになってきた

2005年(平成17年)にALWAYS三丁目の夕日が上映された。舞台設定は1958年(昭和33年)安保前の街並みで全てセットである。好評だったので続編も作成されたと。しかし小生から見ると昭和の時代はもっと汚かった。懐かしさはなく、街並みや隅田川でも雑然としていた。映画は虚構であるが、整然として違和感があった。しかし映画はヒットした

昭和の時代は戦争へ戦争へと突き進み、その戦後の時代である。戦争を見て聞いた者たちが少なくなった。オリンピックでは日の丸が高らかに掲げられている。スポ-ツビジネスと言葉が出てきたが、スポ-ツは金になる。人が集まる。テレビを見れば、食い物かスポ-ツだな。画像と漫画だな。オリンピックとは金に加え国威高揚が加わる。個人もさておいて国家だな。西欧の学者だったかな。愛国とは西欧では声高らかに叫ぶが、日本では表に出ず秘めていると。日本でもインタ-ナショラルの影響か西洋並みになってきた

戦争を認知している者がまだ残っている。日の丸や君が代によって戦場に駆り立てられ、亡くなった者あるいは図らずも生き残った者がいる。学校でも君が代の前で素直に起立出来ない記憶が残っている者もいる。政治家は「戦後は終わった」と。しかし引きずっている、曳航している者もいる

太平洋戦争、15年戦争で日本は朝鮮を占領した。言語まで奪い日本に同化させた。敗戦後朝鮮に対して謝罪を曖昧にしてきた。明確な謝罪が無かったと相手は思っているだろうな。その結果であろうな、北朝鮮から拉致され、大韓民国からは旧統一教会からは金品を巻き上げられた。日本の政治家、安倍晋三やら石っ原慎太郎を筆頭にして右派を含めて歴代の自民党政治家は本当の意味での謝罪をしなかったツケが回ってきたと言える。いや私の小生の俺の責務である。忸怩たる思いである

氏名名称、年月日等はWikipediaを参考引用した



わきまえちゃった菅義偉

2021-09-10 17:09:29 | 世評
菅義偉が3日午前の自民党臨時役員会で今回の総裁選には出馬しないと。二階俊博幹事長と加藤勝信官房長官ら関係者に伝えたのは3日の朝だったと

8月末から9月始めにかけての菅義偉総理の動きを見ると、8月22日横浜市長選挙で自らが支持した小此木八郎が負けた。
二階俊博幹事長が8月24日の記者会見で前回同様先陣を切って菅義偉の再選を支持
26日任期満了に伴う自民党総裁選を9月17日告示・同29日開票の日程を決定した。それを受けて、岸田文雄が26日に出馬会見し一期1年、連続3期までとすると表明した
29日菅義偉は宿舎で終日過ごした。丸1日の休みを取ったのは3月28日以来154日ぶりだと
8月30日午前下村博文政調会長は出馬する意欲があったが、菅義偉と官邸で会談して、出馬断念か政調会長辞任を迫られ、出馬断念したと。8月30日午前、森山国会対策委員長と加藤勝信官房長官とが国会内で協議して臨時国会見送りを決めたと。また首相官邸で二階俊博幹事長と会談し、二階氏を交代させる意向を伝達。二階氏も「自分に遠慮なく人事をやってほしい」と応じたと
8月31日菅義偉は自民党役員人事と内閣改造を来週行い、9月中に衆院解散に踏み切る意向だと、また総裁選の先延ばしも考慮していると
9月1日午前、菅義偉は衆院解散について「今の状況は衆院解散できる状態ではない」と。また「総裁選の先送りは考えていない」と、首相官邸で記者団の質問に答えたと
9月2日菅義偉は二階俊博幹事長と出馬を再確認したと
9月3日の党役員会で不出馬を宣言した。
9日に緊急事態宣言の延長決定の記者会見時に、総裁選に立候補をしない件についても語っていた

自民党総裁で事実上無派閥から選出されたのは菅義偉が初めてだった。安倍晋三から引き継いで総理大臣になった。総理大臣になった当初は世論調査では驚異的な支持率であった。無派閥で二代目で無い、地盤なし、看板なし、カバンなしの三バンが無かった。加えて雪深い田舎出、成り上がり者、いや、叩き上げ、苦労人と大衆からの支持率は上がったな

菅義偉は酒を飲めないと。酒でなく、昼間懇意の報道関係者を集めてパンケーキ会見もやったことも支持率上昇に貢献した。中国では無派閥の苦労人が一国の権力者になるのは異様であると報じられた。中国だけでなく、この国でも異色な権力者であろうな。菅直人が市民派から総理に上り詰めたが、菅義偉はどうだろうな

