思想とは哲学用語であるかな。カ-ル・マルクスは下部構造が上部構造を規定すると言った。どうも昨今の世は経済によって世が成り立つようであるな
「哲学」や「思索」や「思想」や「思惟」や「考察」や「概念」や「知識」と言う言葉は日本には無かったな。江戸から明治になり西欧から文化や文明が移入された。あの当時の西周らの学者は日本語に無い言葉を作ったな。
今は、報道機関に寄れば、年末に流行語大賞とか設けている。いや報道機関ではなく「ユ-キャン」が設定した企画に、報道機関が乗っかっている。それも一社だけでなく、右にならえだな。もっともだから報道と言われるかな。報道とは道を報ずるだな。各社の行き着く道は一緒であるかな
今の流行語大賞は日本語ではなく、一種の広告、宣伝だな。宣伝だから質でなく数だな。数多く撃てば当る。丁度、変態の奔りだった小泉の純一郎の、郵政民有化、改革だな。それは言葉ではなく、坊主が何回も唱える標語のようなものだ。数多く撃てば、段々と真実味を帯びてくる。嘘でも何回も何回も唱えれば、本当になってしまうな。それが道を報ずると言うことだな
まあ、あの明治初頭の知識人からすれば、報道機関とは恥ずかしさを感じ入る。言葉を作る方が、日本語を作っていく作業の方が、はるかに面白さはある。流行歌はそれなりに時代を感じるが、流行の大賞は時代を超えているかな
まあ、時代のせいにするなと茨城ののりこの声が聞こえてくるが。声なき声が、つぶやきでなく、お叱りだな
電子計算機とはコンピュ-タとは従来二進法と言われた。正か反だな。あるいは丁か半かな。コンピュ-タが出始めの頃は少数意見を吸い上げると言われたな。いや有識者が言ったのだな。コンピュ-タがパ-ソナルコンピュ-タになり、電話機が黒電話から多数から個の携帯電話に変わった
集団から個に移った。全体主義から民主主義に移行したと。日本の憲法も集団の公共の福祉から個の基本的人権に変わった。全体主義から個人主義に移行された。結構毛だらけ猫ハイだらけかな
昨今のテレビも面白いものもある。昔は俳句や川柳などは大衆のテレビには適さなかった。夏井いつき、やはり松山だな。先生とはいるものだな。解説が面白い
松山と言えば、正岡子規かな。鶯谷のラブホテル街の中に子規庵がひっそりと建っている。辞世の句は 糸瓜咲て 痰のつまりし 仏かな
子規の友人であった夏目漱石、坊ちゃんの「そんで もし」松山弁は江戸っ子には、まどろっこいな。子規は松山中学出身。今の松山東高校とか。大江健三郎も内子町大瀬から出て松山東高へいったな。大瀬の森からは松山までは毎日通えない。松山には、ハイカラな伊丹十三がいた。友が友をよんだ
物識りはいる。インタ-ネットの世では恐ろしく物識りは存在する。テレビの世界でも映像でもクイズ番組が華やかである。予備校の教師だった林修がいる。日本放送教会あがりの池上彰も色々知っているな。また変わり者のアナウサ-安住紳一郎はパンダとか詳しいんだな
昔は生き字引と言う言葉があった。博学で博識で学識もあり、思想もあった。しかし今の物識りはただ物を知っているだけなのだな。点だけで線になっていない。まさに報道機関が求める人材だな。一点は知ってる、次の点も知ってる。しかし点と点を繋いで線にならない。現代の時代を表している
翻って、政治家、政治屋を見回していると、腹の中が分かってしまう。考えがわかっちゃうんだな。昔の政治家は腹芸が出来た。いや政治家とは腹話術じゃなく、腹芸家だったな。何を考えているか分からない。今の政治家は利権が諸に出てしまう
政治家とは利権屋なんだな。新型の政治屋、維新の橋の下、小池の百合子は報道によると支持率は高いあるいは高かった。しかし、思想が強く出しすぎる。橋の下は歯切れは良いが国家意識を丸出し。経済優先である。経済優先は安倍の小倅と同じだな。あるいはお友達。カジノ法案は橋の下の発案かな
小池の百合子も、予算の復活枠を議員経由でなく、都知事の直轄とすると。議員にすれば選挙民との接点が無くなってしまう。選挙民とは支持者とはマルクス言う所の下部構造で繋がっている。それが無くなる事は大問題だな。利権の取り合いだな。
都議会議員の七人の侍は自民党から除名されたと。お池の百合子も検事あがりの若狭なにがしも除名なし。自民党をぶっつぶすと言っていた小泉の純一郎と同じだな。組織に役に立つ人間は残しておく。あるいは残った方が利益になるとの思惑があると、組織から出ないな