それは安倍晋三、麻生太郎に先駆けて、二階俊博幹事長が流れを作ったことにも寄るが、経歴は異色であった。朝起きて散歩も時間通り、趣味は新聞の人生相談だとか。電話の話も短いし、官房長官時代から民間人とは頻繁に会ってると。会って何を話しているのか分からない。仕事がいや人事が、人を動かすのが趣味のような男であった

人事と言えば、城山三郎の「官僚たちの夏」の主人公・風越信吾も冒頭、人事を考えていたが、風越信吾の人事は当時の通産省の個別でなく全体を考えていた。菅義偉の人事は何だな
総務省やNHKの一部の人事だな。総務大臣でも一部の部署を考えていた。株式会社は社長と副社長では月とスッポンだな。それは社長は人事権を持っているからだと。それ故任命権者の人事は難しい。本来なら人事とは任命権者が任命するが自らに振り返ってくる。人事で選んだ者が失敗したら、それは任命権者の責任とも言える

菅義偉は経歴も異色であったが、総理在任中も異色と言える。いや人物が異色であるかも知れない。官房長官時代に安倍晋三が総理在任が最長になった時に、毎日新聞社の記者だったかな。菅義偉に聞いたと。「最長とは重しかな、いや快楽かな」そして「ふふふ」と答えたと。官房長官の仕事は楽しいですかと聞くと、「こんな楽しいことはない。やりたいことが出来るから」と答えたと。この記者はすぐさま記事にせず、大分経ってからポツリと喋ったと

日本学術会議の会員の任命では、NHKテレビでの出演では司会者から聞かれ、「話せる理由と話せない理由もある」と。それも総理になって日が浅かった時である。この男は朴訥のせいか本音がポロリと出る。その点では麻生太郎と似ている

沖縄を訪問した時、知事だったか戦争中の沖縄のことを話していた際に、菅義偉は「私は戦後生まれであるから、戦争中のことは知らない」と話したとか。参っちゃうな。同じ神奈川県を選挙区に持つ小泉純一郎がいた。この男も話は簡潔だったな。変態と言われた割には大衆からの支持率は高かった。その小泉純一郎は憲法改正について歩きながら話していた

口とは重宝なもの。多弁でも口が足りなくても、総理には向いていない。菅義偉は口が足りなかったが、寡黙なのは総理に不適格ではない。ただ菅義偉の場合には人を食ったところがあった。だから説明、説得力が無かった。原稿の棒読みに始まり、記者会見でも再度の質問を受け付けず、下手をすると記者からの質問を事前に提出させていた

総理とは口が多すぎるのも困る。口数が多いと、口が軽くなる。訂正が多くなる。考えて喋る、あるいは喋りながら考えることは必要である。なんせ国家の指導者であるからな

菅義偉は次の総理に意欲満々であった。それが夜が明けたらコロリと変わった。何せ異色の成り上がり者、いや叩き上げである。最後は血迷ったか自己の延命だけを考えた。二階俊博の幹事長を交代すると。良く二階俊博が了解したが、すんなり決まったか。多分安倍・麻生連合に気を遣ったのだろうが、総裁選の前に人事の変更とは考えられない行為だな。総裁が変われば、任命した者はそれまでだな。いわゆる毒まんじゅうだな。誰も受けないな。長年自民党に在籍していれば、いやどの組織でもそうだな。新しい総裁に人事権があるな

解散はともかく、どうして人事に手を付けたか分からない。後で「総裁選で現職の総理・総裁がボロボロになる結果に終わってしまったら、総理が一年間で成し遂げた実績すら光が当たらなくなってしまう」と、「ボロボロになっても総裁選に突っ込むべきだと主戦論もありましたが、退くことが今後の菅総理に対する正当な評価につながるという考えでした」と小泉進次郎が連日会った際の進言であったと

連日小泉進次郎は菅義偉に会っていたと。援軍なら人事権の停止は進言しなかったのだろうか。菅義偉はどうせ無派閥で異色の自民党員であり、総理であった。いっそのこと、ボロボロになろうが、総裁選に突き進んでもらいたかった。それとも総理の快楽が無くなったから降りたか。サラブレッドならいざ知らず、成り上がり者、いや叩き上げなんだな。戦闘中に降りるとは異色の人物では無い

それなら、国会議員も辞めるだろうな。もう権力者の快楽は無くなったのだから、一介の衆議院議員では満足しないだろうな。戦い済んだら、いや最後まで戦ってもらいたかったが。それでこそ成り上がり者、いや叩き上げの真髄だろうな。戦い済んだら、後は抜け殻。総理は後釜が決まらないのでしょうがないが、次回の衆議院議員の立候補は止めれるだろう。安倍晋三は自民党議員の中枢にいる。親分とは経歴が違う。せめて菅義偉らしさは、親分に従うでなく、議員の立候補を止めることだな。歴代の総理は、総理を辞めても、議員を継続している。成り上がり者でなく、叩き上げなら違う道もあるだろう

八月(3) 季節.二十四節気.季語

2021-08-29 13:59:35 | 文化
横浜市長選挙で立憲民主党及び日本共産党の推薦・支持を受けた山中竹春が当選した。自民党は小此木八郎と林文子と割れたので、一本化出来なかったので負けた。割れた二人を合わせれば山中竹春の票を上回るが、何故割れたかを問うてない。

小此木八郎は菅義偉と両輪のごとくIRを推進してきた。それが政治屋だな。コロリと反対に転じた。林文子も反対から賛成へ転じた。政治屋とは主義主張がコロリコロリと変わっていく。安倍晋三からの路線であるが菅義偉に代わって、この男は説明をしない。理由を言わない、言えない。総理になってから日本学術会議の会員任命拒否から説明出来ない。記者からの質問をはぐらかす。官房長官からの姿勢は変わってない。親分に忠実に習うこともあろうが、原稿の棒読み、いや原稿さえ読めない

取りも直さず敗因は説明が無い、出来ないことに気付いてない。報道関係者も言わないが、今までIRに賛成が反対に転じても説明しない、出来ない。これじゃ人ならば言うことを聞かないな。こんな簡単なことが分からないな。これは菅義偉だけでなく、自民党の体質になりつつあるな。論理が無いと言うことは、感情で物事が決まるということだ

我が国には四季がある。気象庁のHPによると、知識・解説→気象に関する観測と予報の技術の解説→天気予報で用いる用語(予報用語)→予報用語について→時、地域、気象要素に関する用語→時に関する用語によると、春とは3月から5月まで、夏とは6月から8月まで、秋とは9月から11月まで、冬とは12月から2月までとなっている。一般的な認識であり、現実に即している

日本では明治6年(1873年)から暦を太陰太陽暦(旧暦)から太陽暦(新暦)に切り替えたと。太陰暦とは月の満ち欠けを基準にし、太陽暦とは太陽の運行に沿っての暦であると。新暦8月31日は旧暦では7月24日であり、新暦の方が1ヶ月少々遅くずれている。そして国立天文台HPによると、季節が変化するのは、地球が自転軸を約23.4°傾けたまま公転することが原因であると。二十四節気(にじゅうしせっき)とは、1年の太陽の黄道上の動きを視黄経の15度ごとに24等分して決められていると。また七十二侯は二十四節気を細分化したもので、二十四節「気」と七十二「侯」をあわせて「気候」となったと

国立天文台HPでは、今年2021年の二十四節気を公表している
春とは、「立春」は2月3日、「雨水」は2月18日、「啓蟄」は3月5日、「春分」は3月20日、「清明」は4月4日、「穀雨」は4月20日、である
夏とは、「立夏」は5月5日、「小満」は5月21日、「芒種」は6月5日、「夏至」は6月21日、「小暑」は7月7日、「大暑」は7月22日である
秋とは、「立秋」は8月7日、「処暑」は8月23日、「白露」は9月7日、「秋分」は9月23日、「寒露」は10月8日、「霜降」は10月23日である
冬とは、「立冬」は11月7日、「小雪」は11月22日、「大雪」は12月7日、「冬至」は12月22日、「小寒」は1月5日、「大寒」は1月20日であった

俳句とは、季語のない自由な俳句もあるが、一般的には季語・季題があると。季語とは、季節とは、歳時記があると。歳時記によると、季節は二十四節気によっている。春とは立春から立夏の前日まで、夏とは立夏から立秋の前日まで、秋とは立秋から立冬の前日まで、冬とは立冬から立春の前日までとなっている

NPO法人「きごさい(季語と歳時記の会)」によると具体的には、春は二月、三月、四月、旧正月(陰暦の正月)、睦月(旧暦1月)、如月(旧暦2月)、弥生(旧暦3月)、安吾忌(2月17日)多喜二忌(2月20日)、兼好忌(陰暦 2月15日)、八十八夜(今年は5月1日)、薪能、等々である

夏は五月、六月、七月、卯月(旧暦4月)、皐月(旧暦5月)、水無月(旧暦6月)、柏餅、隠元忌(陰暦4月3日)、御柱祭(信州諏訪大社では、寅年、申年の5月4日、5日に開催)、府中祭(暗闇祭、府中市の大國魂神社の祭礼、4月30日から5月6日に開催)、佞武多(元は陰暦7月7日の七夕の行事、現在は8月に開催)、草田男忌(8月5日)、等々である