お笑いだな。現実のテレビのお笑いよりも面白いな。これも報道機関次第だな。
「哲学」や「思索」や「思想」や「思惟」や「考察」や「概念」や「知識」と言う言葉は日本には無かったな。江戸から明治になり西欧から文化や文明が移入された。あの当時の西周らの学者は日本語に無い言葉を作ったな。
今は、報道機関に寄れば、年末に流行語大賞とか設けている。いや報道機関ではなく「ユ-キャン」が設定した企画に、報道機関が乗っかっている。それも一社だけでなく、右にならえだな。もっともだから報道と言われるかな。報道とは道を報ずるだな。各社の行き着く道は一緒であるかな
今の流行語大賞は日本語ではなく、一種の広告、宣伝だな。宣伝だから質でなく数だな。数多く撃てば当る。丁度、変態の奔りだった小泉の純一郎の、郵政民有化、改革だな。それは言葉ではなく、坊主が何回も唱える標語のようなものだ。数多く撃てば、段々と真実味を帯びてくる。嘘でも何回も何回も唱えれば、本当になってしまうな。それが道を報ずると言うことだな
まあ、あの明治初頭の知識人からすれば、報道機関とは恥ずかしさを感じ入る。言葉を作る方が、日本語を作っていく作業の方が、はるかに面白さはある。流行歌はそれなりに時代を感じるが、流行の大賞は時代を超えているかな
まあ、時代のせいにするなと茨城ののりこの声が聞こえてくるが。声なき声が、つぶやきでなく、お叱りだな
電子計算機とはコンピュ-タとは従来二進法と言われた。正か反だな。あるいは丁か半かな。コンピュ-タが出始めの頃は少数意見を吸い上げると言われたな。いや有識者が言ったのだな。コンピュ-タがパ-ソナルコンピュ-タになり、電話機が黒電話から多数から個の携帯電話に変わった
集団から個に移った。全体主義から民主主義に移行したと。日本の憲法も集団の公共の福祉から個の基本的人権に変わった。全体主義から個人主義に移行された。結構毛だらけ猫ハイだらけかな
昨今のテレビも面白いものもある。昔は俳句や川柳などは大衆のテレビには適さなかった。夏井いつき、やはり松山だな。先生とはいるものだな。解説が面白い
松山と言えば、正岡子規かな。鶯谷のラブホテル街の中に子規庵がひっそりと建っている。辞世の句は 糸瓜咲て 痰のつまりし 仏かな
子規の友人であった夏目漱石、坊ちゃんの「そんで もし」松山弁は江戸っ子には、まどろっこいな。子規は松山中学出身。今の松山東高校とか。大江健三郎も内子町大瀬から出て松山東高へいったな。大瀬の森からは松山までは毎日通えない。松山には、ハイカラな伊丹十三がいた。友が友をよんだ
物識りはいる。インタ-ネットの世では恐ろしく物識りは存在する。テレビの世界でも映像でもクイズ番組が華やかである。予備校の教師だった林修がいる。日本放送教会あがりの池上彰も色々知っているな。また変わり者のアナウサ-安住紳一郎はパンダとか詳しいんだな
昔は生き字引と言う言葉があった。博学で博識で学識もあり、思想もあった。しかし今の物識りはただ物を知っているだけなのだな。点だけで線になっていない。まさに報道機関が求める人材だな。一点は知ってる、次の点も知ってる。しかし点と点を繋いで線にならない。現代の時代を表している
翻って、政治家、政治屋を見回していると、腹の中が分かってしまう。考えがわかっちゃうんだな。昔の政治家は腹芸が出来た。いや政治家とは腹話術じゃなく、腹芸家だったな。何を考えているか分からない。今の政治家は利権が諸に出てしまう
政治家とは利権屋なんだな。新型の政治屋、維新の橋の下、小池の百合子は報道によると支持率は高いあるいは高かった。しかし、思想が強く出しすぎる。橋の下は歯切れは良いが国家意識を丸出し。経済優先である。経済優先は安倍の小倅と同じだな。あるいはお友達。カジノ法案は橋の下の発案かな
小池の百合子も、予算の復活枠を議員経由でなく、都知事の直轄とすると。議員にすれば選挙民との接点が無くなってしまう。選挙民とは支持者とはマルクス言う所の下部構造で繋がっている。それが無くなる事は大問題だな。利権の取り合いだな。
都議会議員の七人の侍は自民党から除名されたと。お池の百合子も検事あがりの若狭なにがしも除名なし。自民党をぶっつぶすと言っていた小泉の純一郎と同じだな。組織に役に立つ人間は残しておく。あるいは残った方が利益になるとの思惑があると、組織から出ないな
お笑いだな。現実のテレビのお笑いよりも面白いな。これも報道機関次第だな。