秋は八月、九月、十月、文月(旧暦7月)、葉月(旧暦8月)、長月(旧暦9月)、爽やか、月、竿燈、盂蘭盆会(旧暦7月3日から16日)、風の盆(9月1日から3日)、国男忌(8月8日)、原爆忌、終戦記念日(昭和20年8月15日)、宗祇忌(旧暦7月30日)、西瓜、新酒、文化の日(11月3日、明治節)、白秋忌(11月2日)、等々である

冬は十一月、十二月、一月、神無月(旧暦10月)、霜月(旧暦11月)、師走(旧暦12月)、蕎麦掻、竹馬、小春(旧暦10月の異称)、達磨忌(旧暦10月5日)、節分(立春の前日)、覚如忌(旧暦1月19日)、義仲忌(旧暦1月20日)、

小生は、季語とは旧暦を基にしたのかなと思っていたが、そうでもないな。旧暦が新暦より1ヶ月ほど早くなってることを加味している

国立天文台HPでは過去の暦を保存して公表しっている。因みに明治5年(1872年)の旧暦では、雨水が1月12日、啓蟄が1月26日、春分が2月12日、清明が2月27日、穀雨が3月13日、立夏が3月28日、小満が4月15日、芒種が4月30日、夏至が5月16日、小暑が6月2日、大暑が6月17日、立秋が7月4日、處暑が7月20日、白露が8月5日、秋分が8月21日、寒露が9月6日、霜降が9月21日、立冬が10月7日、小雪が10月22日、大雪が11月7日、冬至が11月21日、小寒が12月7日、大寒が12月22日になっている。何故か立春が見当たらない

明治6年(1873年)の新暦では、小寒が1月5日(旧暦12月7日)、大寒が1月20日(旧暦12月22日)、立春が2月4日(旧暦1月7日)、雨水が2月18日(旧暦1月21日)啓蟄が3月5日(旧暦2月7日)、春分が3月20日(旧暦2月22日)、清明が4月5日(旧暦3月9日)、穀雨が4月20日(旧暦3月24日)、立夏が5月5日(旧暦4月9日)、小満が5月21日(旧暦4月25日)、芒種が6月6日(旧暦5月12日)、夏至が6月21日(旧暦5月27日)、小暑が7月7日(旧暦6月13日)、大暑が7月23日(旧暦6月29日)、立秋が8月7日(旧暦7月15日)、處暑が8月23日(旧暦7月1日)、白露が9月8日(旧暦8月17日)、秋分が9月23日(旧暦8月3日)、寒露が10月8日(旧暦9月17日)、霜降が10月23日(旧暦9月3日)、立冬が11月7日(旧暦10月18日)、小雪が11月22日(旧暦10月3日)、大雪が12月7日(旧暦11月18日)、冬至が12月22日(旧暦11月3日)となっている。

因みに明治5年12月3日の旧暦が明治6年1月1日に変えた。これらは国立天文台がHPで公表している。市民は国立国会図書館に出向かなくても、居ながらにして拝見することが出来る。民主主義とは面倒で不合理な、いや非合理な制度であるが、これは民主主義国家においては基本の基である。埴谷雄高は不合理ゆえに吾信ずと言ったが、そういうことはあるな。公文書とは公務員の手を離れたら市民の共有財産になる。権力者の都合で改竄や隠蔽することは、民主主義国家とは言えない。ましてやこういう者を選挙で投票すると言うことは、自ら主権者を辞することになることになり恥ずかしい行為である。それは選出した者とともに、それを容認する者も羞恥心を持つべきである

二十四節気の月日は太陰太陽暦(旧暦)でも太陽暦(新暦)でもほぼ同じ時期になっている。太陽の黄道上の視位置によるため旧暦でも新暦でもほぼ同じとなるため、歳時記においても旧暦と新暦の月日のずれは考慮済である。「暦の上では」とか言われるが、現実の季節感からずれている。その理由について、株式会社ONWAが運営している「記念日のしおり」「二十四節気の一覧とそれぞれの意味をわかりやすく解説」によると、二十四節気は諸説あるが、春秋戦国時代の中華大陸、黄河下流域で誕生したと、そのため名前や語源は黄河下流域の気候を元に作られたと、その後飛鳥時代だった6世紀ごろ日本に伝来したと、名前や時期も含めて、ほぼそのまま取り入れたと、そのため黄河下流域とは気候も違うので、名前や時期・語源と実際の気候がズレていると

ウィキペディア「二十四節気」では、このような事情から2011年、日本気象協会は現代日本の気候に合わせた新しい二十四節気を創造する事を目標とした準備委員会を設けた。一般からも意見を募り、2012年の秋頃には「21世紀の二十四節気」を発表し、周知させていきたいという意向を示していたが、「これまで培われた微妙な季節感を混乱させる」として反対の声が多く寄せられ2012年9月に計画は中止となり、現在でも二十四節気はそのまま使われている。一方、中国における「二十四節気」は、2016年10月31日ユネスコが無形文化遺産への登録勧告を決定していると

然れども昨今は気象変動が激しいが、やはり日本独自の季節を反映させることが必要であろうな。令和3年から気象庁は生物季節観測指針を大幅に変更した。生物季節観測の目的では、「その目的は生物に及ぼす気象の影響をしるとともに」が削除され、方法でも「目視又は聴力によって行い」から聴力が削除されている。観測対象種目も植物は34種類があじさい、いちょう、うめ、かえで、さくら、すすきの6種類に減少し、動物の観測は無くなっちゃった。柿、落葉松、栗、百日紅、水仙、たんぽぽ、チュ-リップ、椿、梨、桃、りんごなどは削除された。開花、満開、紅(黄)葉、落葉を目視していたがこれも発芽日を削除した。昔の気象庁は大変な仕事であった。機器による観測でなく、目視だから街や村に直接出向いていた。動物が鳥が虫が削除されたので聴力も無くなった。気象官も一見風流であったが、現実に即応せざるを得なかったかな。それなら二十四節気も現実に対応してもらいたいな。ユネスコの勧告が影響しているのであろうかな

春分は太陽黄経が0°であると。観測点はどこか分からない。太陽黄経は観測点によっても異なるだろう。中国からでも日本からでも異なるだろう。標準時間は日本においては、東経135°子午線と定めている。物語では木下順二、山本安英の「子午線の祀り」もあったがな

天文学、測量に関しては伊能忠敬がいた。商人、名主であったが、50歳で隠居して江戸へ出て天文学・暦学を学んだ。56歳から日本全土に測量に出かけ74歳没するまで測量を続けたと。偉人とは数多くいるが伊能忠敬ほどの偉人は見当たらないな

気象庁とは、かって久保栄が「日本の気象」を描いた。気象庁は官営であったが、今では民間で気象予報を手掛けるようになった。気象庁の気象予報官が資料や情報に基づき予報を行い、それに基づいて民間(気象庁以外の者)の気象予報士でも予報業務が出来るようになった。そのさまは、雲泥の差と言える

八月(2)五木寛之「風の王国」

2021-08-18 17:23:59 | 世評
五木寛之の「風の王国」を読んだ。初めて読んだ。多分文庫本では文字が小さいだろうと思い、図書館で借りた。昭和60年(1985年)1月25日印刷、昭和60年(1985年)1月30日発行、発行所新潮社、定価1,300円、上下巻ではなく1冊である。もっと長編かなと思ったが1冊にまとめている。発表誌は「小説新潮」昭和59年7月号から9月号である。従って第一部から第三部までの構成になっている

あとがきに、この小説は、作者の見聞と想像にもとづく創作であり、実際のいかなる団体や人物とも関係がありません。なお執筆にあたって参考にさせていただき、多くの啓発と暗示を得た文献、著書、論文等は左記の通りです。著者の方々にあつく御礼を申し上げます。なお様々な御教示をいただいた網干善教氏、太田信隆氏、K・A氏、その他の方々にも感謝の意を表する次第です。そして参考資料として何十冊、いや百冊は優に超えるであろうな、書名・著者名・出版社名を掲げている。

映画では最後に作品に関わった者や参考とした物を掲げているが、この「風の王国」も完とした後に夥しい参考資料を掲げている。それは虚構であるが、あり得る物語であり、この国の歴史書とも言えるからであろうな。この本は読みやすいし面白いんだな。小説、物語とは冒頭の場面で決まるとも言える。これからの物語の展開がどのように開けていくかが興味である。官僚たちの夏もそうだが、この風の王国も一気に読んでしまう、それほどの面白さを兼ね添えている。そしてこの国の歴史も変遷も描いている

「≪天武仁神講≫のことを、なぜ≪フタカミ講≫というのですか」
と、速見卓はきいた。ずっとそのことが気になっていたのだった。
「≪フタカミ講≫は≪二上講≫です。いま二上山と呼んでいるあの山を、古くは≪フタカミヤマ≫と言っていたところから、葛城遍浪先生が講を作られるときに山の名前を借りられたそうです。いつまでも二上山のことを忘れまいという強いお気持ちからでしょう。そのことは、少しずつお話します。」
葛城哀の言葉を勇覚がおぎなって続けた。
「むかしの仏門の隠語で、数をかぞえるときの一を≪大無人≫といったそうですね。つまり大という字から、人を無くすと、一になるでしょう。二は、天無人。天から人を無くして二です。つまり天武仁とは音を合わせて字を選んだ≪二≫の隠語というわけだ。神講は、カミコウ。いいですか。天武仁がフタツの意。神はカミです。宗教法人として届けてあるのが、≪天武仁神講≫。≪二上講≫という結社の名を、世間に知られたくない理由があったのですね。こういう隠語を、昔はさまざまな職業の人が独自にもっていたようです。さっきの例でいいますと、三が王無棒(オウムボウ)。王からタテ棒をとると三。四が署無者(ショムシャ)。五が吾無口(ワレムコウ)。六が立無一(リュウムイチ)。七、切無刀(セツムトウ)。八は釜無金(カマムキン)、九が鳩無鳥(キュウムチョウ)。この九などは、まことによくできていると思いますよ」
「ということは、講の仲間と話すときは≪フタカミ講≫といい、外部には≪天武仁神講≫というわけですね」
「そうです」
勇覚はうなずいて言った。

物語は明治の初めの頃、大和の葛城山中にひとりの若い山岳行者いた。彼の修行の中心地は竹内街道に接する二上山だった。彼は村の人々には近づかなかった。そのかわり吉野から大和、河内の川筋をつたって、回帰性の移動・周遊の暮らしをおこなっていた無戸籍の移動生活者のグループ、つまり≪ケンシ≫たちとだけひそかに接触していたようです。それは≪箕作り≫の一族だった。

古くから大和の支配者の条件のひとつは、大和川の治水と≪竹内街道≫の整備にあった。竹内街道は日本最古の官道と言われる。明治の難工事としてスタ-トした大開墾は当初は労務者、ついには囚人を工事に駆り立てたが支配者は苦心した。最後の人員調達が明治10年の大和・和泉・河内地方での無戸籍の浮浪者狩り、いわゆる彼らの名づけた≪山窩狩り≫だった。

現場監督は、強制連行した二百四十数名の老若男女を、ひとまとめに二上山の麓の採石場跡に収容した。若い山岳行者も一緒に狩られた。彼は容貌と身軽さから≪葛城の猿≫と呼ばれた。二上山の開墾工事は再開された。≪葛城の猿≫はいつの間にか仲間たちの世話役としてリーダー格の存在となっていった。彼はじつに≪一心無私≫の人であった。

ある日、工事責任者が配下の男たち数人を連れて労務者の中から丈夫そうな男八人を選んで、多分隠遁した美術品を掘り起こすために使役に狩り出した。八人は全部≪ケンシ≫の仲間であり、≪葛城の猿≫も志願してその中に入った。着いた所は浜寺の海岸ぞいにある廃屋であった。その晩の真夜中に舟に乗って、とある場所に着いた。そこは二上山の雄岳の頂上にある大津皇子の墓と、どこか似ていた。ここを掘れと命令され、分厚い巨大な石の板が出てきた。八人の男たちは石面に穴をあけたら別の場所に連れていかれ、また穴を掘らされて生き埋めにされた。

≪葛城の猿≫は、自分の体の上に七人の体が彼をかばうように覆いかぶされたので、彼だけ地上に這い上がれた。そして現場監督の自宅を突き止め一刺しで倒して二上山に戻って皆に状況を説明した。皆のむくろの下で自分だけが助けられた。だから残されたわしは、一生をかけて、ここにいる仲間のためにつくすと。≪葛城の猿≫の本当の名前は≪バサラのヘンロウ≫という。伊豆の≪ケンシ≫をハナれた者だ。わしの奥津城は、今日からこの大和の二上山と決めた。名前も≪葛城の遍浪ヘンロウ≫と変えると言った。伊豆の山中にわしの同胞(キョウダイ)がいる。八家族、五十五人が二上山を脱出して伊豆への二百里の≪大疾歩(オオノリ)≫に出発した。

天城を越え、途中で八人を失い、着いた時は四十七人になっていた。これから先は≪ケンシ≫の姿はこの国から消えるだろう。だが、われらは滅びてはならぬ。世間にトケコみ、そのなかで力をつけ、ひそかに≪ケンシ≫の心を保ち続けて生きるのだ。われらはあの雲に隠れた二上山を決して忘れまい。

葛城遍浪はまず≪フタカミ講≫という結社を創った。世に言う≪天武仁神講≫だ。≪ケンシ≫の心を隠して一般社会にトケコむために、死にもの狂いで戦った。無からの出発だった。また講の内外では、葛城の遍浪を中心に、≪へんろう会≫という組織もできた。

へんろう会の代表世話人である射狩野冥道が社主である射狩野総業60周年の宴で≪フタカミ講≫二代目講主葛城天浪は出席せず、娘の葛城哀が宗教法人・天武仁神講の講主代行として祝辞を述べた。遍浪先生の信念とは、一に相互扶助、二に自然共存である。そして共に助け合い、わかちあう心を、一心無私と言った。また一所不在と念じられたのは、自然の山河を故郷として生きる志です。そして先生はその八十余年の生涯を、苦しみつつある友を助け、大自然を愛し、一生無籍のまま、山河を放浪して終えられた。いまの≪へんろう会≫の中には、道を誤って、先生のご遺志に背いた道をゆきつつある人々が、おられるのではないか。相互扶助の名のもとに、さまざまな利益優先の連合を組み、自然開発の名のもとに、かけがえのない自然の山河を荒廃させることに組みする企業がありやしないか。と
講が射狩野グループに対して宣戦布告をした

伊豆には婆沙羅峠(バサラトウゲ)をくだったあたりに≪箕作≫という地名がある
興味ぶかいのは、686年、大津皇子(オオツノミコ)の処刑にあたり、共同謀議の罪にとわれた礪杵道作(トキノミチクリ)が流されたのも、この土地だと伝えられていることです。すなわち、古来、≪箕作り(ミツクリ)≫は同時に山中の≪道作り(ミチツクリ)≫でもあったわけですね。また、役小角(エンノオヅヌ)も伊豆へ流されております。

本来≪ケンシ≫たちには、里人に物をもらって感謝するという習慣はなかったようです。自然も、人間も、共生し、相互に扶助することが生きる道だと信じていたからでしょう。物乞いも、りっぱな人間の生きかただったのです。

670年にいわゆる≪庚午年籍(コウゴネンジャク)≫が制定されて以来、戸籍はつねに権力の基礎でした。しかし、それにもかかわらず、明治から昭和にかけて挙国一致体制のもとで、なお戸籍編入をこばみ、国民の三大義務である≪徴兵≫≪納税≫≪義務教育の≫三つを無視しつづけた多くの人々が、この日本列島を地下水のようにひそかに流動していたことを誰も否定することはできないでしょう。
日清戦争の動員のあとでさえ20数万人、第二次大戦後の昭和24年の時点でなお、約1万4千人の箕作り系≪ケンシ≫たちが無戸籍のまま、この列島に流動していたといわれます。その他の職業についた≪ケンシ≫たち、また無職漂泊の人々も加えれば、80数万人の人々が戸籍をもたず、流動していたのです。それらの非・国民を根こそぎ強制的に定着させたのが、昭和27年、朝鮮戦争を機に、国家再編成をすすめる基本として全国的に施行された≪住民登録令≫でした。
この列島にすむすべての人間は、登録法にもとづいて居住地を定め、その住所を届出ると同時に、米穀通帳、国民年金、健康保険、選挙人名簿等を一括登録することを義務づけられたのです。のちに≪住民基本台帳法≫として完成するこの政令は、戸籍を拒否する人間は一人たりともこの国にはすまわせないという、強烈な国家の意思を反映した無籍者への最後の一撃でした。
これによって、実質的に千数百年の≪浪民≫の歴史は、表面的にその幕をおろすのです。

「無籍流浪の人間は為政者にとっては困りものです。徴兵ができない。税金・年貢がとれない。国家の義務教育を受けようとしない。つまり国民の三大義務を拒否する人々ですからね」
速見卓は、どこかで昔読んだ本のことを思い出して勇覚にたずねた。
「日本人には海の民と、山の民がいるという話がありますけど、≪ケンシ≫は、どっちのタイプなんですか」
「海は川に通じている。川は谷に通じ、谷は山に入る。山に住む人は、心の底でいつも海のことを懐しがってるんですよ。山脈のことをヤマナミ、山の波と呼んだのもそれです。つまり山の民の祖先は海の民なんですね。柳田国男は、山の神がなぜかオコゼという海の魚を好むという話を、ひどく興味をもって書いていますが、山の神さんも海が恋しいのは当然ですね。山の神も、そもそもは海からきたんですから」
「≪ケンシ≫とい言葉は、どこから来たんでしょう?」
「ただひとつこれだけはおぼえておいてください。遍浪先生のお言葉にこういうのがあります」
勇覚が目をとじて言った。
「山を降りて里に住まず、里にありて山を離れず、山と里との皮膜(アイ)に流れる者、これを世間師(セケンシ)というと」
「≪ケンシ≫は≪セケンシ≫の略ですか」
「いえ、はっきりはわかりません。≪山窩≫という俗称からよく誤解されますが、≪ケンシ≫はいわゆる、深山に住む山人ではないのです。山を降りて、人と世の間を、つまり世間を流れ歩いて生きると決めた一族です。山を降りながら平地に居つくことをしなかった私たちの先祖は、かならず人々の住む場所に近づきすぎぬ程度に接して生きてきたのです。農家の箕直し、箕つくりなどをして回帰性の周遊をくり返すグループが大半のようにも言われますが、それだけでもない。≪ケンシ≫にはいろんな暮らしの道がありました。私たちは、むしろ一つの国家に属することをこばんで、常に流れ生きることを選んだ浪民の末裔なのでしょうか。この管理社会とよばれる現代に、遍浪先生ののこされたその言葉が可能かどうか、私たちはそれをこころみながら生きようとしている。そんな気がします。」

一畝不耕(イッセフコウ)   一所不住(イッショフジュウ)
一生無籍(イッショウムセキ) 一心無私(イッシンムシ)

もともと講も≪へんろう会≫も、はじまりは一族の心と心の結びつきから生まれた。それが初心である。≪フタカミ講≫二代目講主の葛城天浪は、私はこのたび、カクレることに決めたと。そして≪フタカミモウデ≫の一行五十五人は二上山を目指して出発した。一行は深夜、伊豆山権現奥の院前に集合して、沈黙のうちに出発した。二上山を訪れた後は、必ず最後に仁徳陵に向かうのが≪フタカミモウデ≫のしきたりであった。「世界の多くの人々の思想は勝つか、負けるか、だが、私はそのどちらも好かん」と天浪は言った。速見卓は「でも、もし、勝つか、負けるかの、二つのどちらかの道しかないような時は」遠慮がちに天浪に訪ねた。「道は必ずあるものだ」と天浪講主は速見卓をみつめた。「もし、どちらかを選ばなければならない時がきたなら・・・」「どうするかな、哀」哀は眉一つ動かさず、静かな口調で言った。「負けます」

「よく言った。それでこそ三代目の講主だ」天浪の頬に赤味がさし、目に歓びの光がかがやいた。「勝つか、負けるか、それをぎりぎりの地点で迫られた時は、負けるがよい。負けて、無一物の姿となり、世間の陰を流れて歩くがよい。それが≪ケンシ≫の心だと私は悟った」そして二上山の巨大な風穴が縦横無尽に走っている穴にカクレ外からその穴を埋めさせた。射狩野冥道は銃撃に倒れたと。教団は自滅の道を辿り、無に戻った

この≪フタカミ講≫とは、米を食うと泥腐ると言って水田耕作をしない。正月の三ケ日の間、餅を食べない。山野でとれる雑穀類を食べた。ひえ、あわ、きび、とち、そば、それに大豆、小豆などの豆類や山菜、甘藷、山芋、その他の根菜類などが常食だったと。また幼時から歩くことを訓練された。歩行と言うと。偏平足まがいの者が多いと。そして口伝えによる文化の伝承を、文字による記録よりも大切にして生きてきたと、また知らない土地を旅するときには、ピストルは持ってなくても、精一杯の笑顔を忘れるべきじゃないと

この風の王国は自滅したが、続編を、青春の門のように再生を望むが、これはこれで良いかも知れない。何時だったかな、朝日新聞の声欄にネパールだったかな。自国では戸籍がないと。日本に来て結婚して姓が変わるので、自分ではないように感じたと

伊勢丹だったか靴売り場にシューフィッターがいた。俺の足は偏平足で汚いが・・・。今までに出あった足で、美しい足に会いましたかと聞いたら、ネパールだったかな、ヒマラヤの山地だったな。美しい足は良く歩く足だろうな

五木寛之に「戒厳令の夜」がある。あらすじは忘れたが、終盤は武装蜂起だったか。高橋和巳に邪宗門がある。大本教をヒントにした宗教教団の物語である。最後は仲間の第三高生と一緒に武装蜂起した。敗戦後、松本清張は日本の公安は優秀である。武装蜂起しようにも武器が無かったんじゃないかと言っていたが、軍部が崩壊しても武装蜂起は無かった。赤軍派が世間の脚光を浴びたのは、戦後もずっと経ってからであった

松本市でオウム真理教がサリンをまいたが、公安は分からず、一住民が犯人扱いされた。上九一色村に官憲が乗り込んだのは後になってからである。オウム真理教が動いたのは戦後も大分経ってからである。オウム真理教の信者たちは俗世間から離れ、上九一色村で出家したとか。国政選挙に立候補して若者を捕まえるべき踊っていた。国政に出たならば、その前に村長や村議会を考慮しなかったのだろうか。優秀な人間がいたのに、理解できない。上九一色村は風光明媚だったが、合併で無くなったが、当時の人口は2,000人を割っていた。数では、そして原住民に溶け込めば合法的に村の自治権を握ることも出来たろうに

一時、住基ネットの接続を拒否した自治体があった。住民の利益にならないとのことで国立市、矢祭町も拒否していたが、2012年に国立市、2015年に矢祭町が住民基本台帳ネットワークシステムへの接続を始めたと。マイナンバー制度への対応だと